FC2ブログ
第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第465回 第一次世界大戦までのドイツ社会主義~社会民主党の中の火種~
ドイツ社会民主党内部において、修正主義に対する歩み寄りを見せたベーベルやカウツキーら党指導部(中央派)と、これに迎合することができなかった「急進左派」の面々との対立が顕在化したのは1908~1910年にかけてのことなのだそうです。

第324回 等の記事で、私は「第二インターナショナル」のことを記事にしました。

この、「第二インターナショナル」が誕生したのは1889年7月のこと。ビスマルクが失脚したのが1890年3月のことですから、ビスマルクが失脚する、その前年のことになります。

マルクスら共産主義者が実際に参加してその設立にかかわった第一インターナショナルに比べると、第二インターナショナルはよりブルジョワ的で、「共産主義」というよりは、「社会主義」的な素養を備えています。つまり、ラッサール的な要素ですね。

第324回の記事は後に革命後のロシアのリーダーとなる「レーニン」が、当初目指していた第二インターナショナルの在り方として、「非暴力、反戦の姿勢」を記しています。

戦争に対する姿勢として、第二インターナショナルでは、1907年の「シュトゥットガルト大会」において、以下のように決議しています。
1 社会主義者は議会で軍備縮小と常備軍撤廃のために努力すべきである

2 関係諸国の労働階級は、戦争勃発を阻止するよう全力を注ぐべきである

3 戦争が勃発したならば、労働者階級は戦争の速やかな終結をめざして干渉するとともに、戦争によって引き起こされた危機を利用して、資本主義の廃絶を促進すべく全力をつくして戦うべきである

1912年に行われたバーゼル大会でも同様の宣言が行われ、特に3番の内容は、第一次世界大戦勃発後、スイスに亡命していたレーニンの「革命的祖国敗北主義」という考え方にも影響を与えています。

そして、対戦勃発当時、この第二インターナショナルを導く立場にあったのがドイツ社会民主党。ですが、このドイツ社会民主党が自国の帝国議会において戦争を支持し、政府に協力する方針を示しします。

これに仏、墺の社会主義者が続き、第二インターナショナルそのものが分裂することになりました。

つまり、第二インターナショナルが分裂したのはドイツの社会主義者たちのせいだったわけです。レーニンも批判していた部分です。

では、第一次世界大戦勃発を受け、ドイツ国内で社会主義者たちはどのような姿勢を示したのでしょうか?


第一次世界大戦勃発時のドイツ

前回の記事 でお伝えしましたように、この当時のドイツ社会民主党は、特に南ドイツにおいて同党の議員たちが自由主義者たちと連携するようになったことを通じ、ここで「修正社会主義」が醸造されるようになっていました。

世代交代が進み、かつてマルクス主義者たちがリーダーとして率いていたドイツ社会民主党は、「修正主義者」たちによって率いられるようになっていました。

かつてビスマルクによって「ナショナリズム」を煽られ、フランスに打ち勝った「自由主義者」たちです。第一次世界大戦勃発前夜の自由主義者たちの中には、あの時と同じような「ナショナリズム」が高ぶっていました。

ドイツ社会民主党は、この様な自由主義者たちと友好的な立場をとる政党へと姿を変えていました。


マルクスたちの幻影

マルクスやエンゲルスらは、ロシア帝国の「ツァーリズム(帝国主義)」を「社会主義運動の最大の敵」と定義づけていました。(根拠を調べる方法を現時点では保有していませんので、Wikiベースで記事を進めていきます。)

開戦時、皇帝であるヴィルヘルム2世は議会において、「余は党派なるものをもはや知らない。ただドイツ人あるのみだ」という演説を行いました。後に「城内平和演説」と呼ばれるようになった演説です。

「城内平和」とは、元々は中世のドイツで、「城壁内での私闘」を禁止する意味を持つ言葉だったのだそうです。

ドイツ社民党は、この言葉を受け、帝国政府の開戦を支持し、他党との抗争を停止しました。この事はドイツ国内のみならず、世界を驚かせたのだそうです。

Wikiには、社民党にこの姿勢をもたらせた理由として、前述したマルクスやエンゲルスらの「定義」があったのではないか、と記されています。


開戦後のドイツ社会民主党

社会民主党の前進の一つで、「マルクス派」であった「社会民主労働者党」。

この政党を結成したのは「ベーベル」と「リープクネヒト」であったわけですが、第一次世界大戦開戦の段階で、「ベーベル」は中央派、リープクネヒトは「急進左派」に位置していました。
※失礼しました。等を結成したのは「ヴィルヘルム=リープクネヒト」、急進左派に位置していたのは「カール=リープクネヒト」であり、両者は親子関係にあります。誤った記述、失礼いたしました。

