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第508回 ミュンヘン一揆とは何か? カール政権VSドイツ党闘争連盟など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第507回 ベルリン進軍を決行するのは誰か?カール政府のドタバタ劇

さて。ミュンヘン一揆に至る経緯はようやく総括できるレベルになりましたね。

前回の記事で私、「ヒットラーらは業を煮やし、ついにドイツ闘争連盟単独でのクーデター決行を志すこととなります」と記したのですが、よくよく考えると一揆が勃発する場所はベルリンではなく「ミュンヘン」。ミュンヘンはドイツではなく、「バイエルン」の州政府がある場所です。

で、私前回記事の最後であたかもベルリン進軍が決行されるかのような書き方をしています。そして「カール政府はバイエルン州民や他の指導者らの信頼を失った」理由にはっきり触れることなく話題を終結させているのですが・・・。

カール政権が民衆の信頼を失った理由は彼らが「ベルリン進軍計画の延期を決めた」事。

1923年11月6日、カールは「ナチスを除く国家主義団体の指導者」を招集するのですが、その場で「体制が整った後にベルリン進軍を行う事」が決議され、計画そのものは延期された形になったんですね。

これに業を煮やしたヒットラーをはじめとするドイツ闘争連盟が「クーデター決行を志す」こととなるわけです。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯まとめ

簡単にミュンヘン一揆勃発までの経緯をおさらいします。

1.シュトレーゼマンにより、(ルール占領に対する)受動的抵抗政策の中止が表明される。

2.これを受けミュンヘンに「ベルリン政府打倒」に向けた機運が高まる。

3.機運を受け、ヒットラーを中心として「ドイツ闘争連盟」が結成される

4.カールがバイエルン州総督に任じられる

5.ナチス機関紙の記事を巡り、ベルリン政府とカール政府との間でドタバタ劇が繰り広げられる

6.カールらがベルリン進軍延期を決議したことを受け、ドイツ闘争連盟は「ミュンヘン政府に対する」武装蜂起を計画する

という流れですね。

ただ、ここでドイツ闘争連盟の内部では、自分たちが引き起こすクーデター(未遂)に対し、二つの案が出されています。

一つが、ナチスの幹部であったショイブナー=リヒターという人物の提案した、武力による州政府制圧という所謂「武装蜂起」。

もう一つはヒットラー自身の案で、カールが演説をする予定のビアホールに突入し、ここでカール、ロッソウ、サウザーの3巨頭を説得し、ドイツ闘争連盟への支持を求める、というもの。

これに対する現時点での私の感想としては、「実に穏やかな武装蜂起だな・・・」という印象です。

これ、印象としてはロシアでレーニンらが起こした10月革命と非常によく似ていて、10月革命のときは当時のケレンスキー内閣の拠点を次々と制圧し、最後に冬宮を占拠することでクーデターが成功するのですが、内部の人間と革命を起こす側との連携が取れていて、革命としてはほぼ血を流すことなく、たった2日で終結しています。

この時ももっと凄惨な革命が起きるものとばかり思っていたので、非常に肩透かしを食らったような印象を受けたのですが、今回のヒットラー案もこれに負けず劣らず、クーデターの内容としては実におとなしい内容ですよね。

という事で、改めてこの計画が実行に移った経緯を深めてみます。


ミュンヘン一揆勃発

ここからは、時系列的にミュンヘン一揆の推移をただ追いかける記事になります。

なるべく読みやすくしようとは思うのですが、私が「ミュンヘン一揆」を理解するために作成する部分なので、しばしお付き合いいただければと思います。


決行前、早朝までの様子

まず、発生したのは11月8日の事。実行犯はドイツ闘争連盟。ヒットラーが中心となって作った組織です。

内容としては、ヒットラーが提案した策が採用されているのですが、これよりも前に、ショイブナー=リヒターより武装蜂起案が起草されており、実はこれはヒットラー案が採用される前に一度方針として決定しています。

リヒター案としては1923年11月11日に武装蜂起を決行し、バイエルン州政府を制圧するというもの。先んじて11月7日、政府の主要機関を制圧するという案が作成されたんですが、これにヒットラーが異を唱えた形ですね。

