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第519回 ドイツ政権の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)への接触など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第518回 シュトレーゼマン後のドイツ国首相~ヒットラー首相誕生まで

今回も前回の記事同様、前回の記事に掲載した内容を時系列で整理するところから始めてみます。

1923年9月 グスタフ・フォン・カール、バイエルン州総督に就任
1923年11月8日 ミュンヘン一揆勃発
1923年11月30日 ヴィルヘルム・マルクス内閣始動
1925年2月 エーベルト大統領死去
1925年2月28日 ハンス・ルター内閣始動
1925年5月12日 パウル・フォン・ヒンデンブルク、大統領に就任
1926年5月16日 第二期ヴィルヘルム・マルクス内閣始動
1928年6月28日 ヘルマン・ミュラー内閣始動
1930年3月30日 ハインリヒ・ブリューニング内閣始動
1933年1月30日 アドルフ・ヒットラー内閣始動

で、前回の記事で誤っていた箇所が一つ。

ブリューニングの後にフランツ・フォン・パーペン、クルト・フォン・シュライヒャーという人物がそれぞれ首相を務めていますので、今回の記事はこの両名にも触れておきます。

フランツ・フォン・パーペン内閣(1932年6月1日 - 1932年12月3日)

フランツ・フォン・パーペン
Bundesarchiv, Bild 183-1988-0113-500 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

首相として、ヴィルト、クーノ、シュトレーゼマン、マルクス、ルター、ミュラー、ブリューニングと、所謂「政治家」が多く登場していますね? 経済や外交に強い首相が多い様に思います。

ところがこのフランツ・フォン・パーペン。「政治家」というよりはどちらかというと「軍人」。そして彼が首相として指名された理由として、彼の後首相を務める「クルト・フォン・シュライヒャー」という人物からヒンデンブルク大統領への「推薦」があったことが挙げられます。

この辺りからどうもドイツの政治がいろいろときな臭くなってきますね。

パーペンは政治家としての経験が少なく、あまり有能ではなかった・・・とあります。そしてシュライヒャーが「利用しやすかった」ことがその最大の理由だと。

この辺りは記述者の解釈等が含まれているでしょうし、事実とどの程度近いのかは眉唾ものではありますが、彼が所属していた中央党の党首と「大統領からの要請を受けない」ことを約束していたにも関わらず、ヒンデンブルク大統領からの要請を受け、これに飛びついて中央党から除名されるなど、決して褒められた人物ではないのではないか、との想像は付きます。

彼の下でシャライヒャーは国防大臣も務めています。

更に、この内閣の評判は非常によろしくなく、ブリューニング内閣で自党の軍部である「突撃隊」を禁止され、これを解除してもらう必要があった国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が唯一同内閣を批判することがなかったものの、それでも協力を要請されたヒットラーはこれを断っていたといいます。

パーペン内閣は実際に突撃隊の禁止を解除しています。

この段階で、ドイツ国各州がナチスに対し、「ナチス征服禁止令」を出そうとするなど、ナチスが「危険な存在である」と感じられていた様子は見て取れます。

また、前回の記事で日本が主導して開催されたローザンヌ会議が前首相であるブリューニング内閣だったと記したのですが、これは誤りで、実際にはブリューニング内閣が崩壊し、パーペン内閣が誕生した直後。1932年6月16日の事。

実際にローザンヌ協定そのものは成立し(批准はされず)、賠償金額を減らすことに成功はしたものの・・・というより、免除することに成功してたんですね。その代わり、30億マルクを支払え、というのがローザンヌ協定で決まった内容だったようです。

ところが、ドイツ国民にはこの結果は評価されなかった様で。パーペンは「外交下手」との誹りを受けたのだそうです。

その後もフランスに対して「対共(ソ連)同盟」の成立を打診して拒絶され、ソ連にばらされたりするなど、ダメっぷりは発揮するのですが、ただ、経済政策については効果的な政策を打っていたようで、その中心が雇用創出事業。

これまで「緊縮財政政策」とは真逆の「財政出動政策」。中でも道路建設事業や徴兵制度(日本の是清の政策とよく似ていますね)などはヴェルサイユ条約に違反するために見送られたものの、後にヒットラーによって採用され、失業問題を劇的に解決することに役立っています。

そして、彼の時に行われた総選挙でナチスが37.4%の得票率を獲得。議席数を107議席から230議席へと大幅に増やし、政党第一党へと躍進することになります。

社会民主党が143議席から133議席に、国家人民党が41議席から37議席へと議席数を減らす中、パーペン内閣を攻撃した中央党、そして共産党も議席数を伸ばしました。

この後のパーペン内閣とナチスとの関係については後日の記事に委ねようと思うのですが、これを受けてナチスの存在を看過できなくなった・・・という事でしょうか。シャライヒャーはナチスと接触するようになるのですが、結果的にはパーペン内閣はナチスと対立することになります。

その後の政権運営を他人任せにする傾向が強かったパーペンは結果的にシャライヒャーからも愛想をつかされ、退陣を求められることとなり、大統領であるヒンデンブルクの下へ逃げ込むも、ヒンデンブルクからもNoを突き付けられ、パーペン内閣は退陣し、シャライヒャー内閣が生まれることとなります。