私、第456回の記事 におきまして、開戦当初のドイツの「戦略」を記事にしました。

で、その「戦略」がいかにお粗末なものであったのかということも記事にしました。

ビスマルクがフランスに普仏戦争を吹っ掛けた時は、非常に綿密な戦略が練られていて、事前準備もかなり周到に行われていた事も記事にしました。そして、そんなビスマルク軍の快進撃に、あのマルクスさえナショナリズムに煽られて昂揚していたのだということも記事にしたと思います。

ヴィルヘルム2世がロシアに宣戦布告をした時の社会主義者たちの心境は、きっとあの普仏戦争当時と同じような心境だったのだと思います。

ですが、この時の大将はヴィルヘルム2世。参謀は小モルトケ。普仏戦争の時とは大違いです。

社会主義者たちは、対ロ、対仏戦争が普仏戦争の時のようにドイツの快進撃で終結するとでも思っていたのでしょうか?

ですが、現実は違いました。彼らはドイツ軍の「圧勝」を期待してヴィルヘルム2世の開戦の意思を支持したわけですが、いざ蓋を開けてみると、現実は全く違っていたわけです。

最初はヴィルヘルム2世を支持していたくせに、どうも雲行きが怪しいと感じると、彼らは手のひらを返すように議会と対立し、「場内平和」を批判し、党の指導者として「中央派」を構成し、修正主義者たちと和合しようとしていたカウツキーだけでなく、「修正主義」を訴えて自由主義者たちと連携する姿勢を示していたいたはずのベルシュタインまでもが党内の方針に対する「反対派」へと加勢するようになりました。

ですが、この段階でもまだ「反対派」は少数派で、多数派であった党の指導者たちは、この「反対派」たちに対する締め付けを強化し、「反対派」の急先鋒であった「フーゴー・ハーゼ」らは1916年3月24日、戦争のための予算の成立に反対したことを受け、社民党から除名されることになります。

ハーゼ

リープクネヒトも1916年に社会民主党を離脱したとありますので、おそらくこの時に離脱したのではないかと思われます。


スパルタクス団の結成

後に「ドイツ共産党」へと姿を変えるスパルタクス団ができるのはこの頃です。

ややこしいのですが、第一次世界大戦開戦後のドイツ社会主義者として、様々な人物の名前が登場するのですが、そのほとんどが「ドイツ社会民主党」の「党員」です。

ですが、必ずしも「議員」であるとは限りません。そんな「社会民主党党員」の一人が「ローザ・ルクセンブルク」です。

ローザ・ルクセンブルク

彼女は元々ロシアの属国であった「ポーランド立憲王国」の出身。1898年、彼女はドイツ人と「偽装結婚」することによってドイツ市民権を取得し、ドイツに移住してきます。

ここで彼女はドイツ社会民主党に入党し、前述した「急進左派」の筆頭として活動することとなります。彼女の行動を見ていると、根っからの「マルクス主義者」であることがよくわかります。

彼女は修正主義者であるベルシュタインと対立したときも、「プロレタリアートによる独裁」が必要だと訴えていますし、ベルシュタインらと歩み寄りを見せた指導者であるカウツキーとも対立します。


少し国家をまたぎます。彼女がドイツへと移住してきたのは1898年の事。その6年後、ロシアでは「ロシア第一革命」が勃発します。

レーニンらが姿を見せ始めるのもこの頃で、1907年、彼女はレーニンと初対面することになります。ちなみに、前半でお示しした「シュトゥットガルト大会」における決議の決議案を考えたのはローザ・ルクセンブルクとレーニンです。

決議案は、反戦を訴える内容であり、彼女はその後も、戦争の危機が近づいていることへの確信を深めており、等に対して「ゼネスト(ゼネラルストライキ)」を組織するよう要求するのですが、これを党指導部に拒否されます。

「ゼネスト」を全国的に組織することで、政府の方針に対していわゆる「職務放棄」を行う労働者を組織的に拡大しようと考えていたんですね。

私の個人的な意見ですが、途中、マルクスやエンゲルスらが、

『ロシア帝国の「ツァーリズム(帝国主義)」を「社会主義運動の最大の敵」』

だと定義づけたことをお話ししました。ですが、おそらくそれはビスマルクがまだ健在であった時代のことだったのではないでしょうか? 実際、マルクスが死亡したのは1883年3月14日、エンゲルスは1895年8月5日ですから、第一次世界大戦が勃発した時点で、両名は既に他界しています。

