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第506回 ミュンヘン一揆の主犯、「ドイツ闘争連盟」結成に至るまでなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第505回 ヴェルサイユ条約後の独ソ密約とミュンヘン一揆勃発までの経緯

前回の記事では、第一次世界大戦後のドイツの近代史の中で、ルール占領に関連した記事の中で触れることのなかった話題。首相であるヨーゼフ・ヴィルトがソ連と結んだラパッロ条約やこれに関連したラーテナウ外相の暗殺、そして「共和国防衛法。

また、ヒットラーが歴史の表舞台に登場するきっかけとなった「ミュンヘン一揆」。これについて話題にしました。

ただ、「ミュンヘン一揆」についてはこれが勃発するまでの経緯が複雑で、またこれまで私が作成してきた記事の中では登場しなかったような人物や組織の名前が立て続けに登場するので、整理するのが非常に難しいと感じました。

そこで、前回の記事ではこの内ミュンヘン一揆を引き起こす主犯となる「ドイツ闘争連盟」。この組織の登場までを話題にし、それ以降の内容は今回以降の記事に委ねる形で終結させました。

この時点で既にヒットラーが党首を務めた「国家社会主義ドイツ労働者党」即ち「ナチス」は既に組織として登場しています。

「ドイツ闘争連盟」とは、ヒットラーが政治的指導者を、「ヘルマン・クリーベル」という人物が軍事的指導者を務める組織です。ヒットラーはナチスの軍事組織である「突撃隊」をこのドイツ闘争連盟に参加させました。

今回の記事では、まずこの「ドイツ闘争連盟」について深堀したうえで、ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか。この辺りを記事としてまとめたいと思います。


「ドイツ闘争連盟」とは何か。

既に「『ドイツ闘争連盟』とは何か」という命題についてはいくつか答えを示してはいるのですが、これを深堀する意味でこのようなサブタイトルにしてみました。

「ドイツ闘争連盟」とは、「祖国的闘争同盟共働団」から派生した組織出ることをお伝えしました。また、ここに「ナチスの軍事組織である突撃隊」が参加していることもお伝えしましたね?

この当時のドイツでは、政党が集会を行うとき、必ずと言っていいほど敵対する政党が殴り込みをかけ、集会を滅茶苦茶にする傾向が常態化していたようで、ヒットラー率いる「突撃隊」とは、ナチスの前身である「ドイツ労働者党」が1919年11月に集会を行った際、組織された警備隊がその原型となっています。

この組織は1920年2月、ドイツ労働者党が「国家社会主義ドイツ労働者党」へと名称が変更された後、「整理隊」へと組織改編されます。

この時、整理隊の隊長を任されたのがエミール・モーリスという人物。彼は後にヒットラーの弁舌を纏め、「我が闘争」を執筆した人物でもあります。「我が闘争」はヒットラーがしゃべった内容を、そのまま彼が筆記したものなんですね。

ヒットラーはさらに1921年7月29日、ナチスの党首となると、整理隊はさらに「体育スポーツ局」へと組織改編されます。

ヒットラーが党首になることを支援した人物がエルンスト・レーム。彼はベルリンからミュンヘンに派遣されている政府軍、「第7軍管区司令部」の軍人で、義勇軍設立のエキスパート。

エルンスト・レーム
Bundesarchiv, Bild 102-15282A / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


彼はヒットラーに対し、元エアハルト海兵旅団の隊員であり、現コンスル(右翼テロリスト集団)のメンバーであるハンス・ウルリヒ・クリンチュを「体育スポーツ局」の隊長として推薦します。(同8/3)

タイミング的に、ベルリンにおいてカップ一揆が失敗に終わった後で、ヴェルサイユ条約を順守する目的で、ベルリン政府より当時のカール政府に対し義勇軍や郷土軍の解散命令が出されていました。

当初はこれを拒んでいたカール首相も、最終的にはこれを拒否することができず、6月28日、これに同意することになります。カール首相もまた、レームによる支援を受けていました。

レームとしては、何とか義勇軍を維持したい気持ちを強く持っていましたので、自身の影響力のある元軍人を送り込むことで、彼の組織した義勇軍を維持しようと考えていたんですね。


突撃隊の結成

同年9月10日、ヒットラーは「体育スポーツ局」の名称を突撃隊へと更に改変することを発表します。

11月4日、ドイツ社会民主党の党員数百名がナチスの集会を襲撃した際、体育スポーツ局のわずか50名足らずのメンバーがこれを撃退したことを受け、「体育スポーツ局」に「突撃隊」としての名称が正式に与えられます。

「突撃隊」の結成ですね。

突撃隊には、レームが送り込んだエアハルト海兵旅団の下隊員たちが多数所属していて、解散を命じられたエアハルト海兵旅団としては、その組織を維持するのに都合がよかったですし、ヒットラーとしてはその名声を利用することができました。

レームとしても自身が作り上げた義勇軍が解散を命じられていて、突撃隊はそういった義勇軍の構成員たちの受け皿にもなっていましたので、それぞれにとってのメリットがありました。

ですが、ヒットラーにとってみれば、せっかくナチスの軍事部門として「突撃隊」を設立したのに、そこにいるメンバーは大半がレームの息のかかった元エアハルト海兵旅団の隊員で軍人としては実力者ばかり。

