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第517回 ヒットラー釈放後のドイツ国経済~世界恐慌勃発まで~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第509回 ヒットラーの代理人ローゼンベルク~反ユダヤ主義の根源とは~

長らくドイツ関連のシリーズ以外の記事を作成していましたが、改めまして、再開します。

シリーズ、ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか を作成するに至った最大の理由としましては、そもそも親シリーズであるなぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか を作成していく中で、日本が第二次世界大戦にどのようにして巻き込まれていったのか。

この事に関しては私の中で得心のいく答えに巡り合うことはできたのですが、次に日本はなぜの地の世でこれほどに残虐性を強調されるようになったナチスドイツと同盟関係を締結するにいたったのか。この事を突き止めることが必要だと感じる様になったからです。

同盟関係を締結するに至った理由そのものは現在では私の中に一つの答えはあるわけですが、この理由を説明しようとする際に、ナチスドイツの残虐性を完全ではないにしても否定することができれば。もしくは正当性を主張することができれば、よりその答えに説得力を持たすことができるのではないかと感じたからです。

ナチスドイツ、つまり「ヒットラー」の残虐性は主にユダヤ人に向けられているわけですが、彼がなぜユダヤ人を迫害したのか。その理由を突き止めることが最大の目的だったのですが、前回の記事 で漸くその理由の片鱗に触れることができました。

私の中にある現時点でのその最大の理由は、第一次世界大戦に敗戦した後のドイツでは、もしくは第一次世界大戦中、その以前より「アーリア人至上主義」、「反ユダヤ主義」という考え方が蔓延しており、ヒットラー自身も自分自身の体験からユダヤ人に対する嫌悪感を感じていたという事。

彼がそう感じている中で、まるでそれを裏付けるかのようにしてローゼンベルクやエッカートらから所謂「ユダヤ陰謀論」のような考え方を教えられたのだという事。ヒットラー自身も、目から鱗が落ちたような気分になったことでしょう。

また、当時は現在の様にネットが発展しているわけではありませんから、所謂「裏どり」は非常に難しかったはず。

だとすると、余計に彼自身のリアル社会での感覚との一致性がよりその「裏付け」としての意味合いを強く持っていたはずです。

そしてそんな中、ミュンヘン一揆に失敗して投獄される中で記したのが「我が闘争」。実際には彼自身が記したわけではなく、獄中でエミール・モーリスやルドルフ・ヘスに対して「口述」したものですが、これが後のナチスの行動の指標ともなるわけです。

ただ、現時点の印象としてはまだ、ヒットラーがいくらユダヤ人に対してネガティブな印象を持っているからといって、現在世界中で多くの人が思っているような、ユダヤ人だけをターゲットにし、大量に虐殺するような、そこまでの印象は受けていません。

では、どのような事情があってヒットラーがそこまで豹変してしまうのか。またはしないのか。これをここからの記事では検証してみたいと思います。

本日の記事では、牢獄より釈放された後のヒットラーについて追いかけてみたいと思います。


ヒットラーの釈放

ヒットラーが収監されたのは1924年1月。受けた判決は禁錮5年。だったはずなのですが、実際には収監された1924年9月に仮釈放、12月には釈放されています。

ヒットラーが収監されている間、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は解散を命じられていて、ナチスの勢力を守ろうとした「元ナチス」の党員たちの中には数多くの派閥が生まれ、派閥間での抗争も生まれていました。

ですが、ヒットラーが釈放された後、国家社会ドイツ労働者党が再建されると、ヒットラーの下、ミュンヘンの派閥は再び結束し、ヒットラーの手によってまとめ上げられました。

元ナチスの党員の中にあった社会主義色の強い派閥は衰退した・・・とありますので、ナチス全体としては保守色の強いグループとして纏まった、という事でしょうか。ちなみにこの段階で突撃隊を率いた元エアハルト海兵旅団のメンバー、エルンスト・レームはミュンヘン一揆の責任を取る形で引退させられています。

また、元々オーストリア人であったヒットラーは釈放後、オーストリア市民権抹消手続きを取り、1932年2月25日、ブラウンシュヴァイク自由州のベルリン駐在州公使館付参事官となったヒットラーは、公務員となることで自動的にドイツ国籍を取得することとなりました。


ルール占領後の経済について(復習)

少し、時系列を整理します。

第503回の記事 、及び第504回の記事 にて、この当時のドイツで起きていた「ルール占領」、及び「ハイパーインフレーション」ついて記事にしています。

ルール占領が行われたのが1923年1月4日の事。直前の1922年12月にはドイツの物価は1919年比で1807.8倍にまで達していました。問題なのは、この貨幣価値の下落が、非常に短期間で、非常に急速な下落率で進行していくこと。

「物価」は逆にもすごい上昇率で高騰します。

これが、ルール占領後、ヴィルヘルム・クーノが取ったルール地方の「受動的(消極的)抵抗」政策、要はストライキの呼びかけと通貨発行による給与の直接分配によって「ハイパーインフレ」が勃発。マルクの価値はドルに対して1/2億3606万倍にまで下落。

クーノはこれに対して何もまともな対策を打つことができずに失脚。グスタフ・シュトレーゼマンが首相へと就任します。

シュトレーゼマンが就任したのが1923年8月13日。彼がルール占領に対するストライキ政策を中止したのが9月26日。これに対してバイエルン州知事であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングが非常事態宣言を発令。グスタフ・フォン・カールをバイエルン州総督として任命します。

