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第518回 シュトレーゼマン後のドイツ国首相~ヒットラー首相誕生までなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第517回 ヒットラー釈放後のドイツ国経済~世界恐慌勃発まで~

前回の記事では、ミュンヘン一揆前後、ヒットラーが逮捕され、また釈放される前後のドイツ。第一次世界大戦敗戦後ドイツの賠償交渉の流れについて記事にしてみました。

流れ的には

1923年1月11日 ルール占領開始
 ドイツでハイパーインフレーションが勃発

1923年8月13日 ヴィルヘルム・クーノに変わってグスタフ・シュトレーゼマン首相へと就任
 クーノが取っていた通貨発行を原資としたルール地方のストライキ政策を中止

1923年11月15日 ヒャルマル・シャハトによって地代に価値が紐づけられたレンテンマルクが発行
 暴落の真っ最中だったパピアマルクをレンテンマルクに交換し、マルク相場が落ち着く

1923年11月23日 シュトレーゼマンがミュンヘン騒動等の責任を取って退陣

1924年8月16日 アメリカの賠償委員会に参加し、「ドーズ案」をフランス・ベルギーが受諾。
 ドイツは米英からお金を借りてフランス・ベルギーに返済することに

1924年10月 ドイツは新通貨「ライヒスマルク」を発行
 ドイツ国内でしか使用できなかったレンテンマルクと交換、金本位制へと復帰

1929年6月 ドーズ案に変わって新たにアメリカが提案したヤング案が採択
 ドイツの返済額が減殺され、返済期間が延長される

1929年9月4日 ヤング案の成立を受け、世界恐慌が勃発
 ドイツが更なる財政難へと陥り、ヤング案でも返済が不可能な状態に陥る

1932年6月16日~7月9日 ローザンヌ会議で更なる減額が決定。
 フランス・ベルギーの要求を米国が拒否し、批准されなかった

1933年1月30日 ヒットラーが首相へと就任
 返済そのものを拒否する

という感じです。

前回の記事はこの流れを国際社会側から見たわけですが、今回の記事ではこれをドイツ国側から検証することを目的としています。


国際社会の流れとドイツを統合

前回の記事で、一部振れているのが「カール政権の発足」についてです。

彼がバイエルン州総督となったのが1923年9月の事ですから、時期的にはシュトレーゼマンがドイツ国首相となり、ライヒ通貨委員となったシャハトがレンテンマルクを発行するまでの間の出来事です。

更に、ミュンヘン一揆が勃発したのは1923年11月8日~9日にかけての事ですから、レンテンマルクが発行されたのはミュンヘン一揆の直後だったことになりますね。

ミュンヘン一揆勃発のそもそものきっかけを与えたのはシュトレーゼマンのルール占領軍に対する「受動的抵抗の中止政策」を受けてのものではありましたが、彼は後のドイツ国経済に安定化をもたらした「レンテンマルク政策」の実行者でもあったわけですから、彼が辞任に追い込まれたのは「とばっちり」でしかなかったようにも感じます。

ちょうど昭和恐慌から日本をいち早く立ち直らせた高橋是清が、その経済回復を実感できるようになる前に兵士たち(皇道派)によって暗殺された二二六事件の経緯ともよく似ている気がします。


シュトレーゼマン後のドイツ政権~第一期ヴィルヘルム・マルクス内閣

で、登場していてしかるべきなのに、全く名前が登場していないのがシュトレーゼマンの後を引き受けた首相のお名前。

これが、ヴィルヘルム・マルクスという人物で1923年11月30日に首相に就任し、24年12月15日まで首相を続けています。

ヴィルヘルム・マルクス
不明 - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.bundesarchiv.de/imperia/md/images/abteilungen/abtr/reichskanzler1919-1933/bild_146-2002-007-34_801x0_0_9.jpg">Öffentlichsarbeit Bundesarchiv Reihe "Reichskanzler 1919-1933"</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

彼は、また更に26年5月16日に首相へと再任し、28年6月12日まで首相を続けています。

で、前任者で辞任したシュトレーゼマンですが、彼は第一次マルクス内閣では外務大臣を務めています。シュトレーゼマン、やはり有能な人物だったんでしょうね。

マルクスは翌12月の総選挙で敗れて退陣するのですが、その直後、1925年2月にはプロイセンの州首相に就任しています。ですが、同じ月の月末、敗戦後の混乱の中から、長らく大統領として就任していたエーベルトが死去。マルクス派州首相を辞任し、大統領選に出馬しています。

