FC2ブログ
第484回 カップ一揆と匕首(ひしゅ)伝説(背後の一突き)など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

前回までの記事では、ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒト(息子)らが結成したスパルタクス団(ドイツ共産党)によって勃発したスパルタクス団蜂起を鎮圧したグスタフ・ノスケが、更にバイエルン・レーテ共和国までも滅亡させてしまった様子を記事にしました。

バイエルン・レーテ共和国が滅亡したのは1919年5月1日~5月3日の3日間にかけての3日間の出来事だったのですが、この時活躍した「エアハルト海兵旅団」という義勇軍が、1920年3月、グスタフ・ノスケ国防相自らによって解散を命じられ、これに反発したエアハルト旅団が巻き起こした武装蜂起が「カップ一揆」と呼ばれるものです。

カップ一揆


カップ一揆の経緯

前回の記事 でもお示ししました通り、スパルタクス団蜂起が鎮圧された後、第一次世界大戦の講和条約である「ヴェルサイユ条約」にドイツが調印するのが1919年6月28日の事。

このヴェルサイユ条約には、連合国側からの講和条件として「ドイツ軍の軍縮」が提示されていたことから、1920年1月10日にヴェルサイユ条約が発効した後、1920年3月31日までに正規国防軍35万を11万5千人に縮小、更に義勇軍25万を完全解散することとしました。

当然、この時解散させられることとなった「義勇軍」の中に「エアハルト旅団」も含まれていました。

エアハルト旅団を従えていたのがベルリン防衛司令官であるヴァルター・フォン・リュトヴィッツという人物で、解散を命じられた際、ドイツ祖国党のヴォルフガング・カップとともにこの解散に反発をし、エーベルト大統領に撤回を要求しました。

しかし、グスタフ・ノスケによってリュトヴィッツは解任され、カップには逮捕が命じられました。(1920年3月9日)


ベルリンの占領とカップ新政権の樹立

これを受け、リュトヴィッツは自身の配下であったヘルマン・エアハルトが率いるドイツ義勇軍エアハルト海兵旅団にベルリン進撃を命じ(3月12日)、翌13日にはベルリンを占領、ヴォルフガング・カップ新政府の樹立を宣言します。

これに対し、グスタフ・ノスケ国防相はワイマール共和国軍に治安出動を命じるのですが、プロイセン参謀本部長(当時は連合国に対する偽装のため、「兵務局」という名称だった)であるハンス・フォン・ゼークトは、軍の独立性を守るため、「軍は軍を撃たない」との理由でこれを拒否。

エーベルト大統領は身の安全を確保するため、ベルリンを脱出してシュトゥットガルトに大統領府を移転します。

ドイツ祖国党、ドイツ国民党、及び経済界が新政府を支持しました。

そう。意外にもこの「カップ一揆」はドイツ、特に旧プロイセン陣営からは支持されていたんですね。


匕首伝説

さて。このような事態が巻き起こった背景にあるのがこの「匕首伝説」なるもの。

「背後の一突き」とも呼ばれているようで、要は第一次世界大戦でドイツが敗北したのは、軍事作戦が悪かったわけではなく、革命を扇動したドイツ社会民主党や共産主義者たちのせいだ、という考え方です。

この考え方はヒットラーの「我が闘争」にも登場しますね。

私もこのブログで度々記事にしていますが、ドイツが第一次世界大戦に敗北したのは、間違いなくドイツ国内で社会主義革命が勃発したことによる自滅です。

「匕首伝説」とはこのことを言っているわけです。実際、終戦時の戦場はフランスでしたし、ドイツ国内には敵国軍を侵入させてはいませんでしたから。

で、この考え方は意外にも多くの国民に支持されていて、それが結果的に国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスを生み出す遠因ともなったという事でしょうか。左派がいなければドイツが敗北することはなかった、と。

そして、カップ一揆をおこしたヴォルフガング・カップ自身も、この「匕首伝説」を訴えていました。この事が、カップ新政府がベルリンで受け入れられた一つの理由だったんですね。