そう。バイエルン州における「カール政権」の誕生です。そしてこの後、同年11月に勃発したのが「ミュンヘン一揆」です。

改めて考えますと、ヒットラーが表舞台へと登場するきっかけとなった「ミュンヘン一揆」がドイツの歴史の中でそのような位置づけにあるものあったのか、という事を思い知らされますね。

で、シュトレーゼマン内閣において登場したのがヒャルマル・シャハト。価値が下落し続けるパピアマルクではなく、地代に価値が紐づけられたレンテンマルクを新たに発行し、これをパピアマルクと交換。(デノミ政策)

パピアマルクに比べて価値が下落しにくいレンテンマルクの登場によってドイツにおけるハイパーインフレーションは急速に鎮静化することとなります。

シュトレーゼマンの辞任はピンポイントでバイエルン州騒動が原因となるのですが、その1カ月前、第一次世界大戦の賠償委員会に米国が参加し、賠償策定のプロセスにドイツが参加することとなりました。

第504回の記事 から引用します。
まず「ドーズ公債」なるものがロンドンのイングランド銀行とニューヨークのJPモルガンが連携して発行され、ドイツが両国からお金を借りる形でフランス・ベルギーに返済を行い、ドイツは新通貨である「ライヒスマルク」を発行。

これまでドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換。ドイツは金本位制に復帰し、漸くマルク相場も落ち着きを取り戻しました。

上記内容が、米国賠償委員会に参加し、シュトレーゼマン退陣後にフランスやベルギーが受諾することとなった「ドーズ案」。

ヒャルマル・シャハトの政策はドイツ国内における政策なのですが、この内容は戦後賠償委員会の国際的な取り決め。

ドーズ案によって発行されることとなった「ライヒスマルク」はドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換され、ドイツは晴れて金本位制に復帰。マルク相場も落ち着きを取り戻すこととなりました。


ドーズ案後の経済~世界恐慌


ヒットラーの登場と第一次世界大戦敗戦後のドイツの歴史がようやくリンクしましたね。

ドーズ案では、ドーズ債を発行していますので、ドイツはイギリスとアメリカからお金を借りていることになります。

で、それまではドイツとフランス・ベルギー間の賠償交渉だったのですが、両国に対しては米英からお金を借りることで返済の見通しが立ちましたので、今度は米英とドイツとの交渉が中心となってきます。

1928年頃のアメリカの経済は過熱しており、ドイツへの資金流入が激減していたのだそうです。そうすると当然ドイツとしても資金不足に陥りますので、米国に対して賠償金支払い額の減額を求める交渉へと入っていました。

これに対し、オーウェン・D・ヤングという人物を中心としてドイツだけでなく日本も参加する形で新たな委員会が設置されることが決まります。

オーウェン・D・ヤング
Bundesarchiv, Bild 102-00260 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

なぜ日本が・・・とい疑問が現時点で私の中には存在しているのですが、記事を進める中、どこかで答えが出てくるだろうと信じ、記事はそのまま進めます。

ヤング案について、Wikiからその内容を引用しておきます。
ヤング案においては賠償の残額を358億1400万ライヒスマルクと定めた。ドイツは1988年までの59年間、年賦の形で支払う。毎年ドイツは、利子とドーズ債の元本支払を含めた平均20億5千万ライヒスマルク相当を外貨によって支払う。1930年は17億ライヒスマルクで、その後21億ライヒスマルクとなり、1966年以降は16.5億ライヒスマルクとなる。実際の支払は遅滞した。ローザンヌ会議で賠償債務は減額された。

日本は賠償支払を受ける国の一つであり、ベルギーを舞台にしたスパ会議(1920年7月)の決定により賠償支払のうち0.75%を受け取っていた。ヤング案においても初年度には1250万ライヒスマルクの支払を受ける権利を持っていたが、サンフランシスコ平和条約第8条C項により対独賠償請求を放棄している。なお、スパ会議で決まった各国の分配率は、フランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、ユーゴスラビア5%であった。

賠償の分配機関として国際決済銀行を創設しており、日本銀行は賠償債権国であることを理由に株主と認められた。しかし、このことが後の金解禁へ向けた見えない圧力となった。出資金は日本興業銀行をはじめとして、三井・三菱・安田・住友という旧財閥系の銀行をふくむ14行がほぼ均等に国債を引受けることで調達された。

日本の名称が出てきましたね。

この時点での日本の国際的な地位をうかがい知ることができます。ヤング案っていうのは、要はドイツが戦勝国に対して支払わなければならない金額を減額し、返済期間を緩和するための取り決めだったんですね。総額は1320億金マルクから358億金マルクにまで減額されたのだそうです。

ドーズ案が成立した後、ルール地方からフランス・ベルギー軍が、ヤング案が成立した後ラインラント全体からの占領地から撤退します。

ヤング案そのものは1929年6月に承認され、翌1930年1月に調印、3月にドイツが批准することとなりました。

ただ、このヤング案の成立はどうも世界恐慌勃発のきっかけとなったらしく、また更に、恐慌の勃発が原因でドイツは賠償額を1/4~1/3にまで減額されたにも関わらず、その賠償金が支払えなくってしまいます。

上記引用では、「ローザンヌ会議で賠償債務は減額された」とありますが、実際には30億マルクにまで減額することで合意はされたものの、実際には英仏伊白の4カ国が批准する代わりに米国の戦債を帳消しにするよう申し合わせたたものの、米国はこれを拒否したため、協定が批准されることはありませんでした。

また、ドイツでは1932年、ついにヒットラーが首相として就任し、賠償金の支払いそのものを拒否。ヤング協定はなし崩し的に崩壊することとなりました。


次回記事では、改めてこの一連の流れをヒットラー側の側面から見て、記事にしてみます。





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