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第465回 第一次世界大戦までのドイツ社会主義~社会民主党の中の火種~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第462回 ドイツ革命までの経緯~キール水兵の反乱と一次大戦直前の社会主義~

第462回の記事 の続きです。

前回の記事の文末で、ビスマルクが自身の信念に違って南ドイツに「自由都市」として自治権を認めたことが原因で、これらの都市で「普通選挙制度」が確立したこと。そしてその結果、これらの自由都市には「社会主義者」が議員として当選しやすい状況が生まれていたことを話題にしました。

そして、
このことが南ドイツ自由都市において社会主義者たちと「自由主義者」たちが連携する関係を生み、ドイツ社会民主党の中に、かつてのラッサールの様な考え方をする勢力が生まれるようになっていました

と。


「修正主義」と「社会改良主義」

「ドイツ社会民主党」の前身である「社会民主労働者党」と「全ドイツ労働者協会」。この二つの派閥が合併することで「ドイツ社会民主党」が出来上がったのは既に記事にした通り。

「社会民主労働党」は元々マルクスの考え方を踏襲しており、ラッサールの考え方を踏襲した「全ドイツ労働者協会」とは対立する立場にありました。

ラッサールの後継者となったシュバイツァーは、ラッサール同様、ビスマルクのことを信頼しており、マルクス派のように共産主義を「暴力による革命」によって実現するのではなく、権力者と議論することによって正当性を訴え、「社会主義社会」を現実的に政策に反映させていくことが大切なのだと考えていました。

そしてビスマルク自身がそれを跳ね除けることはせず、むしろ積極的に耳を傾け、受け入れるタイプであったこと。ビスマルクの政策に、かつてラッサールが訴えた「社会保障政策」が取り入れられたことが、その何よりもの証です。

そして、「社会民主労働党」、つまりマルクス派はそんなラッサールらのやり方を「王党的プロイセン政府社会主義」であるとして批判したわけです。

ところが、親ビスマルク路線をとっていたシュバイツァーが、選挙での敗北を受け、代表を辞任した後、「全ドイツ労働者協会」から、徐々に「親ビスマルク」としての性格は失われ、むしろ「全ドイツ労働者協会」は、「社会民主労働党」とともにビスマルクが制定した「社会主義者鎮圧法」によって排除される対象となり、両派閥はやがて目的を一にするようになりました。

両派閥は「ドイツ社会主義者労働党」として合併し、ビスマルク失脚後、「ドイツ社会民主党」とその名称を改めた・・・というのがビスマルクが失脚するまでのドイツの「社会主義」の動向です。


さて。問題となるのは党名を改め、「社会民主党」なった後の話。

南ドイツは北ドイツに先んじて「男子普通選挙制度」を実現し、議員に数多くの「社会主義勢力」を送り込むことに成功したわけですが、その結果、送り込まれたはずの「社会主義勢力」が、「自由主義者」たちと連携するようになり、「かつてのラッサールの様な考え方」をする様になったわけです。

もう一度言いますと、「ドイツ社会民主党」は、「ラッサール派」が、マルクス的な考え方に軌道修正することによって誕生した政党です。

にもかかわらず、南ドイツで議員として政治にかかわるようになると、逆に「ラッサール」的な考え方に軌道修正されてしまいました。

このような「ラッサール的な考え方」をマルクス主義者たちは「修正主義」と呼んだわけですが、ラッサール派が鳴りを潜め、「ドイツ社会民主党」が誕生した後でこの考え方が始めて登場したのは1891年10月の事。社会主義者鎮圧法が廃止されたのが1890年9月のことですから、ちょうど改名した1年後のことになります。

この時、社会民主党の「綱領」、つまり党としての方針を決めるための党大会、「エルフルト党大会」が開催されました。

この時制定されたのが「エルフルト綱領」というものですが、この綱領は大きく分けて2つの内容から構成されていました。

1つが「原則綱領」、もう一つが「行動綱領」と呼ばれるものです。

「原則綱領」を作成したのがカール・カウツキーという人物。「行動綱領」を作成したのがエドゥアルト・ベルンシュタインという人物でした。

問題となったのは「原則綱領」ではなく「行動綱領」。ここに、
国家に対する当面の要求、すなわち普通選挙、比例代表選挙、表現・結社の自由、宗教と教育の分離、男女平等、累進課税強化、間接税廃止、八時間労働制、児童労働・夜間労働禁止、団結権保障を求める

といった内容が記されていました。

「原則綱領」はマルクス主義そのまんまで、要は「革命によって権力を崩壊させ、プロレタリアによる独裁体制を築く」といった系統の内容が掲載されていたわけですが、肝心の行動綱領には「権力との話し合いによって社会主義国家の体制づくりを行いましょう」といった内容が記されていたのです。

そして、この「行動綱領」を作成した「エドゥアルト・ベルンシュタイン」という人物は、アイゼナハ派(ドイツ社会民主労働党を結成する中心となった派閥。マルクス派)の党員で、ベーベルやリープクネヒトとともに中心となって「ドイツ社会主義労働者党」の結成に尽力した人物です。

