FC2ブログ
第486回 日本が日独伊三国同盟を締結するまでの中国など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

当シリーズ をスタートした最大の命題は、一体なぜ日本はドイツ、つまり「ナチス」「ヒットラー」という存在と、一体なぜ同盟関係を締結したのか。この1点です。

「清」という国を開国させるためにイギリスが中心となって仕掛けた「アヘン戦争」と「第二次アヘン戦争(アロー戦争)」。結果、満州の半分を清国はロシアに割譲させられ、これを樺太の対岸で目の当たりにした日本。

日本、清国、李氏朝鮮が連携し、ロシアの脅威に備える必要性を痛感するものの、いつまでも大国感情が抜けないいつまでも清国とその清国への属国であり続けようとする李氏朝鮮。

やがて三国は日清戦争へと突入し、日本に対して多額の賠償金を背負うこととなった清国は、その支払いのために欧州各国から借金をすることとなり、その抵当として自国の領土を欧州各国に手渡すこととなりました。

その内の一つ、ドイツが手にした山東省ではキリスト教の布教を行うドイツ宣教師と現地人との間での衝突をもたらし、後に清国政府が北京に公使館を構える日欧米合計8カ国に対して宣戦布告を行う「北清事変」へと発展。(ドイツは山東省の一部を植民地化。この時のドイツ皇帝がヴィルヘルム二世。)

ヴィルヘルム2世

他国が北京内の自国民を守るために清国との戦いを繰り広げる中、清国が他の領土へ軍を派遣できずにいる事をいいことに、ロシアは満州へと軍を進め、現地人を皆殺しにした上で満州を占領するという暴挙に。

北清事変後、満州における領土問題を通じて日本はロシアとの間で日露戦争に。日本に敗れたロシアは国内に「社会主義者」という内憂を抱えることとなります。(後のロシア革命へとつながります)

日清戦争に敗れ、日露戦争では自国領であるはずの満州で日本とロシアの戦場とされ、いい加減フラストレーションがたまっていた清国では、政府が他国への賠償に充てるため、鉄道を他国に貸し出そうとしていたことに反発して「辛亥革命」が勃発。長く中国において続いた「帝政」の時代は幕を下ろします。

更に欧州では独露の争いを中心に第一次世界大戦が勃発。日本はドイツが清国に持つ植民地、「山東省」をドイツから奪還することを名目に第一次世界大戦に参戦。大戦中の中国では政権の中心人物であった袁世凱が政権の座から脱落→病死し、指導者を失った中国は「国家」としての体裁を失い、「軍閥時代」へと突入。

袁世凱

袁世凱よりも前に、中華民国の初代大統領であったはずの孫文は、北洋(軍閥)政府に対抗して、中国の南部で「広東政府」を樹立。

孫文

更に第一次世界大戦後、同講和条約であるヴェルサイユ条約をめぐり、自国の主張が認めあられなかったことなどを理由に中国では学生運動である「五四運動」が勃発。ここに参加した「マルクス主義研究会」が母体となって、ソビエトコミンテルンの主導により「中国共産党」を設立。

更に孫文は中国がソ連の指導を受け入れることを確約し、孫文の中国国民党は中国共産党との間で「第一次国共合作」を実現。

孫文の死後、孫文の後を引き継いだ蒋介石は、孫文が残した悪しき遺産である「共産党員」と「国民党左派」たちによって完全に中国統一の足を引っ張られることとなります。

蒋介石

日本が米国や英国などとの間で行った「ワシントン軍縮会議」。その結果締結した「九カ国条約」。

この条約により、日本だけでなく、「米」「英」「仏」「独」「墺」「蘭」「葡(ポルトガル)」の合計8カ国は、「中国の内政に干渉しない」ことを約束しました。

ですが、これは、

 ・ロシアが赤化しておらず
 ・ロシア(ソ連)の影響を受けて中国が赤化することはない

ことを前提とした条約です。というより、ワシントン軍縮会議が行われた段階で、この事は全く想定されていませんでした。

しかし、現実問題としてこの事は蒋介石の「北伐」、そして「日中関係」に大きな悪影響を及ぼしてい行くこととなります。

蒋介石はそもそも日本で軍人としての教育を受けていましたから、非常に規律正しく、この事を自らが直接指導する国民党にも徹底させていました。

しかし、国民党員の中には国民党員でありながら「共産党」に所属していたり、蒋介石の考え方よりも共産党の考え方に傾倒していた、所謂「国民党左派」という連中が存在していました。