超短命に終わったカップ新政府とルール蜂起

エアハルト旅団がベルリンを占領し、カップが新政府樹立を宣言したのが1920年3月12日。ですが、この新政府が崩壊したのはなんと同年3月17日。カップ政権は1週間も持たなかったんですね。

カップ新政府崩壊の原動力となったのは社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟によるゼネラルストライキ(ゼネスト)。つまり、ドイツ全国で一斉に仕事を放棄したってことです。

また更に、ルール地方では「ルール赤軍」を名乗る労働者たちが反乱を起こします。

「労働者」とは言え、その大部分はドイツ独立社会民主党やドイツ共産党に所属する、第一次世界大戦の「復員兵」。総勢5万の復員兵たちが終結し、義勇軍を襲撃(3月15日)。17日にはカップは退陣を余儀なくされました。

その後、共和国政府は戦勝国であるイギリス、及びフランスにルール蜂起鎮圧のため、軍の増派の許可を求めるのですが、フランスは「条約の破棄に当たる」としてこれに強硬に反発するのですが、イギリスは逆に共和国政府を支持し、日本やイタリアもこれに賛同しました。

連合国の足並みがそろったとはいえない状況の中、共和国軍は派兵を行い、ルール蜂起鎮圧のため、ルール地方へと向かうことになります。

4月6日、軍は赤軍に中枢にまで到達し、赤軍は壊滅することとなりました。

一方でフランスは条約違反であることを口実にドイツに軍を派兵し、フランスを支持したフランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの5つの都市を占領し、共和国軍が引き上げる5月17日まで占領を続けました。


共和国政府とバイエルンとの対立

ここまでくると、かなりぐちゃぐちゃですね。

まず、カップ一揆後に再び解散を命じられたエアハルト旅団は、「コンスル」という名称の組織を結集し、テロリスト集団と化します。

国防相であるグスタフ・ノスケもカップ一揆において「反革命を優遇した」という理由で辞任に追い込まれます。ノスケの辞任に伴って「総帥部長官」であったヴァルター・ラインハルトも辞任。代わって兵務局長であるハンス・フォン・ゼークト総帥部長官に就任。軍は政府からの独立色を強めることになります。

一方で、バイエルン州ではカップ一揆の影響を受け、バイエルン州の右翼陣営より当時バイエルン州須小であったドイツ社民党のヨハネス・ホフマン政権を打倒しようとする動きが起こります。(既に結成されていたナチスのヒットラーも名を連ねています)

この動きによってホフマン首相は退陣を余儀なくされ、後継ととして王党派・右派のグスタフ・フォン・カールが新首相となります。

カール首相の下、バイエルンにはドイツ国内の反革命過激派が集まるようになり、「バイエルン住民防衛軍」が組織されるのですが、連合国からの圧力によりこれが解散させられます。

この事から、バイエルンではベルリン政府に対する反発心が高まることになり、住民防衛軍の後継として「軍」の名称を持たない、様々な組織が結成されました。この中にはヘルマン・エアハルト(元エアハルト旅団のリーダー)のヴァイキング同盟なる名称も見られます。

ドイツ国内で、徐々に右派と左派による対立の構造が激しさを増し始めるのです。


本日の記事は自称をなぞるだけで、私のブログ「らしさ」に欠ける記事だったかと思います。

ですが、この当時のドイツの全体像を把握する上では必要な行程かとも考えています。いずれ継続する記事を作成する中で、今回の記事を参考にしたり、または更新、改修をしたりする場面も出てくるかと思いますが、より「真実」に近い姿を見出すためこのような記事が存在することもご容赦いただければと思います。

次回記事では、いよいよ本シリーズの本丸であるヒットラーやナチスという存在に少しずつ迫っていければと思っています。


次回記事備忘録 ミュンヘン一揆



このシリーズの次の記事
>> 第485回 改めて復習する、ヒットラーが登場するまでのドイツ近代史
このシリーズの前の記事
>> 第483回 バイエルン・レーテ共和国の誕生とアドルフ・ヒトラーの登場

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]