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第502回 ジョン・メイナード・ケインズの警告とルール占領までの経緯など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第490回 第一次世界大戦後のドイツはどのようにして「右傾化」したか

しばらくコロナウイルス関連の記事を続けたのですが、改めてシリーズ「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」に路線を戻します。

シリーズ前回の記事 の文末でご案内した通り、今回はドイツに「ハイパーインフレ」を招く直因となった「ルール占領」について、ハイパーインフレが起きた経緯ではなく、ルール占領が行われた経緯にポイントを絞って記事にしたいと思います。

その後、ハイパーインフレに対して当時のドイツがどのような対応を行ったのか。こちらにポイントを移していきます。


ヴェルサイユ条約後、ドイツの賠償が決定する経緯

ヴェルサイユ条約後、ドイツに対する賠償が決定していく経緯について、もう少し深く掘り下げてみます。

ヴェルサイユ条約でドイツが連合国(主にフランスとベルギー)に賠償を行う事が決定するのですが、実際には1920年4月以降、合計12回に渡って開催された会議においてその正式な賠償額が決定します。

この時の首相はコンスタンティン・フェーレンバッハ。第484回の記事 で話題にした「ルール蜂起」。

この後、初めて行われた国会選挙において誕生した内閣です。

前回の記事 でもお伝えしましたね。

フランス・イギリス・イタリア・ベルギー・日本・ポルトガルなど複数の国々によってその賠償額が話し合われ、その総額は1920年6月の時点で総額2690億金マルクとされました。

また、同年11月にはドイツがその賠償請求に応じない場合には連合国によって、ルール地方、またはドイツ全土を占領することが決められています。

1921年2月~3月にかけて開催されたロンドン会議ではドイツ側より総額を500億金マルクとする対案が出されたのですが、連合国側により却下された上、連合国はルール地方にある「デュッセルドルフ」などの3つの都市を占領します。(~1925年8月25日。これは所謂ルール占領とは異なります)

1921年4月27日、その最終的な金額は1320金マルクと決定します。

ドイツははこの額が国力を超え、実行不可能であると反論しますが受け入れられず、フェーレンバッハついに退陣に追い込まれます。

一方で新首相となった「中央党左派」、ヨーゼフ・ヴィルトは、とりあえず連合国側の要求を受け入れ、実際に賠償金を支払った上で、その履行が不可能であることを実証する、「履行政策」を取りました。

ヴィルト


ちなみこの時政権が右派政権から左派政権に代わってますね。彼がとったこの「履行政策」は、ヴェルサイユ条約の見直しを主張する「右翼民族主義者」たちから攻撃の的とされます。

後のドイツの国際関係を検証する上で、この時に首相を務めたヨーゼフ・ヴィルトという人物は、中々重要な立ち回りを演じていますので、この話題は後日深めてみます。

ともあれ、ヴィルトが「履行政策」を取ったことから結果的にドイツの賠償額は総額1320金マルクを30年払いという形で決着がつきました。(1921年5月5日)

既に過去の記事で話題としていますが、更にこの賠償金は外貨建てでの返済を要求されていましたので、ドイツが賠償金を支払えば支払うほど外貨高となり、これが所謂「ハイパーインフレ」を引き起こす一つの要因ともなりましたね。

この後、ドイツはフランスに再三賠償金の支払いについて交渉を行うのですが、悉くフランスに拒否されており(実際に協定の締結まで進んだものも、フランス産業界等の批判により中止にされるなど)、ドイツには厳しい状況が続きます。


ジョン・メイナード・ケインズの警告

以外なのは、ドイツへの賠償を確定させるうえで、イギリスの責任者としてあの「ジョン・メイナード・ケインズ」が就任していたという事。

「ケインズ経済学」の下となる理論をまとめたあの、ケインズです。

ケインズ


彼は元々ドイツの支払い能力として「高めに見積もれば40億ポンド、楽観的に見れば30億ポンド、慎重に見れば20億ポンド」とする報告書を策定していました。

これを、当時の首相であるロイド・ジョージ氏は受け入れず、「ドイツの限界まで賠償を支払わせる必要がある」として240億ポンドという額での賠償をドイツに求めていました。(1918年12月)

翌年1月に開催されたパリ講和会議。これとは別に開催されていた賠償委員会にケインズは出席することができず、代わりに出席した「イギリス代表」はケインズとは異なり、ジョージ首相同様ドイツに限界「以上」の賠償をさせようとする「強硬派」でした。

例えばアメリカがドイツの賠償額を各国が受けた「損害の範囲内」の補償に留めようとする提案を行ったのに対し、イギリス代表は「戦費」までその補償に含めるべきだと主張しました。

1919年3月からはイギリス代表としてケインズが参加するようになったのですが、イギリスの強硬派たちの抵抗は強く、結果的に同講和会議での賠償額の決定は見送られることとなりました。

