FC2ブログ
第490回 第一次世界大戦後のドイツはどのようにして「右傾化」したかなど、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第489回 ヒットラーはなぜ左翼とユダヤ人を嫌ったのか?

複数和、ヒットラー本人の検証とヒットラーが登場するまでのドイツ(及び日本)を復習する目的の記事を作成しましたので、置き去りにしている話題がいくつかございます。

そこで、今回からは再び 第484回の記事 まで遡りまして、その後のドイツ近代史を追いかけていきます。

ちなみに、第483回の記事 におきまして、スパルタクス団蜂起後、ドイツがヴェルサイユ条約を受け入れ、更にフランス・ベルギーによるルール占領が行われるまでの年表を掲載しています。

フランス・ベルギーによるルール占領が行われたことがドイツにおいてハイパーインフレが起きた原因なのですが、時系列的にまだこの年代にも行き着いていませんので、順にこのテーマにも触れ、ドイツにおけるハイパーインフレが終息した理由にまで追って記事にできればと思っています。

また、
この後、バイエルンでは「右傾化」が進み、数多くの右翼政党が誕生することになりました。その中の一つに、「ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス)があります。

ただし、「我が闘争」を読み進める限り、この「ドイツ労働者党」は元々左翼政党であったはずなんですよね。ここにヒットラーが加入することにより、徐々に「右傾化」していったという事でしょうか。

これは、「我が闘争」に関連した記事を記すときに明らかにしていってみたいと思います。

とも記していますので、このことに話題についても回収できる記事を後日作成する予定です。


ヴェルサイユ条約後のドイツ

まず最初に、ドイツが大戦に敗北する前後の地図を見比べてみます。

ヴェルサイユ条約後のドイツ

こちらの地図はWikiから拝借しています。

グレーで行事されている部分以外がすべて「ドイツ」で、赤枠、緑枠で囲まれているエリアが敗戦後、他国に割譲された地域です。

プロイセンは完全に飛び地になってしまっていますね。北側のエリアは「 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」でデンマークと争った領土で、デンマークに割譲されていますね。

南西のエリアは普仏戦争後に獲得したアルザス=ロレーヌ地方ですね。フランスに渡されています。その上部で緑枠となっているのはエストニア。そこから更に飛んで北側の赤枠がベルギーにそれぞれ譲渡されています。

飛び地となったプロイセンに挟まれた領土はポーランドが、ポーランドエリアの南側の小さな領土はチェコ、ポーランドエリア上部の緑枠は自由都市ダンツィヒ。緑枠は独立したエリアですね。

更に飛び地になったプロイセンの北東のエリアがリトアニアです。

ポーランドはロシアとドイツによって分割されていた領土が、両国の崩壊により独立を回復したんですね。この「ポーランド」は第二次世界大戦でドイツとソ連の対立の舞台ともなる場所です。

削られた領土も思ったほど多くないな・・・という印象ですね。現在のドイツと比較しても領土が広いですよね。

一応、この地図を頭に入れて記事を進めてみます。


ドイツ共和国政府の右傾化

フランスがドイツに派兵後、ドイツ共和国軍がルール地方から軍を引き上げたのが1920年5月17日の事ですので、この時点から記事を進めてみます。

ドイツ共和国が派兵する原因となったルール一揆に対し、フランスが派兵したわけですが、まずこれに対してイギリスが激怒し、両国の関係が最悪の状態となった、との記述がありますので、ここは備忘録的に記しておきます。

ルール蜂起後、共和国政府(社会民主党政府)は支持を失い、フランス軍撤退後、6月6日に行われた共和国政府樹立後初の国会選挙では、総議席数459中、ドイツ社会民主党は議席数を61議席減らし102議席になります。

一方、議席数を伸ばしたのが極左ドイツ独立社会民主党(+62議席→84議席に)、右派であるドイツ国家人民党(+27議席→71議席に)、同じく右派であるドイツ人民党(+46議席→65議席に)などtなっています。