ところが、この選挙でも彼は僅差で敗れ、落選。


ハンス・ルター内閣

第一次マルクス内閣の後はハンス・ルターという人物なのですが、この内閣でマルクスは法務大臣を務めています。

ハンス・ルター
不明 - <a rel="nofollow" class="external text" href="https://www.bundesarchiv.de/imperia/md/images/abteilungen/abtr/reichskanzler1919-1933/bild_146-2002-007-34_801x0_0_9.jpg">Öffentlichsarbeit Bundesarchiv Reihe "Reichskanzler 1919-1933"</a>, パブリック・ドメイン, リンクによる

一方で、ルターはシュトレーゼマン内閣で財務大臣を務めた人物で、シャハトがレンテンマルク政策をとる中で、自身は緊縮財政政策を取り、通貨を安定させました。この時は「ハイパーインフレーション」が起きている真っ只中ですから、緊縮財政政策が「的を射た政策」になるんですね。

首相としてのルターはイギリス・フランス・イタリア・ベルギーとの間で「ロカルノ条約」という集団安全保障条約を締結(ヴェルサイユ条約の内容を踏襲したもの)しており、この事でドイツは晴れて国際連盟へと加入します。

この事は、第一次世界大戦対戦国との融和にも貢献していて、ドイツを国際社会へと復帰させたんですが、その事が逆にドイツ人からの反発を招き、ルターを退陣へと追い込むこととになります。

ちなみにロカルノ条約の発足に貢献したのはレンテンマルク政策を実施したシュトレーゼマン。シュトレーゼマン外相ですね。シュトレーゼマン、結構優秀ですね。やはり。


ドイツ国家人民党とドイツ政権

ちなみにルターを退陣に追い込むこととなったのは、シュトレーゼマン外相の政策に不満を抱いた「ドイツ国家人民党」。

ドイツ国家人民党は第一次世界大戦中の保守政党が合流して出来上がった政党で、皇室の復活を望んでいたり、議会政治に反対していたり、ヴェルサイユ条約やドイツ国憲法(所謂ワイマール憲法)にも反対。反ユダヤ・反社会主義・反共産主義の政党です。

「匕首伝説」も喧伝していたということですから、ガチガチの右派。

そもそも第一次世界大戦はドイツが優勢に進めている中、社会主義者たちの台頭により自滅したような戦争ですから、社会主義者の台頭さえなければドイツが連合国に敗北することはありませんでした。

シュトレーゼマン外相の外交政策(ロカルノ条約)は本来勝ち戦であったはずの第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約を受け入れ、フランスやベルギーと仲直りすることを目的としていますので、国家人民党がこれに反発したのは当然といえば当然でしょうね。

ちなみにこの政権の中には「バイエルン人民党」。も参加しています。バイエルン州総督を務めたグスタフ・フォン・カールもバイエルン人民党です。

ドイツ国家人民党離脱後のルター内閣が崩壊したのも理解できる気がしますね。

ルターの後を再びマルクスが引き継ぎ、マルクス内閣を組閣します。(1926年5月16日)

その後、「社会民主党のフィリップ・シャイデマンにドイツ国防軍とソビエト軍が秘密裏に協力していることを国会で暴露」されたことにより辞職。その後総選挙が行われるのですが、議席を減らし、マルクス内閣は退陣することになります。(1928年6月12日)


ヘルマン・ミュラー内閣

マルクスに代わって首相としての指名を受けたのがドイツ社会民主党党首であるヘルマン・ミュラー。
ヘルマン・ミュラー
Bundesarchiv, Bild 102-11411 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

彼はヴェルサイユ条約に外務大臣として調印した人物であり、当時のドイツ国第2代首相であるグスタフ・バウアーが退陣した後、第3代ドイツ国首相を務めたこともある人物です。(1920年3月27日)

ですが、この時は総選挙で議席を大きく減らし、たった3ヶ月で退陣しています。(1920年6月28日)

第二期マルクスの後に首相として指名されたミュラーですが、彼の在任期間は1928年6月28日~1930年3月27日で、これは第一次世界大戦敗戦後のドイツとしてはこれまでで最長の就任期間なのだそうです。

ヤング案が成立したのは彼の就任期間。ですが、この事が原因で世界恐慌が勃発することとなり、ドイツでも失業者が増大。

結果的にミュラーは退陣へと追い込まれることとなります。

ちなみにこの「ヤング案」ですが、この話し合いがもたれることとなったきっかけは、ドーズ案ではドイツが仏白に対する債務を米英からお金を借りて仏白に返済するだけですので、結局ドイツの債務は減らない・・・。