また更に英仏は賠償額に対し、更に軍人恩給まで含めることを米国に要求し、米国を屈服させました。イギリス代表であったはずのケインズはこの流れに抗議して会議の途中で帰国しています。

この結果、締結されたのが「ヴェルサイユ条約」です。ちなみに同条約116条において、「ロシアの賠償請求権」は保留されることとなっています。ロシア革命後のソビエト政府が正式に成立した後、協議されることとなりました。


ケインズは、この時のイギリス政府の姿勢を「平和の経済的帰結」という書籍において批判し、更に1922年、「条約の改正」という書籍において、賠償に批准したドイツの賠償支払いが著しく困難であることを警告しています。

ここはそのままWikiから引用します。

1922年の「条約の改正」では予算問題とトランスファー問題によってドイツの賠償支払いが著しく困難なものであると警告している。

予算問題とはドイツ政府が賠償を支払うためには、政府財政で毎年黒字を計上せねばならない。黒字達成のためには増税や支出削減が必要であるが、賠償額が大きくなればなるほど国民生活を圧迫し、これが続けば労働意欲や生産力も低下するというものである。

トランスファー問題とは、ドイツが賠償支払いを外貨で行わねばならないことから生じる問題で、ドイツが自国の財政黒字を外貨に両替するためには経常収支が黒字であることが必要であるが、現実的にはその達成が困難だと指摘したものである。

ケインズはこれらの理論により、イギリスとアメリカに対連合国債権をすべて放棄させた上で、ドイツに賠償額を30年賦で12億6000万金マルクずつ支払わせるのが妥当と算定した。

ドイツ政府の賠償金調達はケインズの警告通り、19922年5月の時点で困難となり、ドイツはフランスに対し支払いの延期を求めますが、フランスはこれに応じず、おそらくこの時ドイツは通貨の発行によってこれを賄ったのだと思います。

結果、マルクは「一ポンド=5575マルクまで下落した」とあります。この金額が当時の通貨単位でどの程度の下落であったのかは記されていませんが、ケインズの警告をなぞるような下落幅だったのだと想像します。


フランス・ベルギーのルール占領に至る経緯


1922年1月には一時的に支払いの猶予が認められていたのですが、これに賛成した当時のフランスの首相であったアリスティード・ブリアンは、強硬派の反対を受け、辞任に追い込まれています。

その後もドイツマルクは暴落を続け、ドイツ政府は7月12日、連合国に対し「6ヶ月の賠償支払い停止」を求めた上、「1923年と1924年の賠償支払い不能を宣言」します。この時点でドイツの対ドルレートとして1919年比で117.5倍まで増加していたのだそうです。

これに対し、アメリカは譲歩の姿勢を見せるのですが、その他の国々はこれに反対します。

ここで一つの構造が見えたんですが、アメリカ以外の欧州の国々は、「アメリカに対する債務」があったんですね。

逆に言えば、アメリカがこれらの国々に対する債務を減額するなりしていれば、他の国々もドイツの要請に応じることもできていたという事になります。

ただ、フランスやベルギー、特にフランスはドイツに対する特定の負の感情を抱いていますから、より強硬な姿勢を示したのだと思います。

またフランスはドイツと国境を接しており、帝国時代のドイツの強烈な印象は拭いされていないでしょうから、二度と立ち直れないほどに国力を低下させたかったという本音もあったのではないでしょうか。

連合国側は1922年後半分に関しては事実上ドイツ側の要請に応じるのですが、ドイツ首相であったヴィルトはこの賠償問題、及び「共和国防衛法」の扱いをめぐって財務大臣と対立することとなり、同年11月に退陣しています。

続いてドイツ国首相となったのがヴィルヘルム・クーノ。

ヴィルヘルム・クーノ

フランス・ベルギーによるルール占領は彼の時代に勃発します。中央党、ドイツ人民党、バイエルン人民党の連立政権ですから、右左でいえば右側の保守政権です。彼は大統領であるエーベルトの指名を受けて首相となります。

ちなみに彼が首相に就任した直後、12月の時点でマルクの対ドル相場はなんと1919年比で1807.8倍にまで到達していたんだそうですよ。

ヴィルトは辞任とともに「「賠償金・現物払いの3-4年免除を求める覚書」を連合国側に提出しており、クーノはこの見解を継承しました。

これに対し、フランスの首相であるポアンカレは、ドイツに対し、「生産的担保」を求めます。「生産的担保」。つまり、「ルール地方」の事です。(1922年12月19日)

フランスも対英米債務に苦しんでいたんですね。


次回記事では、改めて「ルール占領」そのものに着目し、その上でドイツが「ハイパーインフレ」から脱却するまでの経緯を追いかけてみます。




このシリーズの次の記事
>> 第503回 ルール占領と「ハイパーインフレーション」の影響
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