第76回 日露戦争時の中国政府(崩壊するまでの清国①)~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>十五年戦争(日中戦争)の原因と結果


<継承する記事 第74回 なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~『満州』の歴史~

一つ記事を飛ばしましたが、改めまして、シリーズ第二次世界大戦へと路線を戻します。

第74回の記事では、日露戦争以降の近代史において、たびたびその戦闘の舞台となる「満州」。
日本と中国がなぜ戦争状態に陥ったのか。ここを解明するために、この満州にポイントを絞って調査しました。

まとめますと、

・満州とは、漢人最後の王朝である「明国」を滅ぼし、中国最後の王朝である「清国」を打ち立てた民族、「女真族」が、健在で会った当時の明国より統治を任されていた地域のことである。
 「女真族」が清国を打ち立てた後、正式に「満州人」と名乗ったことに由来する。

・産業革命により圧倒的な武力を有するイギリスによりアヘン戦争・アロー戦争を仕掛けられ敗北し、不平等条約を結ばされることになる。
 同調して参戦したフランス、ロシアに対しても同様の条約を結ぶこととなり、ロシアに対しては満州北部における権益を認めることになる。

・清国は日清戦争でも敗北し、日本に対する補償を肩代わりしたロシアとの間で「密約」を結ぶことになる。
 この密約の中にがロシアが満州に軍隊を駐留させる根拠ともなっていた。

・ロシアの南下政策に脅威を覚えた日本はロシアに対して日露戦争を仕掛け、勝利。
 ポーツマス条約により、日本はロシアに対して、ロシアが清国から得た一切の権益と財産を日本に譲渡することを認めさせた。

と、ここまでが前回までの流れ。
日露戦争ではこの「満州」という地域が舞台となったわけですが、ではこの間。
自国領土であるはずの「満州」で日本とロシアが戦争を繰り広げている間。肝心の「清国」はいったい何をしていたのでしょうか。

これが、今回のテーマです。


先に、少し年表を整理してみます。

1616年 女真族「ヌルハチ」により、後金国(のちの清国)誕生
1636年 ヌルハチの子、ホンタイジにより明国の一部と南モンゴルが征服され、女真族、モンゴル人、漢人の間で開かれた大会議により、ホンタイジは正式の皇帝として即位。国号は「金」より「清」に改められ、「女真」の民族名も正式に「満州(マンジュ)」に変更する。
1644年 農民である李自成の乱により北京が陥落され、明が滅亡する。李自成はここに建国するが、清によって滅ぼされる。

1840年 アヘン戦争勃発
1842年 アヘン戦争終結。不平等条約「南京条約」締結
1851年 清国内で結成されたキリスト教集団「太平天国」により、「太平天国の乱」が勃発
1856年 アロー戦争勃発
1858年 ロシアとの間で不平等条約「アイグン条約」締結。ロシアに北満州を譲渡
1858年 英仏連合軍により広州が占領され、更に北上し天津が制圧される。英仏米露との間で「天津条約」が結ばれる。
1860年 アロー戦争終結。英仏との間で不平等条約である「北京条約」締結。清国内でのキリスト教の布教活動が自由化される。
1863年 太平天国の乱収束
1894年 日清戦争勃発
1895年 日清戦争終結。日本との間で(清国にとっての)不平等条約、「下関条約」が締結される。
1904年 日露戦争勃発
1905年 日露戦争終結。日露間で、ロシアにとっての不平等条約、「ポーツマス条約」が締結される。

これが、日露戦争が終結するまでの歴史の概略です。
途中、これまでの話題には登場しなかった歴史的なイベントを一つ加えています。それが、「太平天国の乱」です。

どうも、清国が崩壊するに至る歴史をたどってみると、一つのキーワードとして「キリスト教」という言葉が重要な役割を果たしているのではないかと感じられます。驚くのは、この「太平天国の乱」が勃発した1851年単年では収束せず、その後アヘン戦争、アロー戦争が勃発し収束した後、1863年まで継続しているということです。



画像はWikiから拝借しています。これは、太平天国の乱の舞台となった「太平天国」が築かれた地域の地図です。
この地図を、もう一つの地図、こちらの地図と比較してみましょう。



こちらは第74回の記事でお伝えした、清国の外交政策「広東システム」。このシステムにおいて唯一国外との接触を認められていた地域、「広東」です。

見ていただくとわかると思いますが、「太平天国」はこの広東から広がっています。
清国にキリスト教を広めたのはロバート・モリソンというプロテスタントの宣教師。イギリス東インド会社の後ろ盾を受け、1809年ころより清国への布教を始めた、とあります。

彼が一生を終えたのは1834年で、清国広東にてその一生を終えます。
太平天国の乱を引き起こしたのは洪秀全という人物で、やはり広東省出身の人物。彼が太平天国の前身である拝上帝会を設立したのは1847年。モリソンの没後13年後のことです。

ちなみにアヘン戦争を引き起こす原因を作った「アヘン」も当然この広東省から密輸されました。
アヘン戦争の相手はイギリス。モリリンの布教の後ろ盾をしたのはイギリス東インド会社。そして太平天国の乱を引き起こしたのはこのモリリンの影響を受けたキリスト教信者、「洪秀全」でした。

アヘン戦争やアロー戦争が行われているその裏側で、清国国内では同時にこの「太平天国の乱」とも向き会う必要があったのです。一方で英仏の保有する戦力は産業革命によって生み出された軍艦や大砲など、とても生身では立ち向かうすべもないほどに圧倒的な戦力。
そして北側からはあのロシアが清国の足元を見て「南下政策」を仕掛けていたわけです。

そしてアロー戦争の敗北により清国は英仏のみならず、ロシア、米国とも不平等条約を結ばされることとなり、ついに清国国内への「キリスト教の布教」が自由化されることと相成りました。

清国国内で布教活動を行う外国人宣教師には、「治外法権」が認められており、たとえ清国内の法律に反する行為を行ったとしても、清国内の法律では裁くことができず、例えばキリスト教徒ではない清国人Aがキリスト教徒である清国人Bと対立し、Bから不利益を被ったとしても、Bは協会に逃げ込むことで、宣教師から守ってもらうことができる・・・というような構図が出来上がったわけです。

宣教師は、例えば食べるものがなくて苦しむ人々には食事をふるまったりしますから、次第に清国内にはキリスト教に入信する信者が増える傾向が生まれました。

そして、彼らは清国の国内の風習や習慣を無視し、またフランス革命以降の欧州で彼らが勝ち取った「民主主義」を広めようとしますから、当然清国人との間で対立や衝突が頻発するようになります。

そして発生したのが「義和団の乱」という、「義和拳」という武術の使い手によって構成された秘密結社、「義和団」によって引き起こされた排外運動です。「扶清滅洋」というスローガンの下、外国人や清国人のキリスト教徒を襲撃し、果ては外国人によって清国内に持ち込まれた商店や鉄道会社までも襲撃し始めたのだそうです。

「扶清滅洋」。日本の「尊王攘夷」という言葉にもよく似ていますね。
そして1900年。時の権力者である西太后は、この義和団の乱を支持し、なんと欧米列強に対して宣戦布告を行うんですね。

次回は、この「義和団の乱」を中心に話題を進めていきたいと思います。

このシリーズの過去の記事
>> 第74回 『満州』とは?その意味や位置・歴史を検証する~なぜ日本は大東亜戦争を起こしたのか~
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