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第462回 ドイツ革命までの経緯~キール水兵の反乱と一次大戦直前の社会主義~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第456回 第一次世界大戦でドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

いくつか記事を挟みましたので、シリーズ としては久しぶりの記事になります。

前回の記事を作成していて見えてきたのは、第一次世界大戦が、ヴィルヘルム2世率いるドイツと、ニコライ2世率いるロシアの間で始められた戦争で、ドイツとロシアが共に「社会主義革命」によって自滅し、終了した戦争であったということ・・・。

前回の記事から継続して目を通していただいている方には唐突に感じられるかもしれませんが、前回の記事の文末でご紹介したこちらの記事↓

第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

に記している内容は、即ちそういうことを意味しています。

第351回の記事 は「ロシア」についてのシリーズで、特にドイツ革命に対する「コミンテルン(第三インターナショナル)」の関わり合いを解明することを目的に記事を作成しています。

で、当然私自身の中に「第一次世界大戦」に関する知識は殆んどといっていいほどありませんでしたから、そもそもドイツ革命の経緯に関して、「第一次世界大戦」が前提となっていません。

歴史の流れの中で、ポンと突然ドイツ革命が起きたかのような記載内容となっています。


ということで、今回の記事では、私自身の中に、きちんと「第一次世界大戦」がどのようなものであったのかという情報が入っていますし、それまでの「ドイツ」という国がどのような国であったのか。

また、ドイツという国における「社会主義」の発展についてもある程度私の中に落ちていますので、第351回の記事 を引用しながら、「ドイツ」を視点に第一次世界大戦と「社会主義革命」の関わりを記事にしていきます。


キール水兵の反乱はなぜ起きたのか?

これは、第351回の記事 より一つ前の記事。第350回の記事 に掲載しています内容です。

1917年3月、ロシアにおいて勃発した二月革命と、革命が成功し帝政が崩壊したことに、ドイツの労働者たちは刺激され、ドイツ各地にてストライキが勃発しました。

これが武装蜂起へと転化するきっかけとなったのは、1918年10月29日、ドイツ大洋艦隊の水兵達約1000人が、イギリス海軍への攻撃のための出撃命令を拒絶し、サボタージュを行った事が原因でした。

彼らは逮捕され、キール軍港へと送られるのですが、このキールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めてデモを行います。

これに対し、官憲が発砲したことから、デモは一気に武装蜂起へと発展。

11月4日、労働者・兵士レーテ(ソビエトやラーダの様なもの)が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧しました。
後に政府が派遣した部隊により反乱は一時鎮圧されるのですが、この武装蜂起は反乱を起こした兵士たちによって、西部ドイツが一気にレーテの支配下にはいります。

この事をきっかけとしてドイツ革命は本格化し、ヴィルヘルム2世は亡命→退位へと追い込まれていきます。

「キール軍港における水兵の反乱」は、引用部分にも掲載されています通り、サボタージュにより逮捕された水兵たちが、「キール軍港」へと送られ、「キールに駐屯していた水兵たちが、仲間の釈放を求めて」起こしたデモに官憲が発砲したことからデモは武装蜂起へと拡大するわけですが。

では、キール軍港に送られた水兵たちは一体なぜ「サボタージュ」を行ったのでしょうか?

キール水平反乱


第一次世界大戦は、ドイツにとって既に「負け戦」であることが確定していた

前回の記事 で掲載した「シュリーフェン・プラン」は完全に失敗し、ドイツは戦術の変更を余儀なくされるのですが、この時ドイツが相手にしていたのは「ロシア」と「フランス」以外にも「ベルギー」「イギリス」、そして遠方から「アメリカ」が近づいていました。

中国やインド洋では日本も対独開戦を行っていたのですが、今回は「欧州決戦」にポイントを絞ります。

ドイツ陣営(中央同盟国軍)は、ドイツ以外にもオーストリア=ハンガリー、ブルガリア、オスマントルコが含まれていましたが、ネット上の記述を見る限り、オーストリアはとても主体的にドイツを助けているようには見えません(どちらかといえばドイツがオーストリアを支援している)し、ブルガリアも、トルコもドイツ戦線まで援軍を派遣しているようには見えません。

シュリーフェン・プランで掲載しました通り、ドイツはフランスやベルギーとの戦いを繰り広げる「西部戦線」と、ロシアとの戦いを繰り広げる「東部戦線」の2面戦争を繰り広げていました。

ロシアはロシア国内で勃発したロシア革命により自滅し、最終的に「ブレストリトフスク条約」を締結してトロツキーらと講和条約を締結することに成功したのですが、問題となったのは西部戦線。

ドイツがベルギーに侵攻したことによりイギリスが参戦しましたので、西部戦線ではフランス、ベルギーだけでなく、イギリスまでも相手にすることになっていました。

そして、更にアメリカ軍が到着し、ドイツとしては、もはや劣勢を覆すことは事実上不可能な状態に陥っていました。

ドイツ・オーストリアは各々停戦に向けた協議を各国に向けて打診するのですが、これが拒否され、停戦に向けた「交渉」すら行うことができない状況に陥っていました。

軍部は軒並みこの事を把握しており、この情報が軍部だけでなく、兵士レベルにまで知れ渡ってしまいました。

このような状況の中、ラインハルト・シェア海軍大将とルーデンドルフという二人の人物率いるドイツ海軍が、「最後の賭け」としてイギリス艦隊に決戦を挑むため、ヴィルヘルムスハーフェン港の大洋艦隊主力に出撃を命じました。