蒋介石はそんな連中と権力を争う関係にあり、規律を重んじようとする蒋介石と、「そんな連中」は全く逆の振る舞いを行っていました。

その最たるものが1927年の南京事件 であり、済南事件 であり、果ては日中戦争において日本が中国との間で交戦状態に至る前、盧溝橋事件後に勃発した 通州事件 なのです。

通州事件に関しては、既に蒋介石と蒋介石国民党は共産党軍側に傾きつつありましたから、実際には「1927の南京事件」と「災難事件」が中国共産党や国民党左派のふるまいを象徴する事件だった言えます。

行われたことは

・略奪
・放火
・強姦
・殺害
・人体破壊

といったところでしょうか。私としましても、現在はもう何度もこういった情報を発信してきましたので、だいぶんこういった記述をすることになれてきましたが、本当に最初に知ったときは文字起こしすることさえ憚られるような、そんな思いでいっぱいでした。

自ら文章にしながら、自らで目を背けていたことを記憶しています。

あいつらのやったことは、その「残虐性」にすべてが象徴されると思います。

生きたまま人体を破壊しながら殺害をしていく。「強姦」すらその一環であったのではないかと思わせるほどです。

数が多かったり少なかったりしますが、それでも「十数人」なのか、「数十人」なのか、「200名規模」なのか。ただそれだけの違いで、その残虐性は一貫しています。

あの「満州事変」でさえ、結局はそんな中国人の残虐性から、当時併合して同じ日本国民であった朝鮮人まで含めて、その命と尊厳性を「守る」ために起こされた事件だったんだという事を、日本人はもっと知るべきです。

その規模が最大であったのが1937年に「冀東防共自治政府(内モンゴル自治区)」「冀察政務委員会(華北。現在の北京などがある地域)」との境にある「通州」で勃発した「通州事件」です。

200人者もの(朝鮮人を含む)日本人が、聞くに堪えないような残虐な方法で殺害されたんです。

まだ男性経験すらない少女に対し、自らの一物が入らないからと言ってその少女の性器に拳銃を突っ込んだり、生きたまま腹を切り裂いて腸を引きずり出し、切り裂いて投げて遊ぶなんて、まずまともな人格を持つ人間にはできません。

それですらあいつらがやらかした所業のごく一部にすぎません。


日本政府はなぜ対中開戦を決断したのか?

そして、そんな「通州事件」ですが、これを引き起こしたのはかつて「馮玉祥」という人物が起こした「国民党第19軍」。これが母体となって出来上がった「中国国民革命軍第29軍」。こいつらです。

そしてこれを日本の支那駐屯軍は壊滅し、「中国政府」とは交戦状態に陥ることなく終結させています。

この後、上海において日本の民間人が居留する、「日本人租界」が中国国民党と中国共産党合わせて最終的に20万の軍勢で包囲されたことから、朝鮮人まで含めた日本の民間人の命を守るため、仕方なく行ったのが「第二次上海事変」です。

ここから、日本軍と蒋介石国民党軍は交戦状態へと突入していきます。「そんな蒋介石軍」を支援したのが米・英・仏、そして「ソ連」です。


日本とドイツの同盟関係の推移

ちなみに日本は通州事件が勃発した1937年。その前年である1936年11月には既にドイツとの間で「コミンテルンに対する日独協定」及び「秘密付属協定」の総称である「日独防共協定」を締結しています。

「コミンテルン」とは言うまでもありません。第一次世界大戦勃発により解消された「第二インターナショナル」に続き、レーニンらが起こした「第三インターナショナル」の事です。

この、「コミンテルン」の指導により1921年7月、中国国民党が誕生しました。翌1922年4月、スターリンがソ連共産党書記局長となります。

レーニンは1918年8月に頭部に銃弾を受け(暗殺未遂)、脳の障害とみられる症状が出るようになっており、スターリンが書記局長となったその翌年、脳卒中に見舞われ、半身麻痺となります。

レーニンは1924年1月21日に死去。その前日、1924年1月20日に中国では第一次国共合作が行われました。

スターリンは、レーニンが死ぬ間際まで病床に伏せるレーニンを看病する名目で監視し続け、レーニンが発信する情報をコントロールし続けました。

今更・・・という事にはなりますが、日本がドイツと同盟関係を成立させた時点で、交戦状態にあったのはそんなスターリンが牛耳るソビエト連邦であったという事ですね。

1937年11月には日独防共協定にイタリアが参加し、「日独伊防共協定」となります。

その後、1939年8月に同盟国であるはずのドイツが日本と敵対関係にあったはずのソ連との間で「独ソ不可侵条約」を締結。日本はやむを得ずソ連との戦争を終結させます。

1940年4月、日本はソ連との間で「日ソ中立条約」を成立させるのですが、1941年6月、ドイツが突如ソ連に侵攻を開始。

この段階で日本が想定していた「四カ国同盟構想」は破綻。日本にとって脅威なのはドイツよりむしろソ連ですから、当然ソ連との同盟関係よりもドイツとの同盟関係を優先させます。