ナチスの党首として、ヒットラーの影響が及びにくい状況にあり、この事をヒットラーは危惧していました。


突撃隊、「祖国的闘争同盟共働団」への配属

翌年1月には、フランスによるルール占領が決行され、ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト大将の命令で、突撃隊にも国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められます。

ヒットラーは最初嫌がっていたのですが、これも軍に所属するレームに説得され、渋々これに従うこととなります。

ただ、突撃隊としては正式に軍の訓練を受けることになるわけですから、ナチス軍部の組織としては強化されることとなったのではないでしょうか。

この時突撃隊が所属した組織が即ち、「祖国的闘争同盟共働団」ですね。

突撃隊への指揮権そのものが軍に持っていかれることを危惧したヒットラーは共同団に配属された直後、1923年3月に突撃隊の隊長をハンス・ウルリヒ・クリンチュからヘルマン・ゲーリングへと挿げ替えています。

ゲーリングはレームが推薦して突撃隊に配属された元エアハルト海兵旅団の隊員たちを一掃し、ヒットラーに忠誠を誓う隊員たちのみで部隊編成を行います。

実際に突撃隊が軍の訓練を受け始めるのは同じ3月からですから、新しく編成された隊員たちが軍の訓練を受けたことになりますね。

ただ、これにはさすがにレームが切れるんじゃないかと思ったのですが、同年8月13日、シュトレーゼマン内閣が設立されると彼から「受動的抵抗」政策の中止が表明されます。

これを受け、いよいよミュンヘンでも、ベルリン政府打倒に向けた機運が高まることになります。

ヒットラーはこの機運に乗じて9月2日、いよいよ「ドイツ闘争連盟」を結成します。ドイツ闘争連盟はヒットラーによって組織されたものだったんですね。

このドイツ闘争連盟の政治的指導者をヒットラーが、軍事的指導者を「祖国的闘争同盟共働団」の指導者であったヘルマン・クリーベルが務めました。

この時、9月26日、レームは軍に除籍願を提出し、正式にヒットラーの下へと馳せ参じています。

という事は、レームはヒットラーの行動に対して不快感を抱いたりするようなことはせず、まっすぐに受け止めていたという事ですね。


ヘルマン・ゲーリングがナチスに入党した理由

ヘルマン・ゲーリング
Bundesarchiv, Bild 102-13805 / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, リンクによる


さて。ここで一つポイントとなるのは、突撃隊が「祖国的闘争同盟共働団」に参加した後、突撃隊の隊長となった人物、ヘルマン・ゲーリング。彼がナチスに入党することとなったその理由です。

彼は、1922年11月、ミュンヘン・国王広場で開催されたナチスの政治集会で初めて演説を行うヒットラーの姿を見ることになるのですが、ヒットラーの演説の後、彼はヒットラーと個別に面会する機会を得ることになります。

ゲーリングはその場でヒットラーから

「ドイツが敗戦国にされたのは、戦いに負けたからではなく、ユダヤ人と共産主義者の裏切りのせい」

であるとする所謂「背後の一突き説」を熱心に語るヒットラーに感銘を受け、翌月12月にナチスへと入党しています。

ですが、そもそも「背後の一突き説」とは、「第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ」という考え方を言うのであって、そもそもここにユダヤ人は関係ありません。

ですが、ヒットラーはこの時点で既に共産主義者とユダヤ人とをある意味同一視していたんだという事がわかります。

彼自身は シオンの議定書 に記されている内容を真に受けており、所謂「ユダヤ陰謀説」に振り回されていることはわかります。

ただ、彼自身としては(彼の説によれば、ですが)、例えば彼が嫌っている左翼系の新聞の編集者や歴史上の優秀な芸術家たちが作り上げた絵画をけなすかのような作品を作り上げる者たちが軒並み「ユダヤ人」であることを突き止めており、この事が彼にユダヤ人を嫌悪させる所以ともなっています。

また、この当時のドイツ人の共通認識として、例えばロシアはドイツに降伏しており、一方のフランス戦においてはその戦場はドイツではなくフランス。ドイツそのものは殆んど傷ついていないのです。

このような事情から、ドイツ人としては明らかに勝利に向かって突き進んでいたのに、突然政府が敗北宣言をした。そんな風にドイツの敗戦は映っていたのだと思います。

当然納得がいかず、(事実そうですが)「共産主義者の裏切り」によって自滅した。そういう印象が非常に強いのだと思います。

ヒットラーからしてみれば、これを裏側から主導していたのはユダヤ人であり、国内から社会主義者やユダヤ人を一掃する事こそまさにドイツの国益につながると、この時点で既にそのように思っていたのではないか・・・という推察を行う事ができます。

この時点ではまだ「推察」に過ぎませんし、そのことによってヒットラーがどのような行動に出るのか。これもまだ予測はできません。


記事としては、ここから更に「ここからどのようにしてミュンヘン一揆勃発へと情勢が動いていくのか」というところまで描きたかったのですが、「ドイツ闘争連盟」に関する内容だけである程度まとまってしまいましたので、結成後のドイツ闘争連盟の動きに関しては改めて次回記事に委ねたいと思います。






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