第52回 「左翼」の変遷②など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<前回の記事 第51回 「左翼」の変遷

前回の記事では、フランス革命における「左翼」の位置づけを追いかけることで、元々単なる「民衆」の代表に過ぎなかった「左翼」が、どのようにして現在のような意味合いに変わってきたのか。その意味合いを追いかけてみました。

「支配する側」と「支配される側」。
特に支配する側が無能であればあるほど、支配される側に不平不満が巻き起こってくることは当然のことだと思います。

ですが、政治システムから支配層を取り除いた途端に、支配される側が暴走する・・・。
その行為は支配する側よりもより残忍な方法である、ということが、このフランス革命からは見て取ることができます。


ジャコバン派のその後

王政が廃止された後、フランスに誕生したのは「共和政」でした。
これまでフランスの意思決定機関であった「立法議会」が解散し、代わりに「国民公会」が招集されます。

この「国民公会」の中に設置されたのが「公安委員会」。公安委員会は、「公共の安全」を守るために設置された機関であり、公安委員会の行為は、「個々の安全よりも常に優先される」行為とされました。
現在の日本の「公共の福祉」と同様の考え方ですね。

公安委員会の行為は、「人民全体にかかわるすべてを安んずる」ための行為であったため、公安委員会の行為は常に正当化されていたのだそうです。
後にこの公安委員会国民公会の中心機関として位置づけられ、公安=政府としての位置づけを有するようになります。

この当時のジャコバン派における最大派閥は「ジロンド派」で、初期の公安委員会の中心人物となった「ジョルジュ・ダントン」という人物は、ジロンド派とは対立する「山岳派」に所属していながら、ジロンド派の主導する内閣の中で、唯一「司法大臣」としての役割を担ったのだそうです。

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ジョルジュ・ダントン(Wikiより)

公安委員会の設立にも貢献し、第一次公安委員会の実質的な指導者でもあったそうです。
ダントンは、ジャコバン派の中でも急進的な「山岳派」に所属していたわけですが、どうも対立する立場にあるジロンド派と、和平の方向に推し進めようとしていました。

ところが、この和平交渉がうまくいかず、多数派であったジロンド派は「十二人委員会」という公安委員会の上部組織を設置。
軍兵を貧困層から強制的に徴兵したり、食糧危機に対して何も対策を講じない、など、このジロンド派への反発から「サンキュロット階層」と呼ばれる所謂貧困層(主に手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの無産市民)が反乱を起こし、ダントンはしぶしぶ自分の所属する「山岳派」に協力せざるを得なくなり、ジロンド派を国民公会そのものから追放。( 6月2日の革命)

ついに「ジャコバン派(=山岳派)」による支配体制が成立します。

フランス革命の変遷を見ていると、所謂「右派」が議会から追放される中で、常に大きな力を持っていたのが「サンキュロット層」と呼ばれる階層。

フランス革命そのものの発端となったバスティーユ牢獄の襲撃、フイヤン派を逮捕・処刑することにより議会から追い出す原因となった九月虐殺。そしてジロンド派を追い出した今回の革命。

左派を支持していたのは常にこのサンキュロット層でした。

ダントンは少なくともジロンド派と和解し、革命そのものを終結に向かわせようとしていました。
もちろん無能な支配層にも問題があるのでしょう。ですが、サンキュロット層はこれを暴力によって解決しようとしていたのです。

色々と情報を見ているのですが、当時のフランスの状況はまさしく泥沼。血で血を洗う地獄絵図・・・のような状況にあったのではないかと考えられます。ちょっと、現在のISを彷彿させますね。

そして、そんな「サンキュロット層」に支えられて独裁の座に就いたのが「ジャコバン山岳派」。このころには「モンターニュ派」と呼ばれるようになっていました。

国家を統治するには「財源」が必要です。
財源がなくとも、「資源」が必要です。

フランスは対外的には戦争状態、内部的には財政危機、食料不足で立て直しは本当に大変な状況にあったのでしょう。
ダントンは上位層(右派)と下位層(左派)の取りまとめを行うのに、とても尽力していたのではないでしょうか。

