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第520回 保釈後のヒットラーと突撃隊の再建~レームとザロモン~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第519回 ドイツ政権の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)への接触

前回の記事では、第518回の記事 で触れることができていなかった、「シュトレーゼマン後のドイツ国首相」で、ヒットラー首相が誕生する直前の2名、即ちパーペン内閣とシャライヒャー内閣の二つの内閣について記事にしました。

単純に見落としていただけで、意図して記事を分けたわけではなかったのですが、結果的にこの二つの内閣、もっと言えばその直前のブリューニング内閣まで含めて、この3つの内閣がヒットラー内閣誕生への伏線のような役割を果たしていた事に気づくことができました。

世界恐慌が勃発したことは確かにあるのですが、それまでの内閣と比較して、ブリューニング内閣は確かに違和感を覚える、実力の薄い内閣だったように感じていたので、裏でシャライヒャーという人物が大統領に対して働きかけていたことを知ると、「なるほどな」という印象を受けました。

で、ブリューニング内閣での法案成立が「緊急法規」という手法を取っていたという事を 第518回の記事 で触れたと思うのですが、同じ記事の中でこの「緊急法規」について、
この時用いられている「緊急法規」というやり方なのですが、後のナチスも大統領令による、同様な方法を用いています。

ただ、全く同じものなのか同化は現時点では私の中で不明です。

と記述しました。

で、前回の記事 でパーペン内閣について検証している中で、これもやはりWikiベースではあるんですが、パーペンの政策決定方法として、
内政では議会の支持を全く得ていなかったので、大統領権限による緊急立法のみで政権を維持する有様だった

という記述がみられます。

これは、パーペン内閣でもブリューニング内閣同様、「緊急法規」という手法を用いた政策決定が行われており、これが「大統領権限」に基づくものであったという事がわかります。

つまり、ブリューニング内閣で実行されていた「緊急法規」もまた、「大統領権限」に基づくものであったという事。両内閣に対してシャライヒャーが関わっていることを考えると、そこに一致性がみられることにも疑問を抱かずに済みます。

これは、法案を立案するのは内閣で、本来であればこれを成立させるために議会の承認を得る必要があるのですが、ワイマール憲法第48条によって大統領は「憲法停止の非常大権などの強大な権限」が与えられていていました。

これを、「大統領緊急命令権」といいます。ブリューニングも、パーペンも、この方法を用いて法案を成立させていました。これができたのは、両内閣の成立に関与したシャライヒャーが、ヒンデンブルク大統領に信頼されていたからに他なりません。

極端なインフレを終息させるために緊縮財政政策を取ったブリューニングも、雇用を創出するための財政出動政策を行ったパーペンも、大統領命令を利用して成立させた政策は、決して誤ったものではないと思います。

ただし、その後シャライヒャー内閣→ヒットラー内閣へと政権は移っていくわけですが、ヒットラー内閣においてこれがヒットラーの権限を拡張させるために利用されたことは間違いのないことだと思います。

そしてこれを可能としたのはヒンデンブルク大統領がシャライヒャーを信用しきっていたから。この事は頭の片隅に置いておく必要があると思います。

ちなみにこの事は、第475回の記事 で、麻生さんの「ナチスの手口」発言について解説する記事を作成した際、詳細に記事にしています。

第475回の記事 はこの記事をご覧の皆様にもぜひ読んでいただきたい記事なのですが、あくまでこの時のドイツの憲法は「ナチス憲法」ではなく「ワイマール憲法」です。

ヒンデンブルク大統領が連発した「大統領緊急命令権」は、当時世界でも最も民主的であるとされたはずのワイマール憲法に規定されていたことですし、また大統領がブリューニングやパーペンを罷免する権限も憲法によって保障されていました。

これまでの記述でご理解いただけているとは思いますが、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)はきちんと選挙という方法を通じて議席数を増やし、国政第一党にまで規模を拡大しています。

麻生さんが言っているのはこの事です。ワイマール憲法はどのようにして決まったのか。これは社会主義者たちの台頭を受け、ドイツが第一次世界大戦に敗北し、帝政から共和制へと移行する中で、共産主義者の集団であるスパルタクス団の武装蜂起が勃発する中。

その首謀者であるベーベルやリープクネヒトが処刑される中で成立したものです。

そのような喧噪の中で決まった「ワイマール憲法」。正確には「ドイツ国憲法」ですが、そのような憲法の下でも国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)のような政党が政権を手中に収めるようなことは発生するんですよ。そのようなドイツの歴史に学んだらどうですか、というのが麻生さんがおっしゃっていることです。