さて、この中に「バイエルン人民党」の名称がありますね。

カップ一揆後、バイエルン州において新しく首相となったのがこの「バイエルン人民党」の政治家(グスタフ・フォン・カール)です。バイエルンの「分離主義者」に支えられ、バイエルン州の独立を目指すのですが、バイエルン州分離主義者の過激活動に危機感を覚えた中央政府によって首相の座を追われることとなります。

つまり、この「バイエルン人民党」もまた、バイエルンの「分離主義者」、つまり民族主義者たちに支えられた「右派」であり、これだけを見てもルール蜂起後のドイツ共和国政府が「右傾化」したことがとてもよくわかりますね。

これ以外にカトリック政党である「中央党」や「ドイツ民主党」といった正当が存在しました。

しかし、それでも最大政党である社会民主党ですが、右派政党との協力を拒否し、「中央党」「ドイツ民主党」「ドイツ人民党」の三党が連携した「コンスタンティン・フェーレンバッハ内閣」が誕生します。


ドイツ独立社会民主党の分裂

一方で「極左」であるドイツ独立社会民主党は、後に共産党を結成するスパルタクス団が離党した後も同党内での右派と左派との対立問題を抱えています。

同党が1920年7月に参加した「コミンテルン第2回世界大会」において、コミンテルン(第三インターナショナル)より「コミンテルン参加の条件として21か条」を突き付けられ、この中で「改良主義者ならびに日和見的中立主義者」の追放を要求されます。

日和見主義については、ちょうどロシアのシリーズの中で触れたことがありますね。(第349回 第三インターナショナル=コミンテルンの発足

コミンテルンからは具体的な党員の名前まで示されたんだそうですよ。

10月には独立社会民主党大会が開かれます。ここには、既にコミンテルンからの多数派工作が仕掛けられていた、とのことで、独立社会民主党と共産党は合同することとなります。

しかし、これに反発した独立社会民主党右派は独立社会民主党にとどまることとなり、結局独立社会民主党は分裂することとなりました。

左派の中にもコミンテルンの強硬的な手法に反発するものがおり、実際に独立社会民主党から共産党へ移った党員は80万人中30万人にとどまったのだそうです。

とはいえ、極左であるはずの独立社会民主党が分裂したという事実に変わりはありません。確かに「左派」にも同党に残留した党員はいたわけですが、全体的に「右傾化」したことも否めない事実です。1922年9月、独立社会民主党は社会民主党と合流することとなりました。

面白いのは、確かに「独立社会民主党」は「右傾化」したわけですが、この勢力が社会民主党と合流すると、その社会民主党の中では「最左派」であり、これが社会民主党が左傾化する原因となったのだそうです。

この状況から見ても、この時点で「コミンテルン」のドイツ共産党に対する影響力が大きいという事はわかりますね。

ただし、第486回の記事 を参考にしますと、この時点(独立社会民主党が分裂した時点)ではまだスターリンは書記局長の座にはついていません。

レーニンが糾弾に倒れた後とは言え、まだレーニン自身は健在で、スターリンの影響力はそこまで大きくない時代のことです。


フランス・ベルギーによるルール占領

さて。ドイツのフランスやベルギーに対する賠償金の金額や返済方法が決められたのは選挙が行われた翌年。1921年3月のことです。(ロンドン会議)

金額は毎年1320億金マルク。とドイツの輸出額の26%を30年間という内容。

フェーレンバッハは受諾が不可能だとし、辞職するのですが、引き継いで首相となったヨーゼフ・ヴィルトがこれを受諾しました。

ここから

第471回 ヴェルサイユ条約と敗戦後ドイツの「ハイパーインフレーション」

の記事内容へと続くことになります。「ハイパーインフレ」へとつながるんですね。

次回記事では、ではそのハイパーインフレが起きる直因となったフランス・ベルギーによる「ルール占領」が一体どのような経緯で行われたのか。またその終結について、第471回の記事 の内容と極力バッティングしないように注意しながら記事を作成してみたいと思います。




このシリーズの次の記事
>> 第502回 ジョン・メイナード・ケインズの警告とルール占領までの経緯
このシリーズの前の記事
>> 第489回 ヒットラーはなぜ左翼とユダヤ人を嫌ったのか?

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]