ただし、日本は結局ドイツと共同してソ連に侵攻する「北方作戦」ではなく、南部仏印に対して軍を進める「南部仏印進駐」を選択(1941年7月)しましたから、結果的に日本が対米戦に敗北するまで、日本はソ連との間で同盟関係を維持し続けることとなりました。


ザっとまとめてみたわけですが、今回の記事を読んでみても、まず日本がなぜソ連を脅威に感じていたのか、という事はご理解いただけると思います。

そして、なぜ優先して蒋介石軍を壊滅させようとしていたのかという事も。

よく、ヒットラーがユダヤ人に対して虐殺行為=ホロコーストを起こした(とされる)ことが問題とされる様子を目にします。

ですが、だったらなぜ蒋介石国民党当時の国民党左派や共産党員たちが朝鮮人まで含む日本の民間人たちに対してあまりにも凄惨な「虐殺」が行われていたことが問題にされないのでしょうか?

あいつらがやったことは、ヒットラーがユダヤ人に対して行った(とされる)行為と全く変わらないと思います。

第二次世界大戦の事は今後深めていく予定ではいますが、同大戦において、連合国軍がナチスを追い込んで壊滅させたその理由と、日本軍が蒋介石軍を追い込み、壊滅させようとしたその理由の間に、いったいどれほどの違いがあるのでしょうか?

アメリカも、イギリスも、フランスも、ナチスがユダヤ人に対して行った(と自分たちが信じて疑わない)行為と全く変わらない行為を日本人に対して行った蒋介石軍(国民党左派及び共産党員)を支援し続けたという自覚がこの3国にあるのでしょうか?

ナチスを責める前に、ナチスと全く同じ行為を行っていた蒋介石軍を支援した自分たちの事を反省することからこの3国は始めるべきなのではないでしょうか?

ましてアメリカは、最終的に日本の広島と長崎に原爆を落とし、蒋介石軍やナチスも真っ青の大虐殺行為を行っているわけなのですから。


まとめ

改めまして、本シリーズ をスタートさせた目的は、日本がドイツと同盟関係を結んだ理由。

そして、その同盟関係そのものが、本当に責められるべきことなのかどうか。

米国は日本が対米開戦を決断するまでの過程において、主に二つの事を日本に対して要求していました。

1.警察まで含めた日本の軍事力を、中国本土、及び東南アジアから撤退させること
2.ドイツとの同盟関係を解消する事

一方で日本もまた、アメリカに対して2つの事を要求していました。

1.蒋介石に対する支援をやめる事(もっと言えば、蒋介石が降伏するよう説得する事)
2.欧州戦に参戦しないこと

そして、日本もアメリカも、今回の戦争が「自衛のための戦争である」と主張していました。

ですが、アメリカが「自衛」と言っていたのは、日本がそうであったように、民間人の命や尊厳を守ることではなく、米国が中国本土やフィリピンに保有していた「権益」を守ることでした。

日本はアメリカに対し、「我々はあなた方の権益を侵害するつもりは一切ない。ただ、蒋介石軍を支援するのをやめてほしい」といい続けていたのですが、アメリカはこの話に耳を傾けることは一切ありませんでした。

日本がドイツと同盟関係を締結したことが、本当に責められれるべきことなのかどうか。今回記事をまとめてみて、まずは一つのターニングポイントとなるのは、1936年、日本がドイツとの間で「日独防共協定」を締結した時点で、両国が危険視していた「ソ連」が一体どのような状況にあったのか。

また、この時の「コミンテルン」という手段の位置づけが果たして一体どのような状況にあったのか。この事を追求する事ではないか、と感じました。

また、この時点でドイツのユダヤ人に対する迫害がどの程度進行していたのか。この点も重要なポイントかと思います。

「次回こそ」といいながら、中々本題に迫れていませんが、次回こそは「我が闘争」を通じてアドルフ・ヒトラーの人物像を追求してみたいと思います。




このシリーズの次の記事
>>
このシリーズの前の記事
>> 第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]