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第509回 ヒットラーの代理人ローゼンベルク~反ユダヤ主義の根源とは~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第508回 ミュンヘン一揆とは何か? カール政権VSドイツ党闘争連盟

この問題、いい意味でも悪い意味でもヒットラーという人物に先入観を持たず、極力客観的に記していきたいと思います。

だからこそ、表現が難しい。ただ、彼にカリスマ性や統率力があったことは事実だと思います。ここまでの時点ではまだ世間で言われているような彼の暴力的な側面は見えていません。

現時点では彼に最もイメージの近い人物はロシア革命時のトロツキーですね。

暴力的な手段を用いつつも暴力そのものには頼らず、平和裏にすべてを解決しようとする姿勢。またここまでの段階でヒットラー自身が非常に色んな人から信頼されており、かつ慕われていたという事実を私自身は感じています。

私の主観と言われればそれは否定しませんが、それでも「客観的な情報に基づく主観」だと思っています。


裁判に臨むヒットラー

投獄する直前、逮捕する前に拳銃で自殺しようとまでしたヒットラーですが、一方で彼が裁判中に行った弁論は、彼を裁くはずの司法側の人間をも引き込み、例えばこの時主任検事は

「ドイツ精神に対する自信を回復させようとした彼の誠実な尽力は、なんと言おうとも一つの功績であり続ける。演説家としての無類の才能を駆使して意義あることを成し遂げた」

と、その起訴状において読み上げるほど。何となくその異常性すら感じてしまうわけですが、この疑問に対する答えは、裁判において彼が受けた、その判決文においてうかがい知ることができます。ヒットラーはオーストリア国籍を保有していたため、国外に追放される恐れがあったものの、判決においては

「ヒトラーほどドイツ人的な思考、感情の持ち主はいない」

として、彼は国外追放を免れることができました。

彼は、裁判中のその弁論において、まず、自身の行ったことを決して人のせいにしようとはせず、ただ一貫して彼の主張の正当性を毅然として訴え続けています。前回の記事でお示しした、ルーデンドルフの弁論における主張と非常によく似ています。

前後の文脈から察するに、彼はただひたすら、「ドイツ人としての誇り」。つまり、ゲルマン魂を弁論において訴え続けたのではないでしょうか。第一次世界大戦、その敗戦によってドイツ人が失った物。物質的なものではなくその精神面で失った物。

これを取り戻すことの大切さをひたすらに訴えていたのではないかという事。そして、それはヒットラーだけでなく、裁判所の検事たちを含め、ドイツ人が須らく保有していた、共通の理念だったのではないかと思うのです。

みんなが心の底で思っていることをそのまま言葉にして発言するものですから、「そうだ、その通り!」と聞く者の心を打つのでしょう。そう。ヒットラーの言っていることは、実はみんなが声高にして叫びたいこと。敗戦後、中々言葉に出せずにいたことを、ヒットラーが代弁してくれていたのではないでしょうか。

ですから、彼は投獄中も非常に厚遇されています。


投獄中のヒットラーと代理人、ローゼンベルク

ヒットラーの投獄中、彼はまずアルフレート・ローゼンベルクという人物に、自身に代わって党を再建することを命じるのですが、この時点でナチス自体は解散させられていますから、党として「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」の名前を名乗ることはできません。

そこでローゼンベルクは元ナチス党員たちを纏めて「大ドイツ民族共同体」という政党を組織するのですが、この政党がナチスの偽装政党である、との指摘を受けないよう、ローゼンベルク自身は代表とはならず、無名の活動家をその代表として据えています。

初めて登場した「ローゼンベルク」という名前なのですが、ヒットラーという人物について検証する意味では、非常に面白そうなので、少し深堀してみます。

アルフレート・ローゼンベルク
Bundesarchiv, Bild 183-1985-0723-500 / Bauer, Friedrich Franz / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

どの部分を面白いと感じたのかと申しますと、この人物、私が抱いているヒットラーに対する疑問の「答え」とも言えるような経歴の持ち主です。もう一人、「ディートリヒ・エッカート」という人物も登場しますので、今回の記事はこの両名にポイントを絞って記事を作成してみます。


ローゼンベルクとエッカート

ローゼンベルクとヒットラーとの間柄ですが、いうなれば、彼はヒットラーの「教師」の様な存在。もう一名、「ディートリヒ・エッカート」は、ヒットラーが参入した「ドイツ労働者党」の結成にかかわった人物の一人です。彼らが設立した後のドイツ労働者党にヒットラーは参加します。