「ロシア帝国のツァーリズム」といいますが、その当時、ドイツも「帝国主義」という形態をとっていました。第一次世界大戦開戦時と異なるのは、その当時のドイツには「ビスマルク」がいたということ。

ビスマルクが健在であれば、おそらく彼は「第一次世界大戦」などという愚かな戦争を引き起こすことはなかったはずです。

ヴィルヘルム2世の「世界政策」こそまさに「帝国主義」そのものであり、マルクスやエンゲルスらが批判した「ロシア帝国主義」と全く同じ性格を持っていたのではないかと思います。

私は社会主義者ではありませんし、マルクスやエンゲルスらの考え方を肯定するわけではありませんが、少なくとも「社会主義者」の立場に立って考えるとするならば、マルクスやエンゲルスらの「定義」がまるで「思想」のようにして自由主義者と連携した社会主義者たちに「開戦」の決議を支持させたのだとすれば、それは非常に愚かなことだったのではないか、と思います。

そのくせ、ドイツにとって形成が不利になったと見るや否や、手のひらを反して反戦を訴え始める。あまりにも身勝手すぎるのではないでしょうか。

そういった意味で、ローザ・ルクセンブルクの姿勢は一貫していて、マルクス主義的な「暴力革命」を起こすことを意図さえしていなければ、決して非難されることでもないように思います。


「グルッペ・インターナツィオナーレ」の結成

英語的に表現すれば、「グループ・インターナショナル」ということでしょうか。「スパルタクス団」のことです。

ローザ・ルクセンブルクとリープクネヒトら、社会民主党左派は、第一次世界大戦開戦直後、この「グルッペ・インターナツィオナーレ」を結成します。

このグループが、どういった性格を持っているのかということは、何となく想像できるかと思います。

ローザ・ルクセンブルクはたびたび投獄されるのですが、「グルッペ・インターナツィオナーレ」は、彼女が獄中で起草した方針に従い、非合法の冊子を刊行することを決定しました。

その冊子の名前が「スパルタクス書簡」。「スパルタクス」とはグルッペ・インターナツィオナーレメンバー共有のペンネームで、「共和政ローマで奴隷たちによる反乱を率いたトラキア出身の奴隷剣闘士」の名前です。

この事から、「グルッペ・インターナツィオナーレ」は「グルッペ・インターナツィオナーレ」という名前ではなく、「スパルタクス団」という名前で知れ渡るようになりました。


「ドイツ独立社会民主党」の結成

一方、プロレタリアートによる独裁を訴えるスパルタクス団の面々とは別に、フーゴー・ハーゼら社会民主党を除名された面々は、「社会民主協働団」という、新たなる議員団を結成しました。彼らは、「急進左派」とも対立する構造にあり、中央派の中でも「平和主義的中央派」という位置づけにあったようです。

文面から読み解くに、ハーゼらは「社会民主党議員団」からは除名されたものの、「社会民主党党員」としての党籍は保有していたということでしょうか。そのうえで、同じ「社会民主党の議員」でありながら、新たに「社会民主協働団」という議員団を結成したと、そういうことだと思います。

1917年1月7日にも、今度はカウツキーらが「反対派」として除名されており、この時彼らは、新たに「ドイツ独立社会民主党」という政党を結成しています。

先に除名されたフーゴー・ハーゼのページを見てみますと、「ドイツ独立社会民主党」を結成したのは彼で、彼が党首に就任したことになっていますので、「社会民主協働団」がカウツキーらを吸収した形になるのでしょうか。

ハーゼ自身は、開戦直後に戦争に反対する声明を発表していたようで、彼が戦時予算への賛成票を投じたのは、「党議拘束に従った」と記されていますね。


まとめ


大戦中、「スパルタクス団」と「ドイツ独立社会民主党」という二つの「社会主義勢力」が誕生したわけですが、実際に革命につながる「レーテ蜂起」を起こしたのは彼らではなく、キール軍港の軍人たちでした。

ドイツの社会主義運動って、意外と「拍子抜け」する部分が多いですね。

次回記事では、第一次世界大戦の終戦~終戦後の社会主義の動向を見ていきたいと思います。




このシリーズの次の記事
>> 第467回 スパルタクス団とドイツ革命~ワイマール共和国の成立~
このシリーズの前の記事
>> 第465回 第一次世界大戦までのドイツ社会主義~社会民主党の中の火種~

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]