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第487回 「我が闘争上巻」より見るアドルフ・ヒットラーという人物像など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第486回 日本が日独伊三国同盟を締結するまでの中国

このテーマに入るまでの前振りが非常に長くなりました。また、前回の記事を作成してから早数か月経過しました事、お詫び申し上げます。お仕事の関係で、今後も同じような更新ペースとなることもあるかと思いますが、ついてきてくださるとうれしく思います。

さて。今シリーズ を私が作成している目的は、「大日本帝国軍はなぜドイツと同盟関係を締結したのか」。この一点を追求することを目的としています。

これを追求する目的として、そもそも「ドイツ」とは何か。これを命題としてシリーズをスタートさせました。結果、本当にいろいろなことが見えてきました。

ブログ全体を通じても探求してきた「右翼」と「左翼」の違いも非常に明確になりました。「共産主義」と「社会主義」の違いも。この2点についてまとめたのが 第485回の記事

一方で日本側からの視点として、日本が対米戦争をスタートさせるに至ったことには正当な理由があったという事。シリーズを作成するに至った真の目的、日本は一体なぜドイツと同盟関係を結ぶに至ったのかという事を、「中国」と「ソ連」側からの視点も合わせて総括したのが第486回の記事 です。

今回の記事では、更にピンポイントで、「アドルフ・ヒトラー」という人物に焦点を絞って記事を作成したいと思います。


アドルフ・ヒトラーとは何者なのか?

アドルフ・ヒトラーとは何者なのか。このテーマにすぐ答えることができる人って、あまりいないのではないでしょうか?

ドイツ第三帝国の総統だったとか、ユダヤ人を虐殺したとか、そういったイメージがアドルフ・ヒトラーの主たるイメージかと思います。

じゃあ、なんで彼のような人物がドイツの総統になるにいたったのかとか、なんでユダヤ人を虐殺したのかとか、ドイツ国民は一体なぜ彼のような人物を総統に選んだのか・・・とか。

彼の人物像を考察することをせず、ただ単に「ユダヤ人を虐殺した極悪人」という認識しか持っていない人も多いのではないでしょうか。

私は、しかし思います。彼の人物像を考察せず、また彼が表舞台に登場するまでのドイツの歴史を把握せず、単にイメージだけで彼を批判するのは間違っている、と。

彼が登場するまでのドイツの歴史については当シリーズ にて散々検証しましたから、今回はもう一つの対象である、アドルフ・ヒトラーの「人物像」について記事にしたいと思います。



現時点ではまだ私、上巻しか読破できていませんので、ベースは上巻の情報となります。

また、書かれている内容はドイツ語がベースとなっており、これを直訳したような感じで、非常に読みにくい内容ともなっていましたから、本当にきちんと理解した上で記事を作成できているのか・・・と聞かれますと、自信を以て「理解している」とは言いづらいですが、現時点で理解している範囲の中で記事を進めていきたいと思います。


ヒットラーはどこからやってきたのか

ヒットラーが誕生したのは、ドイツとオーストリアの国境を流れる「イン川」の河畔にある、「ブラウナウ」という町。

ブラウナウ郡

ブラウナウ

ドイツなのか、オーストリアなのかと申しますと、オーストリアです。

ですが、ヒットラーはオーストリアを「オーストリアという一つの国」ではなく、「ドイツという国の一部」と考えているようです。というよりも、本来そうあるべきだ、と。

著書では、ヒットラーの両親の血統はバイエルン人であるとされていて、ヒットラー自身もそれを信じて疑っていなかったのではないか伺う事ができます。

オーストリアにはドイツ人とチェコ人が住んでいて、オーストリアの統治者であるハプスブルク家が、段々チェコ化していく様子を、ヒットラーは非常に歯がゆく思っていたようです。ヒットラーはチェコ人よりもドイツ人の方が優秀だと考えていたんですね。

