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第468回 ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒトの処刑~スパルタクス団蜂起とその結末など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第467回 スパルタクス団とドイツ革命~ワイマール共和国の成立~

それにしてもややこしい・・・。

多分、「歴史」を一番複雑にしているのはこういったいわゆる「左翼」の存在なんじゃないかと思います。

ドイツにとっての第一次世界大戦に終結をもたらしたのは、図らずもドイツ国内で起きたキール軍港における水平たちの武装蜂起にあったわけですが、これをきっかけにドイツ全土でいわゆる「レーテ」による武装蜂起が立て続けに起こり、各都市がレーテの支配下に入ります。

スパルタクス団の指導者であるリープクネヒトが実行しようとしていた社会主義政府の樹立を阻止するため、社会民主党の一党員にすぎないシャイデマンが共和制政府の樹立を宣言。

社会民主党と独立社会民主党は連合し、「人民委員評議会」を樹立。ヴィルヘルム2世はオランダに逃亡しました。

ここは前回の記事でもさらった部分です。


独立社会民主党の政権離脱

わかりにくすぎるので、まずは一つずつまとめていくのが最善の策かと思いまして、わからないなりに、少しずつまとめていきます。

まずはサブタイトルに記した通り、「人民委員評議会」に加わった独立社会民主党がこの評議会を離脱した経緯から記事にしていきます。

おさらいとして、前回の記事 で話題にした「レーテの衰退」について。

社民党と独立社民党において「人民委員評議会」が樹立したわけですが、帝政ドイツ崩壊の中心的役割を果たしたベルリンの「レーテ」は、これとは別に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出。ここに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」しました。

ここには独立社民党極左の「革命的オプロイテ」が半数以上含まれていました。ベルリンの「レーテ」は、つまり社民党ではなく、独立社民党の、しかも極左にその権力を与えようとしたわけですね。

ですが、その「レーテ」によってドイツ全土で開催された「大レーテ大会」では逆にその半数以上を社民党系の評議員が占めていたことから、ものの見事に独立社民党の目論見は骨抜きにされ、更に「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」ではなく、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められました。

詳しくは前回の記事を読んでいただければと思うのですが、この結果ドイツの権力は「独立社会民主党」ではなく、「社会民主党」が掌握することとなったわけです。

独立社会民主党は、「人民委員評議会」に加わることの条件として、「全権をレーテが握ること」を要求し、結果これが実現したわけですが、その主力は独立社会民主党ではなく社会民主党系であった・・・と、そういうことですね。


少し時間をさかのぼります。サブタイトルにもある通り、ドイツ独立社会民主党は評議会を離脱するわけですが、そのきっかけとして、「人民海兵団」という言葉が登場します。

この「人民海兵団」。その誕生は1918年11月。人民委員評議会政府が樹立した直後の話です。

革命は水兵の反乱によって勃発しましたので、海軍はその信頼を失い、混乱したままの状態にありました。

そして、首都(ベルリン)の治安を守るために「クックスハーフェン」というドイツの北端の都市から呼び寄せられた水兵とベルリンの水兵との間で結成されたのが「人民海兵団」です。

クックスハーフェン

ですが、ここに独立社民党の極左である革命的オプロイテが浸透し、海兵団そのものが左傾化していくこととなりました。


帝政ドイツ崩壊後、ドイツの首相となったのは社会民主党党首のフリードリヒ・エーベルトでした。

全体的な流れから見て、どうもエーベルトは革命後のドイツが共産化してしまうことを何とか防ごうとしていたような、そんな印象を受けます。

独立社民党と連合して樹立した「人民代表評議会」では、首相であるエーベルトが議長を務めていたことから、どうも独立社民党の中では不満が鬱積していた様子。

一方で12月16日に行われた「大レーテ大会」では、革命的オプロイテやスパルタクス団ら、所謂「急進派」がドイツ帝国軍の解体と国民軍の創設を要求するのですが、エーベルトはこれを無視し、翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定します。

