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第504回 ドイツはどのようにしてハイパーインフレーションを終息させたのかなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第503回 ルール占領と「ハイパーインフレーション」の影響

前回の記事では、ヴィルヘルム・クーノがドイツ国首相となった後、前首相であるヴィルトの政策を引き継いだことからフランスのポアンカレ首相より「生産的担保」、つまり「ルール地方の鉱山管理権」を要求された事。

その後、フランスとベルギーによりドイツのルール地方が占領され、既に対外貨幣ベースでは極端な「通貨安」状態に陥っていたドイツがルール占領への対抗策としてルール地方の国民に対し「ストライキ」を呼びかけ、賃金を「通貨発行」によって賄った事。

結果対ドル相場でなんと2億3606万倍で貨幣の価値が下落してしまった、つまり「ハイパーインフレーション」を引き起こしてしまったことを記事にしました。

後半で現在の国内で話題となっている貨幣政策への批判を織り交ぜてしまいましたので、記事としてはそこまで終了させたのですが、今回はそこから更に、ドイツ国内でこの「ハイパーインフレーション」という経済状況に対してどのような政策が実行されたのかという内容を中心に記事を進めていきます。


グスタフ・シュトレーゼマンの政策

情勢に変化のない時期を追ってもあまり意味がないと思いますので、「ハイパーインフレーション」まで含むドイツ国内の情勢に大きな変化があった出来事にポイントを絞って記事を進めていきます。

ヴィルヘルム・クーノの就任後、ドイツは連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求め、これにイギリスとイタリアは賛同する意思を示すものの、フランスとベルギーによって拒否。

イギリスのジョージ・カーゾン外相より両国の占領がヴェルサイユ条約に違反することをフランスに通告、アメリカの仲介による中立的な査定期間の設立を提案するものの、これもフランスによって拒否。

結局クーノはハイパーインフレーションを引き起こしただけで何一つまともな政策を打ち出すことができず、1923年8月11日、社会民主党より不信任を突き付けられ、退陣へと追い込まれます。

彼の後を引き継ぎ、首相になった人物がグスタフ・シュトレーゼマン。

グスタフ・シュトレーゼマン

彼が首相となった後、11月に「ミュンヘン一揆」が起きます。この一揆を主導したのが「ドイツ闘争連盟」。そのメンバーの一人として、「アドルフ・ヒトラー」の名前が登場します。

かなり中心的な立場となって彼は活動しているのですが、このテーマは次回記事でポイントを絞って記事にする予定です。


では、改めてグスタフ・シュトレーゼマンについて。

シュトレーゼマン内閣で財務相を務めたルドルフ・ヒルファーディングの試算によれば、シュトレーゼマンが首相に就任した時点で既に「ルール闘争支援」のための費用は限界を迎えており、シュトレーゼマン自身も冬が始まるまで今の「消極的抵抗」政策を続けることは不可能であると考えていました。

この事から、シュトレーゼマンは9月26日、「受動的(消極的)抵抗の中止声明」を行います。

これに対して反対したのが「ドイツ共産党」と「ドイツ国家人民党」。

またこれに対抗し、バイエルンでは9月20日の時点でなんとバイエルン州政府に「非常事態宣言」を行い、バイエルン州首相であるオイゲン・リッター・フォン・クニリングはグスタフ・フォン・カールという人物を「バイエルン州総督」に任命しました。

グスタフ・フォン・カール

グスタフ・フォン・カールはクリニングの前の首相でもあります。

第484回の記事、及び 第490回の記事 でも名前が登場しましたね。

第484回の記事

バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

という内容を掲載しました。

第490回の記事 で掲載したように、首相に就任したカールはバイエルンの「分離主義者」たちに支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、これに危機感を覚えたベルリン政府によって首相の座を追われることになりました。

それでも州内の独立の機運が収束することはなく、そこに「受動的(消極的)抵抗の中止声明」が重なりました。

「非常事態宣言」が発令されたのは、今ことが理由でバイエルン州内での「右翼」と「左翼」とが前面衝突しかねない状況が生まれたから、なのだそうです。

カールはシュトレーゼマンの政策を批判し、ベルリンtのの対決姿勢が強まりました。

ここから先はミュンヘン一揆の記事に委ねます。


シュトレーゼマンの声明の影響はドイツ国全体にも衝撃を与え、エーベルト大統領もまた、「戒厳令」を発令。指揮権を国防相に与えました。


シュトレーゼマンの「デノミネーション」政策

ドイツで「ハイパーインフレーション」が問題になったのは、その影響で物やサービスの値段が安定せず、「昨日の買えていた値段で明日パンを買う事ができない」というような事態が発生したから。

