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第467回 スパルタクス団とドイツ革命~ワイマール共和国の成立~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義

ドイツ社会主義の復習

ものすごくややこしいので、まずは最初に第一次世界大戦前~開戦直後のドイツ国内の「社会主義」を一度整理してみます。

ドイツの社会主義はまず「全ドイツ労働者協会」と「ドイツ社会民主労働党」という二つのグループからスタートします。

全ドイツ労働者協会ができたのが1863年、ドイツ社会民主労働党ができたのが1869年ですから、全ドイツ労働者協会の方が先です。

全ドイツ労働者協会はいわゆる「社会主義者」であるラッサールが中心となり、一方のドイツ社会民主労働党は「共産主義者」ベーベルやヴィルヘルム=リープクネヒトが中心となって誕生しました。

両グループの違いは議会との話し合いによって社会主義社会を築いていくのか、それともプロレタリアートの暴力革命によってそれを成し遂げるのかという違いです。

ラッサール自身は1864年に決闘により絶命していますので、ドイツ社会民主労働党が誕生したときの全ドイツ労働者協会のリーダーはラッサールではありません。この時の全ドイツ労働者協会の会長は「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」という人物。

彼はラッサールの路線を継承していましたので、ドイツ社会民主労働党とは対立する構造にあったのですが、議会での敗北を受け、シュヴァイツァーが会長を辞任した後、ウィルヘルム・ハーゼンクレーヴァーが会長となってからは、少しずつ全ドイツ労働者協会からはラッサール色が褪せる様になります。

それどころか、両陣営ともビスマルクが成立させた社会主義者鎮圧法によって排除される立場となったことから、両陣営の結束は高まることとなり、1875年5月、両陣営は合同して「ドイツ社会主義労働者党」が誕生します。

ビスマルクがヴィルヘルム2世より排除され「社会主義者鎮圧法」が廃止されると、「ドイツ社会主義労働者党」は「ドイツ社会民主党」と党名を変更します。(1890年)

改名とほぼ同時に誕生した、「ドイツ労働組合総委員会」を中心に、ドイツの労働組合が終結し、「自由労働組合」を結成します。

この「自由労働組合」はドイツ民主党の最大の支持母体となるわけですが、グループが大きくなるにつれ、次第に自由労働組合はラッサール的な「修正主義」へとその主義を変化させていきます。

ドイツ民主党へと改名した折、党の方針として「エルフルト綱領」が制定されたわけですが、二つの部分からなるこの綱領の内、「行動綱領」を作成した「エドゥアルト・ベルンシュタイン」という人物は、1895年、マルクスとともにドイツの社会主義をけん引したエンゲルスが死去した後、「修正主義に繋がる内容の論文」を発表するようになりました。

この頃には既に自由労働組合の間で「修正主義」が蔓延していましたから、ベルンシュタインの論文は広く組合員たちに受け入れられるようになります。

また更に、自由都市である南ドイツでは、北ドイツに先んじて普通選挙が実施されるようになっており、所謂「地方議員」として、ドイツ社会民主党でも「修正主義者」である議員が多く誕生していました。そして彼らは自由主義者たちと連携するようになっていたのです。

修正主義の中心地となった南ドイツを中心に、ドイツ社会民主党の「世代交代」も進み、やがて「修正主義者」たちがドイツ社会民主党の中心となっていくようになりました。

ですが、当然のようにして党内の「共産主義者(マルクス主義者)」と「修正主義者」たちは対立しました。

マルクス主義者である「急進左派」と「修正主義者」、そして修正主義者たちへの歩みよりを見せる党指導部の面々、「中央派」。この3つの派閥が社会民主党の中に誕生しました。

このことが大きく問題となるのは、1914年7月28日に勃発した「第一次世界大戦」。ロシアに宣戦布告するのが8月3日。翌日戦費を戦時公債によって賄われることが議会の「全会一致」で議決したとあります。もちろん「ドイツ社会民主党」も含めて。