で、ローゼンベルクとエッカートは、共に強烈な「反ユダヤ主義者」。ヒットラーは、まずエッカートの記した書物の影響を受け、「反ユダヤ主義」へと傾倒する事になったのではないか、と考えられます。

そして、ローゼンベルクをヒットラーに紹介した人物がエッカート。エッカート自身はミュンヘン一揆にも参加していて、刑務所に収監されたのですが、彼自身はモルヒネ中毒で、病気を理由として釈放されています。

ミュンヘン一揆が勃発したのは1923年11月9日ですが、エッカートはその翌月、12月26日にモルヒネ中毒を原因とした心臓発作で命を落としています。

エッカートは第一次世界大戦が勃発する以前。1912年の段階で反ユダヤ主義・民族主義を題材とした演劇の脚本を記していますので、大戦後の「匕首伝説」には関係なく、元々反ユダヤの人物。

この記事そのものとして、「反ユダヤ主義はなぜ起こったのか」ということを検証する記事であれば、両者、エッカートとローゼンベルクについてもっと深く追求していくのですが、記事としての対象は「ヒットラー」であり、シリーズを作成している目的として、実は「なぜ日本はナチスドイツと同盟関係を築いたのか」について検証することを目的としています。

その根底にあるのはナチスドイツがユダヤ人を迫害し、あるいは虐殺したとするその「悪者」としての側面を検証することにあるわけです。

仮に、もしナチスドイツが世間で思われているような「悪」でなかったとしたら、日本がナチスと同盟関係を結んだことについて何ら批判されるいわれもなくなりますし、あるいは真実であったとしてもこれに相応の理由があったとすれば、これもまた見方が変わってくるのではないか、という私の仮説に基づいたものです。

故に、本来目を向けるべきは「ヒットラーがなぜ反ユダヤ主義に傾倒したのか」という事にあり、「ヒットラーが影響を受けたローゼンベルクやエッカートがなぜ反ユダヤ主義に傾倒したのか」という事ではありません。

ですので、記事としては「エッカート」や「ローゼンベルク」の「反ユダヤ主義とのかかわり方」については深めてみようと思うのですが、反ユダヤ主義そのものについては今回の記事ではあえて深めることはしません。


ディートリヒ・エッカート

エッカート自身がいつ、どのようにして反ユダヤ主義に傾倒したのかという事は現時点では(私の中では)不明です。ただ、これを追求しようとすると本旨から逸れてしまいますので、敢えて無視をします。

エッカート

「反ユダヤ主義」と関連してくるのは彼の経歴である「脚本家」としての側面。彼が名声を得ることとなった作品が、「ヘンリック・イプセン」という人物の手掛けた「ペール・ギュント」という作品。この作品の脚本を務めた際、そこに「民族主義」や「反ユダヤ主義」という要素を多分に盛り込んでおり、この作品で彼は名声を得ることとなりました。

この脚本を作成したのが1912年の事。恐らく「ペール・ギュント」という作品そのものは反ユダヤ主義を反映したものではないのだと思いますが、エッカートはそこにユダヤ人を批判する要素を盛り込んで脚本化した、とそういう事だと思います。

考え方として、その方が世間受けをするからそうしたのだと考える事もできますし、この時点で彼自身がユダヤ人に対して批判的な考え方を持っていて、正義感からこれを作品に反映したのだと考えることもできると思います。どちらかは現時点では不明です。

で、そんなエッカートが参加していた団体に、「トゥーレ協会」なるものが存在します。これは、1918年にミュンヘンで結成された「秘密結社」なのですが・・・。調べれば調べるほど、この辺りがどうもナチスの「思想」的な部分に大きな影響を与えているんじゃないか、とそんな匂いがしてたまりません。

「トゥーレ協会」そのものは「秘密結社」だけあって記されている情報が伝聞、推測の様な形式でしか殆んど記されていませんので、この団体の元となった右翼政治結社「ゲルマン騎士団」の側から調べてみますと、ナチスドイツの象徴ともいえる「鍵十字(ハーケンクロイツ)」。これはゲルマン騎士団もトゥーレ協会も共にシンボルマークとして使用していますね。