例え「ハイパーインフレーション」が起きて通貨の価値が急速に下落しようが、政府がお金を発行してばらまいてくれるわけですから、一定の下落幅で安定し安心して買い物を行う事ができれば不満が大きくなることはありません。

最大の問題は通貨の価値が下落し続け、つまりは「物価が高騰『し続ける』」から問題になるのです。

と・・・情報を検索していると、私が今回記事にしたかった内容を実に鮮やかにまとめた動画を発見してしまったので、その動画を紹介します。



そう。サブタイトルを「シュトレーゼマンの『デノミネーション』政策」としたのですが、実質的にこのデノミネーション政策を実行したのは「ライヒ通貨委員」となったヒャルマル・シャハト。

彼は「ドイツレンテ銀行」を設立し、国内の「地代請求権」を担保とした「レンテマルク」という通貨を発行し、「パピアマルク」と交換しました。

レンテンマルクは「土地の価格」と紐づけられていますので、日々・・・というよりも時間単位で通貨の価値が下落する「パピアマルク」と比較すると価値が安定しており、国民は我先にとパピアマルクをレンテマルクへと交換したのだそうです。

「レンテンマルクの奇跡」と呼ばれているようで、この事がドイツの通貨の価値を安定させ、ドイツの「ハイパーインフレーション」を急速に鎮静化しました。

1:1兆のレートで交換されましたので、実質的には通貨の単位が1兆マルクから1マルクに切り下げられた形となり、このような通貨政策の事を「デノミネーション」と呼びます。

ドイツのは場合は通貨の種類そのものが変わっていますので、疑似的なデノミネーションなんですけどね。

「レンテンマルクの奇跡」、そしてヒャルマル・シャハトという人物の名称は、その後のナチスドイツの政策にも関わってくるようですので、改めて後日的を絞って記事にしたいと思います。

本日ご紹介した動画の内容を参考にして作成すると思いますので、良ければ先に動画に目を通してみてください。私が改めて記事を作成する必要がないほどに、わかりやすいです・・・💦

私とすると打ちのめされた感満載です。


ルール占領の終息

さて。レンテンマルク政策によって見事にインフレを鎮静化させたシュトレーゼマンですが、彼の内閣もまた、バイエルン州問題への対応などをきっかけとして社会民主党が連立を離脱し、総辞職することとなります。(11/23)

彼が総辞職する1か月前、10月23日、米国が賠償員会に加わり、フランスの反対を押し切って賠償策定プロセスにドイツを参加させる方針を決定させました。

これまでは「イギリス」「イタリア」「フランス」「ベルギー」そして「チェコスロバキア」が賠償委員会に参加しており、評決に参加することができたのはチェコを除く4カ国でしたから、どうしてもドイツに対して直接利害関係を有するフランスとベルギーの発言力が高まっていました。

ですが、ここに米国が参加したことで、この構造が変化しましたね。

フランスのポアンカレ首相はそれでもルール占領の正当性を主張していたのですが、シュトレーゼマン退陣後、米国の賠償委員会への評決への関与を受諾する事となりました。

この決定は米国より賠償委員会に加わったチャールズ・ドーズの名称を取り、「ドーズ案」と呼ばれるのだそうです。

内容としては、まず「ドーズ公債」なるものがロンドンのイングランド銀行とニューヨークのJPモルガンが連携して発行され、ドイツが両国からお金を借りる形でフランス・ベルギーに返済を行い、ドイツは新通貨である「ライヒスマルク」を発行。

これまでドイツ国内でしか使用することのできなかったレンテンマルクと交換。ドイツは金本位制に復帰し、漸くマルク相場も落ち着きを取り戻しました。

フランス、ポアンカレ内閣は翌年(1924年)6月に総選挙で敗北し、退陣。

8月16日、独仏双方が折り合い、フランス軍・ベルギー軍は同年10月より撤退を開始することとなりました。


さて。次回記事は「ミュンヘン一揆」へとスポットを当て、それ以降はいよいよヒットラーにスポットを当て、記事を進めていきたいと思います。

シリーズのテーマとしては「ナチスドイツはなぜ誕生したのか」という名称になっていますが、目的としてはヒットラーの「ユダヤ人虐殺」の真相までたどり着ければ、と思っています。

シリーズとしてはその時点での終了を目指します。

一応、次期シリーズの事も私の構想にはあり、それは「モンゴル」について。「ソ連」という国の大部分がかつてはモンゴルであった事。一方で中国人の持つ「残虐性」に実はモンゴル人が関係があるのではないか、という私の仮説を裏付ける作業を行っていきたいと思っています。




このシリーズの次の記事
>> 第505回 ヴェルサイユ条約後の独ソ密約とミュンヘン一揆勃発までの経緯
このシリーズの前の記事
>> 第503回 ルール占領と「ハイパーインフレーション」の影響

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このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


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