11月6日夜の事ですが、翌7日、ナチスの軍組織である突撃隊がミュンヘンのキャバレー「ボンボニエール」というところに殴り込み、風刺レビューの作曲家ペーター・クライダーを撲殺したのだそうです。

なぜこのタイミングでこんなことが起きているのかという事、ペーター・クライダーという人物がどういう人物であり、どのような「風刺レビュー」を作曲しているのかという事もちょっと理解できていないのですが、少しだけこの「突撃隊」メンバーの暴力的な側面がうかがえますね。

ヒットラーの提案内容としては、まず前提として、ミュンヘン最大のビアホールである「ビュルガーブロイケラー」というところでカール総督が演説を行う予定があったという事。

更にここに三頭政治を担っている「ロッソウ(軍)」と「ザイサー(警察)」も参加するため、この3名に対し、闘争連盟の支持を求めるための説得を行う・・・というのがその内容です。

決行されたのが8日の午後8時半なのですが、この話し合いは同日午前3時まで続いた、とのことで、要は直前まで話し合いを行っていたってことですね。


ビュルガーブロイケラーへの突入

突撃隊に対しては待機命令が出されるのですが、直前まで話し合いが行われていたこともあり、突撃隊全体にこの計画が周知されていたわけではなかったようです。その結果、参加できなかった隊員も多数いたようです。

会場(ビュルガーブロイケラー)は125名の警官によって警備が行われていたのですが、武装した突撃隊の登場に、ほとんど抵抗らしい抵抗をすることもなく立ち去っています。ヒットラーが現場に到着したのは午後8時。ヒットラーは事前にビアホールに入って仲間と共にビールを飲みながら待機していました。

やがてカールによる演説が始まるわけですが、その演説の最中。午後8時30分に隊長ゲーリング率いる突撃隊がビアホール(ビュルガーブロイケラー)になだれ込みます。

これを受け、ビアホール内で待機していたヒットラーはカールが演説をする壇上へと上がろうとし、現場は大混乱。

そして、この時ヒットラーは拳銃を頭上に向けて発砲。

「静かに!国家主義革命が始まったのだ。だれもここを出てはならぬ。ここは包囲されている!」

と叫んだのだそうです。


ヒットラーの要求

ヒットラーはカール、ロッソウ、ザイサーの命の安全を保障した上で、次のような要求を3人に対して行います。

1.ドイツ闘争連盟を中心とする臨時政府への権限の委譲
2.ベルリン進撃への協力

更に、ヒットラー自身が政府を組織し、ドイツ闘争連盟側よりペーナー(エルンスト・ペーナー?)という人物を首相に、エーリヒ・ルーデンドルフを国民軍司令官に。

カールには「州摂政」、ロッソウには「国防大臣」、ザイサーには「警察大臣」というポストをそれぞれ提示しました。

「ルーデンドルフ」とは、第一次世界大戦の名称で、バーデンバーデンの密約を交わした岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎、東条英機 にも影響を与えた人物ですね。

ドイツ闘争連盟には「名誉総裁」として就任していました。

しかし、さすがにカールらも「はいそうですか」とこれを受け付けるわけもありません。これを受け、ヒットラーは同席していたリヒターにルーデンドルフを呼びに行かせました。

リヒターから事情を聴かされた時、実はルーデンドルフ、このヒットラー案に基づく武装蜂起の計画を聞かされていなかった側の人間で、最初は激怒していたのだそうですが、彼はそれより武装蜂起そのものを成功させることの方が大切である、と考得たのだそうです。

ルーデンドルフが到着する前のホールでは突撃隊と群衆との間で小競り合いが続いていたのだそうですが、やがてヒットラーの演説が始まると群衆は彼を支持するようになっていたのだそうです。