是非、きちんとその事を日本の国民全員に考えてほしいなと思います。


釈放後のヒットラー

ということで、改めて本題に入りたいと思います。

同じサブタイトルを、第517回の記事 でも用いているのですが、今回のこの章はその続き、という感じで読んでいただけると嬉しいです。

第517回の記事 では、ヒットラーが収監されている最中に仲間割れを起こしていた元ナチスのメンバーを再び結束させ、ヒットラー自身がドイツ国の国籍を取得したところまで記事にしました。

ミュンヘン一揆によって国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は禁止されていたのですが、ヒットラー自身の釈放(1924年12月20日)後、1925年2月27日に禁止が解除され、再建されることになります。

釈放後、ヒットラーは当時(1925年1月4日)のバイエルン州首相であるハインリヒ・ヘルトと会見をし、ヘルトが同党の再結成を許可したのだそうです。この時、ヒットラーはヘルトに対し、非常にへりくだった姿勢を見せていたようです。

ところが、実際に再結成をし、演説会を開くとその影響力は決して無視できるようなものではなく、州政府からは1年間の演説禁止措置を受けることとなります。

同年7月には「獄中での口述を基にヒットラーがまとめた著書」である「我が闘争」が発売され、これが順調な売れ行きを見せるなど、ヒットラーと国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルン州以外にも支持を広げる様になっていました。


突撃隊の再結成とレームとの決別

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

一方で、国家社会主義ドイツ労働者党の軍対組織である「突撃隊」の再結成に当たっては、突撃隊をナチスから独立させようとさせていたレームとの間で意見が分かれ、結果的にレームとは一時的に決別することとなります。

突撃隊の結成や強化、またミュンヘン一揆においても大きな力を発揮してくれたレームですが、ヒットラーとしては突撃隊への彼の影響が大きくなることを危惧していた時期もありましたね。

ヒットラーが突撃隊の隊長をレームの息のかかった人物からヘルマン・ゲーリングへと差し替え、レームが送り込んだエアハルト旅団退院を突撃隊から一掃した件です。


ザロモンによる突撃隊の再編成とその影響

フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン
Bundesarchiv, Bild 119-1587A / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

5月24日にヒットラーの命令により、突撃隊の再建が開始することになるのですが、この突撃隊。バイエルン州だけでなく、ベルリンをはじめとする様々な地域でも各地の党支部の下で再建が行われたのだそうです。

逆に考えると、この時点で国家社会主義ドイツ労働者党はバイエルンだけでなく、各州に「支部」となる組織を有していたという事。しかも軍部を支部ごとに組織できるほどの・・・。

これはこれでビックリですね。

その後、各地でバラバラに活動していた突撃隊を、中央から統括してコントロールしてほしい、という意見が増えることになり、その役職として突撃隊最高指導者を新設し、ヒトラーはフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンという人物をこの役職につかせました。

ザロモンの働きは実に鮮やかで、1927当初には実に18個大隊を編成し、突撃隊隊員はザロモンに忠誠を誓う形となります。

旅団(2〜5個連隊で構成)、連隊(2〜5個大隊で構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、団(6〜12人で構成)という編成になっていたのだそうですよ。

ザロモンの上長はヒットラーですから、突撃隊はヒットラーとザロモン以外からの指示に従わなくなります。ドイツ共産党の軍隊(赤色戦線戦士同盟)と衝突したり、また暴力的な行為を行うものが増えていくんですね。

社会民主党の国旗団とも戦闘を繰り広げるなど、死傷者が頻繁に出るようになった、とのこと。いろんな州がナチスを嫌がったのは、どうもこのザロモン率いる突撃隊の行動に原因があったようです。ヒットラー自身はこのような突撃隊の行動を嫌がっていた、とありますね。

各州ではナチスの制服そのものが禁止されていくようになります。党としては制服を白シャツにする、などの方法でこれを乗り切ったのだそうです。

ザロモンの「功績」はなかなか興味深いところがありますので、そのまま引用して掲載しておきます。

【突撃隊の社会福祉制度】
負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。


【ザロモンが設立した組織等】
1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊が傘下となっており、1934年までその状態が続いた。