ですが、この時点で兵士たちの耳には、既に敗戦が濃厚であるとの情報が入っていましたので、兵士たちは作戦そのものの有効性に疑問を抱きました。兵士たちは、「そんな戦争に行ったところで、

その結果、彼らは「サボタージュ」を決行したのです。後は前記した枠囲いの内容の通りです。

第一次世界大戦中のドイツ社会主義

キール軍港で武装蜂起が起きるまでの流れを補完できれば、そのまま第351回の記事 へと話題をつなぐことはできるのですが、ヴィルヘルム2世退位後、ドイツ国ワイマール共和政政府の中心となる社会主義陣営。

特にドイツ社会民主党党首であるフリードリヒ・エーベルトは、ドイツ国の初代大統領となるわけですが、彼が党首を務めるドイツ社会民主党をはじめとする社会主義陣営が、第一次世界大戦の戦況下、どのような役割を演じていくのか、この話題を記事にしてみます。


第一次世界大戦までのドイツ社会主義

第439回の記事 でも掲載しましたように、ラッサールの死後、彼が築いた「全ドイツ労働者協会」から、やがてラッサールの精神が失われ、1875年5月、全ドイツ労働者協会は、もう一つの社会主義政党である「ドイツ社会民主労働党」と合流し、「ドイツ社会主義者労働者党」を結成しました。

先のフランスにおける「パリ・コミューン」政府の樹立とともに、危機感を覚えたビスマルクは「社会主義者鎮圧法」を制定し、ドイツ国内における社会主義者たちの弾圧へと突き進むわけですが、ヴィルヘルム2世の誕生後、期限を迎えた同法は失効し、これを機にドイツ社会主義者労働者党は「ドイツ社会民主党」へと党名を変更しました。(1890年9月)

この後、ドイツ社会民主党は支持を拡大し、1905年に38万人、大戦を迎える直前の1913年には108万人へと勢力を拡大。

また、ドイツ社会民主党の支持母体である自由労働組合は、組合員を組合員250万人にまで広げていました。


「自由都市」の弊害

第一次世界大戦までの社会主義を、もう一つ視点を変えてみてみます。

第426回の記事 におきまして、ドイツ統一に際し、ビスマルクが行った「大きな譲歩」について記事にしています。

引用してみます。
ビスマルクは、南ドイツ4カ国と交渉し、国名を「ドイツ連邦」とはせず、「ドイツ帝国」とし、その盟主を「皇帝」とするところまで含めて妥結する流れの中で、南ドイツ4カ国に対しては大きな譲歩をしています。

先に記したように、ビスマルクがドイツを統一しようとした最大の目的は、ドイツ領内の各国が、「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定にさせないようにすることにあります。

その手段として所属国を一つのルールの下に統一し、共通のルールで「ドイツ」という国家全体を運用しようとしたわけです。

ところが、ビスマルクは南ドイツを北ドイツに統合し、「ドイツ帝国」を設立した際、北ドイツ各国とは異なり、この4つの国に対しては「自治権」を認めたのです。

これらの国々に対し、「自治権を認める」ということは、即ちビスマルクがもともと排除しようとしていた『「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定』 にさせる要因を、自国の中に有し続けるということです。

ビスマルクは、普仏戦争によってドイツ=ナショナリズムを昂揚させ、南ドイツ諸国とともに見事「ドイツ帝国」結成にまでたどり着くわけですが、誕生と同時に自国内に「南ドイツ」という大きな矛盾を抱え込むことになるんですね。

この記事を記した時点で、ビスマルクにとっての「不安定要素」は「自由主義」であったのですが、ヴィルヘルム2世の時代になって、「社会主義」という姿で「不安定要素」が顕在化することになります。

南ドイツを含まない元「北ドイツ連邦」は各地方ごとに選挙制度が厳格で、あったため、社会主義者たちがなかなか当選しづらい状況にあったのですが、自治権を持つ南ドイツ、「バイエルン」「ヴュルテンベルク」「バーデン」などでは地方にまで男子普通選挙制度が浸透していたため、社会主義者たちが当選しやすい状況が生まれていました。

ただ、少し複雑なのですが、このことが南ドイツ自由都市において社会主義者たちと「自由主義者」たちが連携する関係を生み、ドイツ社会民主党の中に、かつてのラッサールの様な考え方をする勢力が生まれるようになっていました。


少し記事が長くなりそうなので、第一次世界大戦までのドイツ社会主義と、大戦中の社会主義陣営について、改めて記事を分けて作成してます。



このシリーズの次の記事
>> 第465回 第一次世界大戦までのドイツ社会主義~社会民主党の中の火種~
このシリーズの前の記事
>> 第456回 第一次世界大戦でドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

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このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


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