こう聞くと、ヒットラーってかなりすごいですね。突然ホールに武装してなだれ込んだ上、徐に演説を始めて現場にいた群衆をここまで惹きつけたわけですから。

カールらはルーデンドルフによって説得され、ヒットラーに協力することを明言します。

ここからがすごい・・・というか、個人的に・・・いや、多くは言いますまい。

ヒットラーと共にカール、ロッソウ、ザイサーが演壇に立つと、群衆はドイツ国家の大合唱。この後集会に参加していたクリニング首相ら閣僚は逮捕、軟禁されたのだそうです。


カールらの裏切り

と、このサブタイトルでわかりますように、要はカールらは本当にヒットラーの申し出に従ったわけでありませんでした。

ミュンヘン市内では突撃隊を今度はレームが率いて市役所や国防軍司令部を占拠し、バリケードを築きました。

ところが、この時、彼は通信施設を占拠しなかったため、ここから反一揆派に連絡がなされてしまいます。

ルーデンドルフは自身の説得がうまくいったと思っていたのですが、カールらは逆に恥をかかされていますから、この事を恨みに思っていました。

一方で一揆が勃発する直前、ベルリン政府の国防軍総司令であるゼークトからはヒットラーらを排除することを要請する親書が送られていたりしました。


カール、ロッソウ、ザイサーの脱走

近くで起きた小競り合いを収めるため、ヒットラーが席を外した時、現場に残されたルーデンドルフに対し、ロッソウ、カール、ザイサーが「持ち場に帰りたい」という申し出を行います。

普通はこれを止めなければならないと思うのですが、ルーデンドルフはなんと「ドイツ軍将校は決して誓いを破らない」という理由でこれを容認してしまいます。

この時点で、実は既にバイエルン国防軍は一揆に反対する姿勢を固めていて、カールがバイエルン政府庁舎に戻ってきた時、彼はバイエルン王太子より「いかなる犠牲を払っても反乱を鎮圧せよ。必要とあらば軍隊を使え」という通信んを受け取ります。

ロッソウもまたゼークトより反乱鎮圧の命令を受領しています。

ヒットラーたちはこの後バイエルン政庁の占領を目指す(8日午後11時)のですが、この時点でカール、ロッソウ、ザイサーの3名はヒットラーを裏切っており、鎮圧部隊と化していますから、この後、反乱軍は次々と国防軍、州警察によってとらえられることとなります。

ヒットラーらがカールたちの裏切りに気づくのは翌日午前5時。軍司令部をドイツ闘争連盟のレームが拠点としていたのですが、10時の時点で国防軍によって包囲されていました。


ミュンヘン一揆の結末

これに対し、ヒットラーらがとった対応策は、なんとレームの立てこもる軍司令部への「デモ行進」。ルーデンドルフの発案だったらしいのですが、その根拠として、英雄であったルーデンドルフを全面に立てておけば軍も警察も手出しはできないはずだ、という理由です。

更にこのデモ隊は殆んど丸腰で、武装しているものに対しても実弾を抜き取る様命令が出ていたのだとか。軍や州警察に反撃して取り返しのつかないことになることを避けるためでしょうか。

フェルトヘルンハレ
Thomas Wolf, www.foto-tw.de - 投稿者自身による作品, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる

12時30分頃、デモ隊がフェルトヘルンハレという、ミュンヘン市内の広場(オデオン広場)にある建築物(日本語では将軍廟、などと訳されるカテゴリーの建築物)の前を通りかかったとき、警察隊がデモ部隊に向け、一斉射撃。

この射撃でショイブナー=リヒターが即死。ルーデンドルフは行進を止めようとせず、銃撃にさらされる中、警官隊の隊列まで突き進み、逮捕。

ゲーリングは足を負傷(後にオーストリアに亡命)、レームは潜伏していた軍総司令部で降伏。3名の警官を含み、総数で19名の死者が出たのだそうです。

ヒットラー自身は党員であるウルリヒ・グラーフという人物が身を挺して守ってくれたため、銃弾にさらされることはなく、後にナチスに入党し、幹部となるエルンスト・ハンフシュテングルという人物の別荘に逃亡しました。

その二日後、警察がここに到着したことを受け、ヒットラーは拳銃による自殺を図ろうとしました。しかし、これをハンフシュテングルの妻であるエルナに引き留められ、この時エレナに、ナチス幹部の今後の指導を託す内容を記したメモを渡します。