また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。

このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している。


しかし、ザロモンはヒットラーに対し、突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に書き加えることをヒットラーに要求したものの、ヒットラーにこれを拒否されると突撃隊司令官を辞職しています。

この時ヒットラーが拒否した理由が

「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」

という理由です。これは、至極尤もな事なのではないでしょうか。

エルンスト・レームの再登場

詳細は割愛するのですが、ザロモンの辞任をきっかけに、各地の突撃隊が中央からの指示に反発するようになります。元々、ヒットラーの政策は保守的なもので、共産主義や社会主義と対立する立場にありました。

突撃隊のメンバーは元労働者が多く、こういった「左翼」が元々多くいたんですね。反乱を起こしたのはこのような人たちです。

突撃隊内での武力衝突も起きるなど、ヒットラーとしてはなんとかこの状況を抑える必要性に駆られます。

この時点でザロモンの役職はヒットラー自身が担っているのですが、ヒットラーにはこの状況を抑えることができる人物はたった一人しか思いつきません。

突撃隊の再建を巡って対立し、自分自身の下を去ったエルンスト・レームです。

レームはヒットラーからの要請を快く承諾し、1930年11月1日に南アフリカからドイツに帰国。1931年1月5日、正式に突撃隊幕僚長へと就任することになります。

この時点でのドイツ国首相はブリューニングですね。少しだけ時間軸を巻き戻し、国家社会主義ドイツ労働者党の国政進出について記事を記します。


国家社会主義ドイツ労働者党の国政進出

国家社会主義ドイツ労働者党が初めて国政選挙に挑むのが1928年5月20日の事。この時はたった12人しか当選することはできなかったのですが、ヤング案の成立をきっかけとして世界恐慌が勃発すると、ドイツ国内では失業者が大量に発生し、国政への不満が噴出します。

世界恐慌時の首相はヘルマン・ミュラーで、彼が所属していたのはドイツ社会民主党。1928年5月の選挙でドイツ社会民主党は議席数を大幅に増やし、この事がミュラー内閣の政権安定に貢献したわけですが、世界恐慌の煽りを受けて押し寄せた不景気の波は、逆に政権与党であった社民党への逆風となります。

ミュラー政権が発足した当初は好景気で、ヤング案を成立させたことで、ミュラー政権は戦勝国への賠償金も減額させています。ヤング案の成立が原因で世界恐慌が勃発することまで想定してはいなかったでしょうし、不可抗力だったと思うのですが、ちょっと可哀想な気もします。

ミュラーは1930年3月27日に退陣し、その後ブリューニングが首相となるわけですが、ヤング案の成立そのものもドイツ国民に対しては反政府感情を誘発したようで、ブリューニング内閣で行われた1930年9月14日の国政選挙では、

第一党 ドイツ社会民主党 153議席→143議席▲
第二党 国家社会主義ドイツ労働者党 12議席→107議席+
第三党 ドイツ共産党 54議席→77議席+
第四党 中央党 61議席→68議席+
第五党 ドイツ国家人民党 73議席→41議席▲
第六党 ドイツ人民党 45議席→15議席▲

という結果に終わります。ブリューニングは中央党でドイツ人民党と組んでいます。両党の議席数を合わせて106議席→83議席へと大幅に議席数を減らす結果に終わっていますね。

一歩で選挙前はブリューニング内閣に反対する姿勢を取っていた社会民主党ですが、自党が議席数を減らす中、国家社会主義ドイツ労働者党と共産党が議席数を大幅に増やし、特に国家社会主義ドイツ労働者党は一気に国政第二党へと躍進していますから、これは危機感を覚えたと思います。

その後、ブリューニング内閣に協力する姿勢を見せる様になっていますね。

レームが戻ってきたのは、ちょうどそんな時期でした。


まとめ

本日の記事では、パーペン内閣やシャライヒャー内閣とのかかわりににまで記事を進めることはできませんでしたが、ヒットラーがドイツ国政府や各州の政権から敬遠されるきっかけとなった理由の一つに、再建された「突撃隊」の存在があったことが見えてきましたね。

レームが復活した突撃隊はどのようにまとめられていくのか。

また、現時点でまだヒットラーはそれこそ「ユダヤ人大量虐殺」というような手法を用いて政府と対立していくような様子は見られません。

寧ろ突撃隊の暴走で政府からの心証が悪くなることを恐れているような、そんな印象すら受けます。

この後のヒットラーがどのように変化していくのか。次回以降の記事で検証してみたいと思います。





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