ですが、この中でただ一人この議決に反対したのが、「カール・リープクネヒト」でした。ドイツ社会民主労働党を結成したヴィルヘルム=リープクネヒトの息子です。


「スパルタクス団」

もう一つややこしいのが、この「スパルタクス団」です。

前回までの記事と違う内容になると申し訳ないのですが、「新しい記事の方が、より洗練された情報である」と受け止めていただけるとありがたいです。

ですので、今回記す記述は、現時点で私が最も「正確だ」と考えている情報です。

まず第一に、ドイツ帝国議会が戦時公債の発行を議決した後、「ドイツ社会民主党」の中で、「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」ら、「急進左派」の面々は、党内に戦時公債に対する「反対派」を結成します。

反対派は、1915年7月、党指導部宛に抗議書簡を送っているのですが、この後、反対派は「労働共同体」と「グルッペ・インターナツィオナーレ」 に分裂します。

中心人物として名前を挙げた「カール・リープクネヒト」「ローザ・ルクセンブルク」「フランツ・メーリング」「クララ・ツェトキン」の4名は共にスパルタクス団の結成メンバーとして名を連ねています。

で、おそらく「労働共同体」というグループは、前回の記事 に掲載しました、「社会民主協働団」の前身なのではないかと思います。議員団を除名された後、彼らは「社会民主協働団」の名称を用い始めたものと思われます。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」のメンバーは1916年1月1日、リープクネヒト宅で「全国協議会」を開催し、それ以降「スパルタクス団」の名称で知られることとなった、とあります。

「グルッペ・インターナツィオナーレ」が結成されたのは既に記しています通り、戦時公債が発行された翌1914年8月5日の事です。

「社会民主協働団」を結成するメンバーが議員団を除名されるのは1916年3月24日の事ですが、Wikiベースでリープクネヒトのページを読んでみますと、リープクネヒトは「社会民主党を脱党して1916年からローザ・ルクセンブルクとともにスパルタクス団を組織し、革命運動を指導した」とありますので、リープクネヒトが離党したのは1915年の事だということでしょうか。

この辺りははっきりしません。

「社会民主協働団」の面々は、結局1917年1月には党組織そのものから除名されることとなります。そして、同年4月8日に彼らは結党し、その名称を「ドイツ独立社会民主党」と定めています。アメリカがドイツに宣戦布告を行う翌々日のことです。

この時、スパルタクス団は、結成されたドイツ独立社会民主党に合流しています。


ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒト

スパルタクス団の結成において、中心的な役割を果たしたのは間違いなくこの両名なのですが、実はこの両者、1916年4月にリープクネヒトが、1916年7月に逮捕されており、禁固2年半を宣告されています。

つまり、両者がスパルタクス団を指導したのは、獄中から。逮捕されていたのは両名だけでなく、スパルタクス団の指導者たちは軒並み逮捕されていましたので、事実上スパルタクス団は「停滞」していたんですね。

「ドイツ革命」が起こり、ヴィルヘルム2世が廃位されるわけですが、革命を起こしたのは結局「ドイツ独立社会民主党」でもなく「スパルタクス団」でもなく、キール軍港の水兵たちでした。

ヴィルヘルム2世が廃位されたことを受け、ローザ=ルクセンブルクとカール=リープクネヒトは釈放されます。

ローザ・ルクセンブルク
カール=リープクネヒト


ドイツ革命とそのあとの流れ

ドイツ革命前後の流れを時系列で整理しますと、

・1918年11月4日 キール軍港の水兵たちの蜂起
・1918年11月5日 リューベック、ブルンスビュッテルコークがレーテ(ロシアでいう「ソビエト」)の支配下に
・1918年11月6日 ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェンがレーテの支配下に
・1918年11月6日 ハノーファー、オルデンブルク、ケルンがレーテの支配下に
・1918年11月7日 バイエルン王ルートヴィヒ3世が退位(バイエルン革命)、バイエルンがレーテの支配下に
・1918年11月8日 西部ドイツすべての都市がレーテの支配下に
・1918年11月9日 ベルリンでストライキが勃発、バーデン公マクシミリアンによる皇帝の退位の宣言、社会民主党員のフィリップ・シャイデマンによる共和政樹立の宣言(ドイツ共和国の成立)
・1918年11月10日 多数派社会民主党と独立社会民主党の連合が成立(仮政府「人民委員評議会」の樹立)。ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。

