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第505回 ヴェルサイユ条約後の独ソ密約とミュンヘン一揆勃発までの経緯など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第504回 ドイツはどのようにしてハイパーインフレーションを終息させたのか

前回の記事では、第一世界大戦後、「ハイパーインフレーション」という経済状況に陥ったドイツが、その絶望的な経済状況から一体どのようにして立ち直ることができたのか。この事にポイントを絞って記事を作成してみました。

とはいうものの、実際に記事をまとめている際、私が追求したかったことをそのまま、非常に整然とまとめていた動画を発見してしまいましたので、内容とするとそちらに完全に振った感じになりました。

動画を見ていても、私が今更まとめたところでとてもこの動画の内容にはかなわないな、と感じたのが最大の理由です。

ただ、完全に投げっぱなしにすることはせず、いつか「外伝」的な内容で私の記事なりにまとめることができればと思っております。

その上で追加して、第一次世界大戦後のドイツ史として、「ルール占領の終息」をまとめる上で必要な要素のみ抽出して記事にしました。

この流れの中で、まずはレンテンマルクの導入によって「首相」という立場からはドイツのハイパーインフレという状況を終息させることに成功したシュトレーゼマン、そしてルール占領を強行し、ドイツのハイパーインフレをより深刻なものとさせたフランスのポアンカレ首相はそれぞれルール占領が収束するまでに「首相」の座を降りることとなりました。

ここまでを第一次世界大戦後のドイツの「戦後処理」に係る歴史的経緯としてこの部分について一旦終結させます。

本日の記事では、前述した「戦後処理」の問題の内、話題として触れながら深堀しなかった二つのテーマについて記事にします。


ヨーゼフ・ヴィルトの「密約」と「共和国防衛法」

一つ目が、この「ヨーゼフ・ヴィルト」がソ連との間で締結していた「密約」、そしてヴィルトが退陣する理由の一つともなった「共和国防衛法」です。

で、この「密約」が「ラパッロ条約」と呼ばれるもので、これは1922年4月10日から5月19日にかけて、イタリアの「ジェノア」という都市で開催された、国際会議「ジェノア会議」が開催された際、共に会議に参加していたドイツとロシア(ソビエト・ロシア)が同じくイタリアのラパッロというところで締結した条約がこの「ラパッロ条約」です。

ラパッロ条約

内容としてはドイツとロシアが共に第一次世界大戦によって発生した領土や賠償に関する請求を放棄した条約です。これによって両国の国交が正常化することになりました。

ドイツは「ブレスト=リトフスク条約」によってロシアから得た請求権を、ロシアはヴェルサイユ条約後、得ることができると考えられる請求権をそれぞれ放棄した感じです。

当時はソビエト政権が統治する「ロシア」という国をどの国も国家として承認していませんしたので、ドイツは世界で初めてソビエト政権を国家として承認した国・・・ということになります。1922年4月16日の事です。

また更に、この条約は11月5日、ベルリンにおいて捕捉条約が結ばれ、この捕捉条約において、ウクライナ、白ロシア、ザカフカース連邦(グルジア、アゼルバイジャン、アルメニア)、極東の各ソビエト共和国をドイツは承認。12月、ソビエト・ロシアはこれらの国々と共に「ソビエト連邦」を結成します。

第一次世界大戦はドイツとロシアとの対立に始まり、両国が社会主義革命の勃発によって共に自滅したことによって終結した戦争です。

戦後、両国は連合国からのけ者にされ、のけ者にされた国同士で締結したのが「ラパッロ条約」。

恐ろしいなと思うのは、後の世界を絶望の渦に巻き込んでいく「共産党」という勢力によって形成された「ソビエト政権」を認めたのが、ドイツでも「保守」政党によって支持された首相、「ヴィルヘルム・クーノ」だったという事。

また更に、ドイツは後のソビエト連邦を形成する国々の「ソビエト政権」を認めたのと引き換えに、ソビエト国内での軍事訓練等を行うことを認めさせています。ドイツはヴェルサイユ条約によって軍備縮小を約束させられていますので、これは「ヴェルサイユ条約」に違反する条約でもあります。

両国の関係は、その後ヒットラー政権が誕生するまで継続したのだとか。


ラパッロ条約がドイツ国内に齎したもの

ラパッロ条約の締結は、まずドイツ国内で「右派」の反発をもたらします。

典型的な事例として、ラパッロ条約をソ連との間で締結したヴァルター・ラーテナウ外相が、「コンスル」というテロリスト集団に暗殺されます。

「コンスル」については、第484回の記事 で話題にしましたね。

第483回の記事 でご紹介した「バイエルン・レーテ共和国」。これを滅亡させる上で活躍した「エアハルト旅団」。

エアハルト旅団はヴェルサイユ条約によって軍縮を求められたドイツ政府、グスタフ・ノスケ国防相によって解散を求められるのですが、これに反発して「カップ一揆」を引き起こしました。

民衆からの反抗でカップ政権が崩壊した後、エアハルト旅団は再び解散を命じられるのですが、このエアハルト旅団の残党によって結成されたのがテロリスト集団「コンスル」。

彼らによってラーテナウ外相は暗殺されました。(1922年6月24日)