ですが、結果的に右派からも左派からも信任を失い、公安委員会メンバーの座から失脚。
代わりに公安委員会入りを果たしたのがロベスピエールでした。


大公安委員会

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マクシミリアン=ロベスピエール(Wikiより)

ダントンが失脚した後の公安委員会は、「大公安委員会」と呼ばれます。
ダントンも公安委員会から失脚はするものの、国民公会そのものでは議長を務めるなど、未だ影響力そのものは残していました。

ロべスピエールも最初から史上に名を遺す虐殺者であったわけではなく、最初は右派と左派の調整役に回るなど、「中間派」として公安委員会をコントロールしていました。

飢餓に乗じて世論をあおり、サンキュロット層の支持を集めて政権打倒を狙う極左勢力から食糧を強引に徴収し、代わりに自治体に対して大金を渡して民衆を飢餓から救った時にもその極左翼であった「アンラージェ」に対しては粛清を行っていますが、これは正当な行為であるように思えます。

その後、再び極左勢力である「エベール派」がサンキュロットの支持を集めて台頭。
彼らの主張は、まるで安保法制の折、暴力的行為によって安保法案の成立を阻止しようとした民主党の様に強行的で、共産党が安倍内閣をまるで「最右翼」であるかのように吹聴していたように、たとえば右派との協調を図り、戦争を終結させ与党したダントンなどはそれこそ「王政への回帰を求める最右翼」であるかの様に糾弾されていたようで、戦争を終結させる方向に向かわせる、平和政策を議員が訴えることは、とても困難な状況にあったようです。

サンキュロットたちによって引き起こされた「デモ」などを背景に、ロベスピエールは政府が「より強力な権力と独裁権を持つことが必要」であると考え、公安委員会に独裁権を持たせるよう、国民公会に対して訴えます。
国民公会により正式な信任を得、ロベスピエールはそのリーダーとして認められます。

今の日本でいえば、国民公会が「国会」。公安委員会が「内閣」で、ロベスピエールは「内閣総理大臣」ということですね。
公会議長であるダントンは更に公安委員会に対して、もう一つ上位の機関である「政府」としての役割を持たせようとするのですが、これは現体制を維持しようとしたロベスピエールに反対されます。

1973年6月に「ジャコバン憲法」が制定されたのですが、実際に実施されることはなく、ロベスピエールの演説がジャコバン派全体に支持され、「国民公会の非解散」と「新憲法実施の無期限停止」が決定されます。

このほか、連盟兵からの進言で「国家総動員令」が施工され、軍だけでなく経済活動全般にその影響は及ぶようになり、政府に国民の資源がすべて預けられる体制が確立します。
実はロベスピエールはこの法令には反対だったのですが、連盟兵は市民を先導して圧力をかけ、これを強行します。
財産の徴収も現場の判断で行うことが可能になり、また派遣された現地監督者には、自分の判断で反対するものに「粛清」する権利が与えられます。

これらは「恐怖政治(テロ)」の対象を反革命派から一般市民にまで拡大することとなります。
このほかにも、「キュロット」出身の民兵が「革命兵」となり自分たちと同じ立場の市民や農民を監視する立場になったり、公安委員会以外の委員会を改選する流れの中で、公安委員会と同等の権限を持つ保安委員会の中から、恐怖政治に反対するダントンの派閥の人間を排除したり、「反革命容疑者法」を成立させることで「恐怖政治」の対象者が「反革命者」であることを明確にしたりします。

「恐怖政治」体制を次々と確立していくのですが、これはロベスピエールが「右派」と「左派」のバランスを取りながら徐々に中央集権体制を確立していく・・・という、ある意味見事な政治手法であったのかもしれません。