と、こんな感じです。ちなみに一党員にすぎないシャイデマンが慌てて共和政樹立を宣言したのは、釈放されたリープクネヒトが社会主義政府の樹立を宣言しようとしていたから。

社会民主党は既に「自由主義色」を帯びていましたから、ロシア革命の象徴である「ソビエト」と同等の意味を持つ「レーテ」政府はそもそも受け入れ難いものです。ですが、党首であるフリードリヒ・エーベルトは、政権を維持することを求めて本来対立する構造にあった独立社会民主党との連合という選択を行いました。

ですが、そんな「独立社会民主党」の中には、より左派色の強い「革命的オプロイテ」というグループを抱えこんでいました。

社民党と独立社民党は連合し、「人民委員評議会」を樹立しますが、労兵(労働者と兵士)で構成されるベルリンの「レーテ」はこれに対し、「革命的オプロイテ」が半数以上含まれる「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」を選出し、これに「ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言」します。


「レーテ」の衰退

さて。そんな「レーテ」なのですが、執行評議会より、郡県市町村ごとに再編成することが指令されます。12月16日には「大レーテ大会」が開催されるのですが、大会を構成していたのは全国から489人の代表評議員。

そして、この代表評議員の半数以上(291名)は社会民主党系の評議員でした。

内心では「レーテ」による支配に反対している社会民主党と、レーテによる支配を確実なものにしようとする独立社会民主党でしたが、大会の結果、独立社会民主党の目論見はものの見事に「骨抜き」とされてしまいます。

大会では、「レーテ大会」が全権力を掌握することが決められます。

1919年1月19日に「国民議会選挙」が行われることが決定したのですが、議会が決定するまでの間、その「権力」が臨時政府に委ねられ、その監督を新設された「共和国中央評議会」が行うことになります。

ですが、その「共和国中央評議会」の監督権限はあってないようなもの。この事から、独立社会民主党は評議会への参加を見送り、そのすべてが社民党の評議員で構成されることとなりました。

もちろん、これは「社会民主党」の主張によって実現したものです。この時点で、まだ「スパルタクス団」は「独立社会民主党」の内部に存在します。


「ドイツ共産党」の結成

さて。ではこのような状況を、スパルタクス団の面々が「潔し」とするでしょうか?

もちろんそんなわけはありません。1918年12月24日、彼らは「ドイツ国際共産主義」と合同誌、1919年1月1日、ついに「ドイツ共産党・スパルタクス団」を正式に創設します。

この後、1919年1月5日、スパルタクス団による武装蜂起が行われるのですが・・・。

続きは次回記事に委ねます。


少し話題がそれるのですが、この回の記事を作成していて少し見えてきたことがあります。

それは、一連の「ドイツ革命」を主導した指導者たちが、軒並み「ユダヤ人」であったこと。ドイツの「民族主義者」たちは、自分たちが敗戦した原因は共産主義者やユダヤ人たちから、「背中から撃たれた」ことにあると考えるようになります。

そして、革命後の「ドイツ共和国(ワイマール共和国)」では、「反ユダヤ主義」が高まることとなったのだそうです。

本シリーズ のテーマである、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」という疑問に対する答えが、少しだけ見えてきたように思いますね。



このシリーズの次の記事
>> 第468回 ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒトの処刑~スパルタクス団蜂起とその結末
このシリーズの前の記事
>> 第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義

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