鍵十字そのものには「アーリア人」の象徴としての意味があるそうで、理由としてはトロイの木馬を発見したシュリーマンが、同じ遺跡の中で発見したのがこの鍵十字で、これを「古代のインド・ヨーロッパ語族に共通の宗教的シンボル」とみなしたから、なのだとか。

ちなみに、ゲルマン騎士団そのものも「秘密結社」ですね。結成されたのが1912年。トゥーレ協会はそんなゲルマン騎士団が分派した際、カモフラージュとして使っていたもの。で、共通して出てくるのは「アーリア主義」という言葉と「反ユダヤ主義」という言葉。

ちょっとカルトチックな内容なので、不必要な情報とは関連付けずに進めます。要は、そのような団体にエッカートは所属しており、ヒットラー自身がそのエッカートの影響を受けていたという事。ヒットラー自身は教会には入会していません。

一つだけはっきりしたのは、「アーリア人」とはインド・ヨーロッパ語族全体を指すものであり、ドイツ人そのものではない、という私自身の定義が誤りではなかったという事ですね。


アルフレート・ローゼンベルク

この人物は元々ロシア帝国領エストニア生まれ。

彼については「反ユダヤ主義」に傾倒するきっかけが明確に存在したようですね。

彼は幼少期に両親を亡くしています。

彼が「反ユダヤ主義」に傾倒するきっかけを作ったのは、彼が出会ったドイツ人宣教師。直接反ユダヤ主義を吹き込まれたわけではありませんが、彼との出会いが彼に書物への関心を生み、そんな中、彼が17歳の時に読んだ「十九世紀の基礎」という書籍が、彼が「反ユダヤ主義」、そして「ゲルマン民族至上主義」に傾倒するきっかけとなった、とあります。

で、どうやらヒットラーはローゼンベルクの影響を受けて、この「十九世紀の基礎」という本の影響も受けているようですね。

作者はヒューストン・ステュアート・チェンバレンというイングランド人。後にドイツ人として帰化しています。

書籍を記したのは1899年。Wikiから抜粋します。

この本の中で、西洋文明はチュートン人(ドイツ系諸民族)によって多大な影響を受けていると主張し、論争を呼んだ。

チェンバレンは、ヨーロッパの全民族(ケルト、ゲルマン、スラヴ、ギリシア、ラテンなど)をアーリア人種と呼んだ。

即ち、原インド=ヨーロッパ文化の担い手である。そして彼によると、アーリア人種の指導者はチュートン人とノルド人であった。チェンバレンの目的は、ドイツ人種の復権を図ることにあった。そのために彼はチュートン人のみならず北欧起源の全部族をドイツ人種に分類した。彼によればケルトもゲルマンもスラヴもドイツ人の血統であった。

チェンバレンによれば、ドイツ人はビザンティン帝国やローマ帝国の後継者であった。ユダヤ人を始めとする非ヨーロッパ民族に支配されていたローマ帝国を崩壊に追い込んだのがドイツの諸部族であり、したがってドイツ人こそが西洋文明をユダヤ人の手から救ったのだと彼は説いた。

これらの思想には、アーリア人種の優越性を説き、セム語系統のユダヤ人を非白人と見なして貶めたゴビノーの影響を見て取れるが、チェンバレンにとってアーリア人とは単に民族や言語によって定義された概念ではなく、人種的エリートを示す抽象理念でもあった。

アーリア人(語義は本来「高貴な者」の意)は進化における適者生存のプロセスの中で劣った者(ユダヤ人)を押しのけ、文明の創造を担う優越人種であると彼は述べた。

チェンバレンはまた、イエス・キリストは宗教的にユダヤ教徒だったことはあるかもしれないが、人種的にはユダヤ人ではないと主張した。

文中で「アーリア人」の呼称について、これが「高貴な」という意味を指すと記していますが、これはサンスクリット語(古代のインド語)で、古代のアーリア人自身が自分たちの事を「アーリア人」と呼称していたことに由来します。

アーリア人、つまりアフガニスタンから移住したインド人とイラン人の事ですね。で、おそらくはチェンバレン自身もこの事を知っていたんじゃないでしょうか。

また、文章中に「ゴビノー」という人物の名前も登場しますが、ヒットラーやナチスもまたこのゴビノーとう人物の影響を受けていますね。

象徴的な文章として
ゴビノーによると、人種こそは文明の淵源であった。黒・白・黄の三人種間の様々な差異は自然が設けた障壁であり、混血によってその障壁が破られることで文明が退化し、カオスに戻ると彼は考えた。