この事が理由です。

で、この話し合いを持ち掛けたのがはっきり言ってドイツ側からだったのか、アメリカ側からだったのかは私の中でははっきりとした資料が見つかっていません。

ですから、ヤング案を成立させたことによって世界恐慌が勃発し、辞任に追い込まれたミュラーを「無能だった」という表現をすることは適切ではないと思うのですが、彼の目立った「功績」はこのくらいですね。

もう少しだけ進めます。


ハインリヒ・ブリューニング内閣

ミュラーの後を受け、なんと44歳という若さで、世界恐慌の真っ只中、首相へと就任したのがハインリヒ・ブリューニング。彼の就任期間は1930年3月30日~1932年5月30日の2年間。
ハインリヒ・ブリューニング
Bundesarchiv, Bild 183-1989-0630-504 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

この後ヒットラーが首相へと就任していますので、ブリューニングがナチス政権直前、最後の内閣ということになるでしょうか。

彼が所属していたのは中央党という、これは ビスマルクの文化闘争に関する記事 のところでお名前が一度登場していますね。

社会主義者の危険性にビスマルクが気づく直前。ビスマルクが社会主義者よりも南ドイツの「孤立主義者」に影響を大きく与えていたカトリックの危険性の方を重要視していた時期。

そのカトリック政党の代表的な存在が「ドイツ中央党」でした。

ミュラー退陣後、大統領であるパウル・フォン・ヒンデンブルクは彼の存在に着目していて、次期首相として彼を指名。組閣を命じました。

ブリューニングは前首相であるミュラーが所属していたドイツ社会民主党ではなく、同党と対立するドイツ人民党と連携する選択をします。ちなみに私がこの記事で高評価しているシュトレーゼマンはドイツ人民党に所属していました。ですが、ブリューニングが首相に就任する直前に脳卒中で他界しています。

で、この内閣でブリューニングはドイツ社会民主党だけでなく、共産党や国家社会主義ドイツ労働者党、つまり「ナチス」とも対立します。

ドイツ国家人民党は一部が政権に参加した、とあるのですが、国家人民党党首であるアルフレート・フーゲンベルクは政権に強硬的に反対する立場をとっており、国家人民党前党首を中心とする一部議員が党を割って外に出ていますので、おそらく政権に参加したのは後者ではないかと思います。

一方で、フーゲンベルク率いる国家人民党は国家社会主義ドイツ労働者党へと近づいていきます。

一方でドイツ社会民主党は国家社会主義ドイツ労働者党や共産党と対立する構造にあり、やがてブリューニングに歩み寄った姿勢を見せる様になります。

ブリューニングの取った政策は、「緊急法規」による議会の審議に縛られない方法を用いたやり方で、「緊縮財政政策」で、デフレを目的としたもの。

何度も言いますが、この状況下のドイツは「ハイパーインフレーション」から回復途上にあり、通貨が安定しておらず、このような状況下では決して誤った政策ではないと思います。

で、この時用いられている「緊急法規」というやり方なのですが、後のナチスも大統領令による、同様な方法を用いています。

ただ、全く同じものなのか同化は現時点では私の中で不明です。

また、日本の主導による「ローザンヌ会議」が開かれたのも彼の時代。

彼は世界恐慌の真っ只中でオーストリアと関税同盟を結ぼうとしてフランスの反発を買い、フランス国内からのドイツ・オーストリアの資金受け入れを禁止。一方で政府声明として「ドイツにはもはや賠償金を支払う能力がない」と発表し、外資がドイツから撤退。

傷病兵や失業者に対する保険をカットする緊急法令を発行して共産党組織によるデモが頻発するなど、まさにカオス状態へと陥ります。

シュトレーゼマンが生きていればもう少し異なる政策を打つことができたのかもしれないですね。

これを受けて当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーが「フーバーモラトリアム」を発令し、ドイツへの賠償金支払い猶予を再建各国に提案、これが受け入れられます。

しかしそれでもドイツからの資金引き上げは収まらず、このような状態で開催されたのが「ローザンヌ会議」です。


ナチスの台頭

さて。この後、いよいよ「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」が政権の中心へと躍り出ることになります。

次回記事では、本日の記事に今度は「ヒットラーサイド」から改めて着目し、記事を進めていきたいと思います。




このシリーズの次の記事
>> 第519回 ドイツ政権の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)への接触
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