で、ヒットラーは警察に逮捕されるのですが、この時政府や役人に対する批判を叫んでいたという事なのですが、どうなのでしょう。この時の叫びは普段から彼が感じていた不満を言葉にしたものなのでしょうか。それとも自身が案を練り、その上でカールらに裏切られたその屈辱から漏れた言葉なのでしょうか。

デモ部隊の内、逮捕されたのは指導者たちのみ、と記されており、軍司令部を占拠していた部隊については武装解除後に撤退を許可された、とあるのですが、行進を行っていたメンバーについてはどうなのでしょうか。

恐らくは占拠部隊同様、逮捕されることなく撤退をすることとなったのではないかと思われます。


ミュンヘン一揆の決着

ミュンヘン一揆の「決着」という意味では、その後の裁判の経過こそが重要性を持つものかと思います。

ここには編者の個人的な感想と思われる内容も記されていますので、あくまで事実のみを抽出した後、参考としてその内容を掲載しておきます。

決着としては、ヒットラーに5年間の「城塞禁固刑」が課せられることとなりました。ただし、この時の待遇は非常に良かったらしく、独房の環境も、食事も満足のいくもの。

更に面会も自由で、ナチスの党員が彼の身の回りの世話をしました。

そして何より着目すべきは、この時にヒットラーは後述により、あの「我が闘争」を執筆することとなった事。

我が闘争

ヒットラー自身は5年の禁固刑を言い渡されていたものの、実際には半年後、保護観察処分に減刑され、12月20日、仮出獄することとなります。


裏切者、カールらの評価

カールらの行動は、個人的には突然ヒットラーたちに演説会場に殴り込みをかけられ、自分たちの演説を台無しにされた挙句、「自分たちに政権を渡せ!」と言われた後、突然ルーデンドルフがやってきて説得をされる・・・という滅茶苦茶な状況ですので、口で「今日から仲間だ」と言ったとしても、そんなのは口先だけ・・・というのも心情として理解できなくはありません。

いや、寧ろ普通そうだろうと。

しかし、この時のカールらの行動はバイエルンの民衆たちには決して良い評価を受けておらず、民衆からは「一揆が失敗しそうになると、突然態度を豹変させた」というように映った様です。

裁判においても自分たちに不利な発言が出ないように圧力がかけられていたようで、取り締まった側ですから当然一揆の犯人とされるようなことはないわけですが、民衆からの評価は急降下することとなりました。

で、民衆からの評価が下落したことは、おそらく事実そうだったのだろうと思います。ただ、編者による先入観がある可能性は否定できない部分かな、とは思います。

また、カールらはそれでも第一次世界大戦の名将であるルーデンドルフを有罪にする事も躊躇していたようで、一方のルーデンドルフもまた、「一貫して責任を回避し続けた」とあります。

ただ、これに関しては続いて「時としてその堂々とした態度や命令的な口調は裁判長を震え上がらせるほどであった」との記述もあり、「責任を回避した」わけではなく、「自らの正当性を毅然として訴えた」とする表現の方が近いのではないでしょうか?

で、彼の言葉の中におそらくはヒットラーを礼賛するような表現があり、この事が一揆の中心人物として「英雄ヒットラー」の民衆に対する人気を急上昇させることとなったようです。

この辺り、ヒットラーの人気が本当にこの事をきっかけとして急上昇させることとなったのかどうか、私としては現時点で裏付けるデータを保持していませんので、現時点では「なるほど、そういう事があったんだな」という程度で受け止めておくこととします。

今後の記事の中で、これを裏付けることができないかどうかという事にもチャレンジできればと思っております。


まとめ

ポイントとしては、ミュンヘン一揆が失敗に終わった時点で「我が闘争」が牢獄の中で執筆されたという事。

また更に、ルーデンドルフの助力もあり、バイエルンにおけるヒットラーの評価が急上昇するきっかけとなったという事。

この2点を抑えて、「ヒットラー」と「ナチス」という存在について、今後の記事に委ねることとします。




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