これを受け、7月18日の議決を経て21日~23日にかけて施行されたのが「共和国防衛法」です。

「共和国防衛法」に関しては、詳細な情報を見ることができるサイトがほぼ皆無。唯一Wikiのドイツ語版でその詳細をうかがえる程度ですので、掘り下げることは現状難しいのですが、数少ない情報からすれば暗殺は「極右」である「コンスル」によって行われたものですが、対象は「極右と極左」両方がその対象となっていたようです。

また、この法律そのものは憲法に照らせば違憲なものだったのですが、「国会の2/3の賛同」を得て成立しているようです。更にこの法律は1929年に改正されており、第二次法としては違憲な状態がない形に修正されていた、とのこと。

そして、この法律の扱いがまたヴィルト首相はヘルメス財務相との対立を招く一因となり、戦後賠償問題と共に紛糾し、同年11月に退陣することとなりました。


ミュンヘン一揆勃発までの経緯

そしてこちらが二つ目のテーマ。

戦後処理をめぐり、ドイツ国の首相は

 コンスタンティン・フェーレンバッハ
→ヨーゼフ・ヴィルト
→ヴィルヘルム・クーノ
→グスタフ・シュトレーゼマン

へと代替わりするのですが、ミュンヘン一揆がおきたのは1923年11月の事。グスタフ・シュトレーゼマンが首相へと就任した直後の出来事です。

シュトレーゼマンは先代ヴィルヘルム・クーノの政策である「受動的抵抗」政策を中止し、通貨を「パピエルマルク」から「レンテンマルク」へと交換し、見事ハイパーインフレを終息させた人物です。(実際に収束させたのは通貨委員であるヒャルマル・シャハトですが)

前回の記事 でバイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングがバイエルン州に「非常事態宣言」を発令した上で、グスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命したことを記事にしました。

よくよく考えるとバイエルンは同じドイツの中でもビスマルクが統合した際「自由都市」として自治を認めた南ドイツの州であり、そのせいでこのような所業が可能になるわけですね。

カールは元々カップ一揆の余波で「バイエルン州首相」の座に就いた(第484回記事参照)ものの、バイエルン州独立を目指そうとしたカール首相はベルリン政府より首相の座を追われることとなりました。

それでもバイエルン州独立の機運が収まることはなく、バイエルン州内での「右翼」と「左翼」が正面衝突しかねない状況となったことから発令されたのが「非常事態宣言」。これが前回の記事でお示しした内容です。

州総督となったカールには「独裁的権限」が与えられました。

この時点で既にナチス、つまり「国家社会主義ドイツ労働者党」は結成されていて、カール政権はこのナチスからも支持されることになりました。「独裁を行わないこと」が条件とされました。

支持する、とはいうものの、この時点ではまだ「静観」する姿勢だったようですね。

カールの取った政治姿勢はベルリン政府と対立する様相を得示していて、カール政権とベルリン政府との関係は緊迫した状況であった、との事です。


主犯・「ドイツ闘争連盟」

ミュンヘン一揆を実行したのは「ドイツ闘争連盟」というグループで、ここにはアドルフヒットラーをはじめとするナチスの党員も参加していました。

「ドイツ闘争連盟」の母体となったのは、ベルリン政府がルール地方を占領するフランス軍に対抗するために組織しようとしていた「ドイツ義勇軍」の一部で、バイエルン州の民間軍事組織を連携させるために結成(1923年2月)した「祖国的闘争同盟共働団」です。

「祖国的闘争同盟共働団」にはヒットラーが代表者であるナチスも参加していたのですが、ヒットラーは主導的な立場にはありませんでした。

同年8月、ルール闘争の失敗やハイパーインフレを引き起こした責任を取り、ヴィルヘルム・クーノが首相を辞任。シュトレーゼマンが首相となります。

バイエルン州には彼がとった「受動的抵抗の中止」という政策に反対する声が多くありました。

ちなみにこの時点でヒットラーを代表とするナチスは自身が「ドイツ人」であると考える「大ドイツ派」。一方、後に州総督となる前バイエルン州首相グスタフ・フォン・カールは自身がバイエルン人であると考える「バイエルン分離独立派」。

「受動的抵抗の中止」に反抗してヒットラーは9月1日~2日にかけて行われた「ドイツの日」のイベントを通じてナチスはバイエルン州右派よりの支持を集める様になったのですが、同時にバイエルン分離独立派との関係は悪化したのだそうです。

で、そんなナチスがカール政府誕生後、カールを「支持する」姿勢を表明したという事ですね。

「ドイツの日」の直後に「祖国的闘争同盟共働団」の「極右派」が、指導者であるヘルマン・クリーベルを議長とした「ドイツ闘争連盟」を組織し、この団体を通じてヒットラーもついに「政治指導者」としてその頭角を現すこととなりました

カール政府が誕生したのはこの後のことです。


記事が長くなりそうなので、「ミュンヘン一揆」に関する記事はさらに別の回に分けて製作しようと思います。




このシリーズの次の記事
>> 第506回 ミュンヘン一揆の主犯、「ドイツ闘争連盟」結成に至るまで
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>> 第504回 ドイツはどのようにしてハイパーインフレーションを終息させたのか

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