ドイツ独立社会民主党の政権離脱のきっかけとなったのは「人民海兵団」の武装蜂起にあるわけですが、おそらくこれもこのような流れの延長線上にあったものと思われます。

「人民海兵団」は極左、革命的オプロイテによって、事実上革命派の一組織と化していたようで、12月23日までに人民海兵団はベルリンの王宮を占拠してしまいます。

これに対し、エーベルト政府は占拠をやめるよう指示を出すわけですが、海兵案はこれを拒否。翌24日には政府軍が海兵団の宿舎を砲撃し、市街地戦がスタートします。

しかしこれもやけにあっさりと終結しているようで・・・。で、独立社会民主党はこの状況を、「政府が帝国軍とつながっている証拠だ」と主張し、臨時政府から離脱してしまいます。

政府なんですから、軍を統括しているのは別におかしいことではないと思うんですが。特にあの時代、政府が軍を統括していなければ、一体どうやって治安を保つというのでしょうね?

兎にも角にも、このような経緯を経てドイツ独立社会民主党は政権から離脱することとなりました。


スパルタクス団蜂起

さて。前回の記事 でも触れましたが、「人民海兵団」に絡む事件が勃発した頃、もう一方の「急進左派」、「スパルタクス団」は、更にもう一つの左派集団である「ブレーメン派」が結成した「ドイツ国際共産主義」と合同し、翌1919年1月1日、「ドイツ共産党・スパルタクス団」を創設しました。

彼らによって引き起こされたのが「スパルタクス団蜂起」です。

スパルタクス団蜂起


この話題は、以下の記事を参考にさせていただこうと思います。

1章 ドイツ革命・3スパルタクス団の蜂起

経緯がきちんと記されているので、この記事を信頼して進めていきます。

そもそも、この「スパルタクス団蜂起」が勃発したのは、「独立社会民主党の党員で唯一要職にあったベルリンの警察長官エミール・アイヒホルンが臨時政府によって解任されたこと」にあるのだそうです。(1919年1月5日)

しかし、このアイヒホルンは政府による解任を拒否し、独立社会民主党のベルリン支部に支援を求めました。

このことを受け、独立社会民主党と同党左派である「革命的オプロイテ」、そして1日に発足したばかりの「共産党」は解任に反対する抗議デモを行うよう、「市民」に呼びかけます。

第354回の記事

にも記しましたが、「スパルタクス団蜂起」を起こしたのは、実は共産党を結成したスパルタクス団ではなく、呼びかけられて集まった「大衆」でした。集まったのは総勢50万にも上る群衆で、中には革命派を敵視する記事を発行していた新聞社を占拠したグループもいました。

ですが、デモを呼び掛けた「左派」の面々は、ここまでの事態をそもそも想定しておらず、集まった群衆をどのように煽動してよいのかが全く分からず、「革命委員会」を結成しこそすれ、この委員会は全く機能しませんでした。

このように、集められた群衆がどう動いてよいかわからず、右往左往している間に、社民党政府は、大戦時の退役軍人を中心に志願兵を募って、義勇軍を結成し、国防大臣グスタフ・ノスケの下、義勇軍は労働者が占拠していた新聞社街の通りや大手新聞社の建物を奪還しました。

武力の差は圧倒的で、共産党の中心的な指導者であったリープクネヒトとローザ=ルクセンブルクはとらえられ、殺害されました。

この時の両名の処刑のされ方を、「虐殺」と記している記述も多く見かけますので、その殺害方法はよほどの内容だったのだと思います。

義勇軍として参加した退役軍人たちも、どうも革命後の市民社会に対して「違和感」を覚えていたのだそうです。ドイツ人たちの中には、確かに「ビスマルク」時代のドイツがはっきりとその脳裏に刻まれていたのではないでしょうか。

だからこそ「誇り」も持っていたでしょうし、姑息なマルクス主義者たちが目指した社会は、きっとドイツ国民にはなじまなかったのではないかと推測されます。

さて。この後の「社会主義」に関しては、第351回の記事、及び 第354回の記事 にて一通りまとめていますので、これ以上はあえて追いかけることはせず、いよいよ今シリーズの本丸、「ナチス」に視点を合わせてみたいと思います。

ただ、その前に一記事だけ、「ヴェルサイユ条約」に関連した記事を作成できればと思っております。




このシリーズの次の記事
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