この流れの中には、3つの派閥が登場します。
「ロベスピエール派」「ダントン派」「エーベル派」の3つです。

ダントン派が右派。エーベル派が左派。ロベスピエールは中道派となります。

ダントンは身内の汚職で立場が危うくなり、議会では「恐怖政治」をまい進しようとするエーベル派を批判します。
一方でエーベル派はダントン派の汚職問題を追及し、ロベスピエールはそれを一歩引いたところから見守る。そんな構図が出来上がります。

しかしそんなロベスピエールも恐怖政治批判の矛先が公安委員会に向けられると、これを潔しとせず、対外戦争の戦地における勝利報告をもとに、恐怖政治の有効性を説きます。

これに対してダントンは「だったらそもそも戦争をやめればいいじゃないか」と説きます。

左派であるエーベル派の主張は、「フランスが完全な勝利を手に入れるまで」恐怖政治を貫くという姿勢。
つまり、戦争が終われば、恐怖政治を続行する根拠が失われるのです。実際、戦地ではフランス勝利の公算が高くなっていました。

そんな折、パリにおいて飢餓が発生し、またしても市民の不満が蓄積します。
エーベル派はこれに乗じてまたしても市民の不安をあおり、蜂起を起こそうとするのですが、ロベスピエールの腹心であるサン=ジュストによって事前に阻止。
エーベル派は「反革命」の名の下で逮捕されます。
一方エーベル派がいなくなったことで、左派であるダントン派の台頭を恐れたロベスピエールは汚職問題を理由にダントン派を逮捕。

これでロベスピエールに反対する「反対派」の一掃に成功します。

「ロベスピエールの終焉」

完全な独裁体制を築いたロベスピエール派は、戦争状態が鎮静化する中で、これまで保安委員会が有していた警察権を公安委員会に移し、保安委員会に任せるよりより性急に違反者を逮捕・粛清することが可能になりました。

また派遣議員からも権限をはく奪しようとし、腐敗した地方から議員を中央に召還しようとします。
ですが、彼らは自分たちが「粛清」の対象となることを察知していたので、命令には従わず、反乱に打って出ます。

また、公安委員会の中でもロベスピエールやその腹心であるサン=ジュストは信頼を失い、公安委員会は分裂。
ロベスピエールが独裁権を持っていた公安委員会が機能しなくなったことで、あとはロベスピエール派が少数派である「国民公会」にその決議をゆだねるしかなくなってしまいます。

ロベスピエールとサン=ジュストは「独裁者」であるとののしられ、革命歴テルミドール9日、ロベスピエールとサン=ジュストらロベスピエール派は逮捕。

ついにロベスピエールは、自分が散々多くの「反革命者」の首をはねてきたギロチンで、自らの首をはね落とされることになります。

ロベスピエール派、およびその他左派を駆逐した「テルミドール派」は、後に公安委員会を解散し、新しく憲法を制定。
選挙によってえらばれた5人の総裁による「総裁政府」を樹立します。

総裁政府は「アンシャンレジーム」でもない、「恐怖政治」でもない、中道政府として支持されたのですが、その後も度重なるクーデターにより政権者が後退した結果、ついにあのナポレオンが「皇帝」の座に就き、ついに「右翼政治」復活と相成るのです。

ナポレオン
ナポレオン=ボナパルト

それにしても、このフランス革命における「左翼」の変遷をたどると、結局「右翼」は腐敗しやすく、「左翼」は過激化しやすいという特徴がある、ということでしょうか。

これは現代の日本にも通ずるところがあるように感じます。

さて、このシリーズ「右翼」と「左翼」。次回は記事名を「共産主義と左翼」として作成しようと思うのですが、その前に。

シリーズ「アベノミクスを問う」より、第36回 実質GDPの正体において提示しました、「実質GDPへの疑惑」。

この問題について、私の中で一つの決着がつきましたので、改めてこの内容を記事にしたいと思います。
次回記事タイトルは「消費量ベース」と「金額ベース」。

このタイトルにて記事を作成いたします。

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