と同時に、オーストリアはハプスブルク皇帝が納める国であって、ドイツ人が納める国ではないとも思っていたようです。

日本では「国家主義」と「民族主義」が一致する・・・と記事にしたことがありますが、ヒットラーが生まれた頃のオーストリアは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」であり、オーストリア皇帝は(ヒットラーの著書によれば)オーストリアの「チェコ化」を目指していた、とのこと。

つまり、「ドイツ民族の国」ではなく、「ハプスブルク皇帝の国」。オーストリアの「国家主義」とドイツ民族の「民族主義」は全く一致していません。

そして、そのことがオーストリアの弱体化を招いた、と考えていたわけですね。実際、1848年ウィーン革命はハンガリー人やチェコ人がハプスブルク家に対して起こした民族革命ですし、だからオーストリアはドイツ関税同盟をめぐる駆け引きの中でビスマルクによってその構想から外され、普墺戦争によってプロイセンに敗れることとなったわけですから。

そして、そんなヒットラーが初めてオーストリアの政治の在り方に疑問を持ったのが彼が夢中になって読んだ戦記に記されていた、「普仏戦争」の話題でした。

普仏戦争が勃発した時点で、既にオーストリアは普墺戦争に敗北し、統一ドイツ構想から完全に外されていましたし、そもそも普仏戦争そのものがビスマルクの仕掛けた「南北ドイツを統一するための戦争」でした。

ビスマルクの策略によりナポレオン三世がプロイセンに戦争を仕掛けてきたことから、外形上フランスがプロイセンに対して起こした戦争であり、これを他の北ドイツ連邦都市国家や南ドイツの都市国家の「ナショナリズム(民族主義)」が一体となりナポレオン三世が指揮するフランスを打ち破るわけですが、この時点でオーストリアは完全に蚊帳の外。

これを、ヒットラーは「オーストリアもこの戦争に『ドイツ民族として』参戦すべきだった」と考えたのです。

なのになぜオーストリアは参戦しなかったのだろう・・・と。同じドイツ人でも、ドイツのドイツ人とオーストリアのドイツ人は違うんだ、という認識をこの時おぼろげながら有するに至ったんですね。

この事が彼に「歴史」に対する興味を抱かせ、まずはオーストリアの歴史を、続いてドイツの歴史を、それぞれ具に調べる様になったわけです。

そして彼は気づきます。「オーストリア」という国が、ドイツ人の国ではなく、「多民族国家」であったことに。

彼は、ビスマルクが築いた「ドイツ」という国の事を心底誇りに思い、またドイツ人であることそのものにも心底誇りを持っていました。

だからこそ、ハプスブルグ皇帝によってオーストリアがどんどん「チェコ化」されていくことが許せなかったんですね。


ウィーンに渡ったヒットラー

ヒットラーは、13の時に父親を、18の時に母親を亡くします。

元々、美術に対する関心が非常に高かったヒットラーですが、今でいう公務員であった父親は、彼が美術の道に進むことを許さず、公務員としての道を歩むことを強要しようとしていましたので、父親が亡くなったことは、彼にとっては実はそう悲観することではなかったようです。

一方で母親は根負けしてヒットラーが美術の道を志すことを認めてくれたのですが、ヒットラーは美術学校の試験に落第。試験管より、ヒットラーは美術の道よりも建築の道の方が向いている、とのアドバイスをもらいました。

母親の死後、彼は建築の道を志すためにウィーンへと移住することとなりました。

さて。彼がここで出会う事となるのが「マルクス主義者」と「ユダヤ主義者」です。

彼がマルクス主義者やユダヤ主義者(ユダヤ人)に対する嫌悪感を抱くようになるのはこの時のことでした。


もう少し話題を進めておきたいところなのですが。

時間が必要以上にかかってしまうことも想定されるため、今回はここで終了したします。

次回は、ヒットラーがマルクス主義者やユダヤ人に対する嫌悪感を抱くようになった理由について記事をまとめてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第488回 「アドルフ・ヒトラー」と「アーリア人至上主義」
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>> 第486回 日本が日独伊三国同盟を締結するまでの中国

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