とあります。

この考え方そのままヒットラーの「我が闘争」にも登場しています。「黒・白・黄の三人種間の様々な差異」という表現は用いていませんが、ヒットラー自身が純潔を重視し、混血によって文化が衰退した、という表現を多用しています。

ゴビノー自身は「白人至上主義」の立場ですが、そもそも「アーリア人」は黄色人種ですから、白人と黄色人種を分けてしまえば、「アーリア人至上主義」という考えがそもそも根底から崩れることになります。

黄色人種より白人は劣る、と認めてしまうようなものですからね。これは、おそらくチェンバレンもわかっていたのではないでしょうか。肌の色に関する記述は登場しません。

逆に、ゴビノーの主張にはアーリア人をユダヤ人と差別化するようなことはしていない、とのことですので、チェンバレンにとっては肌の色で区別するより、「ユダヤ人」をアーリア人のアンチテーゼとした方が都合がよかった、という事ではないかと思います。


大きく脱線しましたが、ローゼンベルクはそんなチェンバレンの「九世紀の基礎」という書籍に強く影響を受けており、これが「反ユダヤ主義やゲルマン民族至上主義」に傾倒するきっかけとなっています。まあ、17歳の頃ですから、わからなくはないですね。

で、そんなローゼンベルクは「ロシア革命」の真っただ中にロシアにいたものですから、ロシア革命そのものを目の当たりにしたわけです。Wikiベースですが、これに関して以下のような記述があります。
彼は革命期のアナキズムに強い嫌悪感を持ち、また共産主義革命を「ユダヤ人の陰謀」ととらえ、これらに強く反感を持つようになった

これ自体は、「井代彬雄」という人物の記した「ヴァイマル共和制初期のナチス党におけるアルフレッド・ローゼンベルクについて--ナチス官僚体制研究の一前提として」という研究書籍からの抜粋ということですので、著者の主観が入っている可能性は否定できません。

ただ、ここで一つ確認できるのは、ローゼンベルクは「革命期のアナキズム」に強い嫌悪感を持った、との記述です。アナキズムとは無政府主義の事で、「共産主義」の一形態を示したもの(というより共産主義は本来アナキズム)ですから、ローゼンベルク評ではレーニンたちの革命は「無政府主義」を目指すものだった、という事なのでしょうね。

またこの時点で彼の中では共産主義とユダヤ人が同一視されていたという事。で、その影響をヒットラーは受けていたということですね。

その後、ローゼンベルクは独露の休戦後、ベルリンへと旅立っています。彼もまた、「ドイツ人になりたかった人物」だという事がわかります。

時系列的に記すと、その後、1919年初頭、職を得るためにミュンヘンに渡り、ここで「政治運動家」であるエッカートに出会います。

彼はエッカート「エッカートが主催する」トゥーレ協会にも参加したのだそうです。なるほど。トゥーレ協会を主宰していたのはエッカートだったんですね。

ドイツ労働者党を設立したのはエッカートですが、彼の紹介でローゼンベルクはヒットラーと出会い、ドイツ労働者党の党員となります。で、そんなローゼンベルクはロシアの出身で、ヒットラー自身が知らないこともたくさん知っていました。これはユダヤ人の話題とは関係なく、です。

ヒットラー自身、ローゼンベルクに師事することは、とても勉強になったのでしょう。後にヒットラーの伝記を記すこととなった「コンラート・ハイデン」という人物は、この事を
エッカートとローゼンベルクはヒトラーの教師だった。ヒトラーは数年の間、彼らの口真似をしているに過ぎなかった。

と記しているのだそうです。

まあ、これは「コンラート・ハイデン」という人物の印象に過ぎませんから、そのまま鵜のみにはしませんが、少なくともそのような印象をハイデン氏に与えた、という事は事実かと思います。

私も、誰かから何かを学んだ時、これを自分自身のものにしたいと考えるのなら、やはりそれをあたかも自分自身の言葉であるかのように他者に方り、いずれ自分自身の中に落とそうとするでしょう。これと同じ作業をヒットラーはやっていたのではないでしょうか。

その後、投獄中のヒットラーよりローゼンベルクは党の指導を一任され、「大ドイツ民族共同体」を立ち上げることとなるのですが・・・。

ここからはまた、次回記事に委ねたいと思います。




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