クルト・フォン・シュライヒャー内閣(1932年12月3日 - 1933年1月28日)

クルト・フォン・シュライヒャー
Bundesarchiv, Bild 136-B0228 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

この人物。パーペン内閣での暗躍っぷりをみてもわかると思うのですが、特にミュラー内閣以降、「政治を裏から操っていた」という印象強く受けます。

現在はWikiの記事を中心に内容を進めているのですが、この中にシャライヒャーが「政治陰謀が好きだ」という記述がみられます。

彼は大学時代に「ヴィルヘルム・グレーナー」という人物に師事しているのですが、シャライヒャーはグレーナーによって政治の表舞台にまで引き上げられることになります。シャライヒャーがグレーナーのことをどう思っていたのかはわかりませんが、グレーナーはシャライヒャーの事を異常に信頼している様子が見て取れます。

実際シャライヒャーは軍人としても有能だったようで、第一次世界大戦後の義勇軍の創設、編成などで大きな功績を発揮したり、第一次世界大戦後のドイツで参謀本部長や軍総司令官などとしても活躍したハンス・フォン・ゼークトの側近として「黒色国防軍」の編成を任せられるなど、その能力を多くの実力者から評価されていたようです。

ただ、ゼークトから重用されてはいるものの、ゼークトはシャライヒャーの事を好ましくは思っていなかったようで、その理由として「政治陰謀が好きだから」という理由が記されています。

彼が信頼を集めていたのはグレーナーだけでなく、ヒンデンブルク大統領からの信頼も厚かった・・・というのはパーペン内閣の様子を見てもご理解いただけると思います。

彼はヒンデンブルク大統領が大統領となる以前から彼の息子と親しく、シャライヒャーがヒンデンブルク大統領に信頼されることとなったのも、そんな大統領の息子を通じての事でした。

彼が大統領に影響を及ぼしていたのはヒンデンブルクが大統領に就任した直後から。

ゼークトはシャライヒャーの危険性(現段階ではあえて「危険性」と表現しておきます)を見抜いていて、軍内、及び政界全体に対する彼の影響力の拡大を押さえつけようとしていたのですが、ゼークト自身が1926年10月に失脚し、シャライヒャーを押さえつける者は誰もいなくなります。

彼の師であるグレーナーがミュラー内閣で国防相となると、彼によってシャライヒャーは少将へと引き上げられ、国軍省に設置された大臣官房の官房長へと任じられます。グレーナーのシャライヒャーに対する信用の度合いはかなりなものであったようです。

ミュラーの後、ブリューニングが首相へと就任するわけでが、大統領に彼を首相へと就任するよう働きかけていたのはシャライヒャー。ブリューニング内閣において行われた地方選挙でバイエルン州以外全ての州で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が第一党へと躍進すると、シャライヒャーはブリューニングを見限ってヒットラーに接触。

ヒットラーと「突撃隊禁止命令の解除」を約束したのはやはりパーペンではなくシャライヒャーですね。シャライヒャーはそれ以外に国会を解散させることなども約束しています。

更にその後シャライヒャーはナチスと組んでブリューニングではなく、グレーナーを失脚するよう画策します。自分自身をここまで信頼し、引き上げてくれた恩師であるグレーナーを、です。クズですね。引用します。

ナチ党とシュライヒャーはただちにグレーナーの失脚工作を開始した。

5月10日に国会で突撃隊禁止命令を討議中にナチ党議員団はグレーナーに激しい罵倒を浴びせ、グレーナーを立往生させ、これによってグレーナーが国会討論に大敗北を喫したかのような印象を世間にもたらした。

シュライヒャーはこれを利用して「グレーナーは病気」という噂を流して回り、恩師であるグレーナーに冷たく辞職を勧告した。

ヒンデンブルクやブリューニングにも見捨てられたグレーナーは5月13日に国防相辞職(内相には留任)に追いやられた。

この後、シャライヒャーは大統領に働きかけ、ブリューニングも解任させます。

ブリューニングを首相にする様ヒンデンブルグに働きかけたのはシャライヒャーだったはずなんですが。

この時大統領がブリューニングに伝えた解任の理由は
「今後は右翼政治を行うべし」
「労働組合指導者層とは手を切るべし」
「農業ボルシェヴィズムは根絶すべし」

という内容。

「農業ボルシェヴィズム」とは、「東プロイセンの地主が管理しきれない土地を失業者に分配する」というブリューニング自身の政策をユンカー(地主)たちが揶揄したもの。

これを受け、ブリューニングは5月30日に総辞職しました。

そして、更に首相へと就任したのがパーペン。その後、パーペンがやはりシャライヒャーに見限られ、辞任へと追い込まれるまでの経緯は前記した通り。

パーペンの辞任後、1932年12月3日に今度はシャライヒャー自身が首相へと就任することとなります。


今回の記事では、「ヒットラー」の話題にも触れていく予定だったのですが、記事そのものが少し長くなったことと、「パーペン」及び「シャライヒャー」両内閣の経緯についてヒットラー自身とのかかわりが多くみられることから、両首相の以前の首相の時代まで含めて、改めて「釈放後のヒットラー」について次回記事で検証していきたいと思います。



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