彼は、エンゲルスに近しい人物で、所謂「マルクス主義者」であったはずなのですが、1895年にエンゲルスが死去すると、、その後、マルクス主義とは真っ向から対立する、ラッサール的な、所謂「修正主義」に繋がる内容の論文を発表するようになります。

この考え方は、実はベルンシュタイン以前にドイツ社会民主党の支持母体である、「自由労働組合」の間で既に主張・実践されていた考え方で、それそのものが既に大きな「社会勢力」となっていました。

ベルシュタインの論文ははこれを理論的に体系化したもので、当然自由労働組合はこのベルシュタインの考え方を支持しました。

ベルシュタインが論文を発表した時点ではまだドイツ社会民主党党内では社会主義革命や階級闘争を起こす必要がある、とするマルクス主義の「正統派」が多かったため、1903年に行われた党大会でこの「修正主義」は圧倒的多数で否決されます。

ですが、この頃から特に「南ドイツ」において「ドイツ社会民主党」が、地方自治体における「議会」に進出するようになり、前述したように、自由主義者たちと連携するようになった彼らは「かつてのラッサールの様な考え方」、つまり「修正主義」を主張するようになりました。

そして彼らが「自由労働組合」と連合して正統派が中心となっていた党の指導部を抑え(1906年)、修正主義=社会改良主義社たちが党の指導的な役割を担うようになりました(1912年)。この時に世代交代も行われたんですね。

ということで、元々「マルクス主義者」たちによって誕生したはずの「ドイツ社会民主党」は、「ラッサール主義」、つまり「社会改良主義」政党へと方向転換することとなりました。


「ドイツ社会民主党」の中の「火種」

さて。特に「南ドイツ」において醸造された「社会改良主義」は、1906年以降ドイツ社会民主党の「主流」となっていくわけですが、だからといってこれまで主流であった「正統派」が党内から一掃されたわけではありません。

党指導部の面々こそ社会改良主義者たちに歩み寄りを見せ、両派閥の和解を訴え(このことによって指導部を掌握した)ます。彼らは正統派の中で「中央派」と呼ばれる派閥を形成するのですが、当然そう簡単に考え方を変えることができない面々も存在します。

ローザ・ルクセンブルク、フランツ・メーリング、クララ・ツェトキンといった人物らが中心となり、彼ら、彼女らは「急進左派」を形成し、中央派と激しく対立するようになります。

ローザ・ルクセンブルク

第351回の記事 の中で、後にドイツ共産党を結成する、「スパルタクス団」のことを話題にしたと思います。

この「スパルタクス団」を結成したのが前記したドイツ社会民主党内の「急進左派」の面々です。

第161回 「共産主義」と「社会主義」の違いをわかりやすく説明します の記事の中で、私は「共産主義」と「社会主義」との違いを以下のように記しました。

1 ブルジョワによる運動が「社会主義」であり、プロレタリアートによる運動が「共産主義」である。
2 平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である。
3 「社会主義社会」とは、「資本主義」から「共産主義」へと移行する途中の「プロレタリアートによる独裁」がおこなれている社会である

と。

この時点では、私はしかしまだ正確に「共産主義」と「社会主義」の違いが理解できてはいなかったのではないかと思います。

1番、3番はまさしく「マルクス」が訴えた「共産主義」と「社会主義」であり、現在の日本の共産主義者たちもまだその違いを3番のように理解しています。

ですが、この時点ではっきりしたのではないでしょうか。二つの違いはまさしく2番。

 『平和的に「完全平等主義」を実現するのが社会主義であり、これを暴力によって実現するのが「共産主義」である』

というのが現実に即した「社会主義」と「共産主義」の違いなのではないか、と。

「完全平等主義」という考え方も、本来は共産主義者たちが目指す社会の在り方で、社会主義者たちが目指す社会の在り方ではありませんね。「社会主義者」たちが目指した社会とは、まさしくラッサールが目指したような「社会改良主義」であり、プロレタリアートによる独裁を目指す「共産主義」とは一線を画するものです。

そして、現在の日本もまた、そのような「社会改良主義」の延長線上にあり、所謂「社会主義革命」が行われた後の社会構造です。

現在の日本で、そんな「社会改良主義」の延長線上にあるはずの政権を倒し、実験を握ろうとする連中。必ずしも政党には限らないわけですが、これはあたかもブルジョワによる「社会主義革命」が起きた筈の後の社会であたかも「プロレタリアート革命」を起こし、プロレタリアートによる独裁社会を目指しているように感じませんか?

しかし、ドイツの歴史を見ていれば、そんな「プロレタリアートによる独裁社会」を目指すことが、いかに時代遅れで非現実的な社会であるかということが理解できるはずです。

さて。それではその後、ドイツ社会民主党の中に生まれた「急進左派」勢力は、第一次世界大戦の陰で一体どのような道筋を歩むことになるのでしょうか。

この記事の中で第一次世界大戦中の社会主義に話題を進めようと思ったのですが、分けて記事を作成したほうが理解を深められるのではないか、と思いますので、対戦中のドイツ社会主義は次回記事にゆだねようと思います。




このシリーズの次の記事
>> 第466回 第一次世界大戦とドイツ国内の社会主義
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