第95回 辛亥革命後の中国と袁世凱(えんせいがい)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承するの記事 第84回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~清国はどのようにして崩壊したのか⑤~

消費増税に関連した記事を挟みましたので、シリーズ第二次世界大戦に関する記事はずいぶん久しぶりになります。

改めて、シリーズ第二次世界大戦を掲載している目的は、第73回の記事においてお示しした、日本が大東亜戦争(太平洋戦争)を起こした理由が、実は「きれいごとに過ぎないのではないか」という疑問。
これを解消するためです。

第73回の記事においてお示しした内容で、日米・日英開戦については説明できるかもしれませんが、このときすでに日本と中国は戦争状態にあり、第73回の記事内容で、日中戦争のスタートまで、「美談」で語ることはできないんじゃないか、という理由です。

そこで、開戦前の近代史における日本と中国との関わり合いの中で、度々登場する「満州」という地域の歴史。これを追いかけて継承する記事の内容にまでたどり着きました。

5回に渡る記事で、「満州人」が興した「清国」。この国が崩壊するまでの過程を追いかけました。
前回の記事では、中国の「武昌」という地域で、兵士たちによって引き起こされた武装蜂起によって占領された武漢市武昌区。
ここで設立宣言がなされた「中華民国軍政府鄂軍都督府」。

この武装ほう起をきっかけに、中国18省中15省が清朝からの独立を宣言したこと。

そして武昌蜂起の鎮圧に向かった「袁世凱」が清朝を裏切り、裏で革命政府と交渉し、清朝と革命政府が停戦。
亡命生活から戻ってきた孫文が中華民国の初代臨時大統領として就任し、「中華民国」の設立を宣言。

袁世凱は裏から手を回し、清朝のラストエンペラー宣統帝を退位させ、この時点で清朝は滅亡。
孫文は大統領の座を袁世凱に譲ります。ここに、2000年もの間続いた中国の「帝政」は終焉をむかえたと、ここまでお伝えしました。

今回の記事では、辛亥革命の後、大統領の座に就いた「袁世凱」。彼の動向に着目して記事を作成したいと思います。


袁世凱という人物

私、「清朝はなぜ滅亡したのか」という5回のシリーズにおいて、清朝が滅亡するキーパーソンとなる人物は孫文だと考えてずっと記事を作成しようとしていたのですが、当時の中国の歴史を追いかけていると、どうもキーパーソンとなるのは孫文ではなく袁世凱なのではないかと考えるようになりました。

「袁世凱」という名前は、今回の辛亥革命だけでなく、李氏朝鮮における「東学党の乱」清国における義和団の乱など、その要所要所に名前が登場します。

しかもそれぞれの舞台でポジティブな意味合いでの「大活躍」をしています。
本当に有能な人物であったのだろう、と推測できます。

さて、そんな袁世凱ですが、『中央の元首が強権を振るうことで初めて麻のように乱れた中国はまとまり得る(Wikiソース)』という考え方を持っていたようです。そしてそれは、何も袁世凱独特の考え方ではなく、当時の中国では主流となる考え方で、孫文も同じような考え方を持っていたのだとか・・・。

ところが、そんな袁世凱らの考え方に対立する存在として、1912年8月に結成された「国民党」。袁世凱が大統領として即位したのが1912年4月でしたから、その4か月後ですね。

その国民党で実質的な指導者であった宋教仁という人物。彼は袁世凱とは真逆で、最高権力者の権力を制限し、「議院内閣制」によって政権を運営していくべきだ、との主張を行いました。宋教仁の考え方は、当時の中国国民の支持を多く集め、同年12月の選挙で圧勝。

宋教仁に対して危機感を覚えた袁世凱は、翌年2月に宋教仁を暗殺します。
その後、大統領の権限を強化し、任期を長くしたりするわけですが、この姿勢を見ると、どうも袁世凱は、「権力欲に取りつかれている・・・」というような印象も確かに受けるのですが、例えば『「議院内閣制」によって政権を運営』すべきだという考え方は、どこかで見たことがありますよね。

そう。「共産主義」から派生した「社会主義」的な考え方です。袁世凱は、これに対して危機感を覚えていたのではないかと、そんな印象を受けます。

「中華帝国」の誕生

袁世凱に関する逸話としては、いくつかピックアップしたいものもあるのですが、その詳細は後日にゆだねるとして、今回は主に概略を掲載したいと思います。

袁世凱は大統領の権限の改革を行った後、他国からの借款によって近代化資金を集め、この資金で中国国内の近代化を図ります。これに反発した反乱軍の中に「孫文」の姿があります。反乱軍は袁世凱によって鎮圧され、撃退されます。(孫文らは日本に亡命:第二革命)

これまで臨時大統領であった袁世凱ですが、同年10月に正式に大統領として就任します。
更に国民党の国会議員を全員解職させます。

更にその翌年。1914年7月に発生したのが第一次世界大戦。大戦に参戦した日本は、中国国内、膠州湾岸のドイツ領を占拠。
袁世凱はこのタイミングで日本に対して日本が占領したドイツ領膠州湾岸を返還するよう求めるのですが、受け入れられず、逆に日本から「対華21か条要求」を突きつけられます。(このあたりは後日記事にて深めたいと思います)
袁世凱は拒否することができず、「対華21か条要求」は成立。

袁世凱はこのような不安定な状況の中で「帝政」を復活させ、国号を「中華帝国」と改めたようです。(1916年)
前述しましたが、袁世凱が危機感を覚えていたのは、欧米列強による思想の掌握にあったのではないかと思うのです。

フランス革命ほど残酷ではありませんが、やっていることはフランス革命における一連の流れに酷似しているように思います。
袁世凱は「王政・貴族」側ですね。

ですが、結果的に彼のこの態度は国民の反発を買うこととなり、このタイミングで日本政府からも激しい非難を受け、1916年3月に失脚。同年6月に病死することとなります。

この後、再び「中国大陸」は再び「軍閥割拠」の時代へと突入し、時代の統制はのちの蒋介石の登場を待つこととなるのです。

次回記事では、この「蒋介石」の登場に向けて記事を進めていきたいと思います。


このシリーズの過去の記事
>> 第84回 辛亥革命についてのあらすじ:清国の崩壊と中華民国の誕生~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
このシリーズの新しい記事
>> 第106回 対華21か条要求とは何だったのか(日本と中国の軋轢)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~ にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 よりご確認ください


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