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第456回 第一次世界大戦でドイツがフランスに宣戦布告を行った理由など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第455回 ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由

今回の記事は、前回の記事で触れました通り、ドイツがロシアに宣戦布告を行うと同時に宣戦布告を行った理由である、「シュリーフェン・プラン」について記事にしたいと思います。


プロイセンはなぜ普墺・普仏戦争に勝利できたのか?

ビスマルクがリーダーを務めていた当時のプロイセンが、プロイセンの「不安要素」を取り除くため、「ドイツ統一」に向けて歩みを進めることとなったのは このシリーズ を読んでいただいている方にはご存知の通り。

どちらの戦争も、プロイセンは実に鮮やかな勝利を収めました。

では、ビスマルク軍は一体なぜ両戦争にあそこまで「圧勝」することができたのか。

これは、ひとえに名参謀、「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)」の存在あってこその勝利だったのですが、では彼の一体何がビスマルク軍に圧勝をもたらしたのか。

これをたった一言で述べるとしたら、「事前準備」。これ以上の表現はないと思います。

特に、普墺戦争当時のプロイセンが相手にしたのは単に「オーストリア」だけでなく、同じ「ドイツ連邦」を構成する、数多のドイツ連邦諸国まで含まれていました。オーストリアとフランスの事前密約まであったことを考えると、これは決して有利な戦争ではなかったと思います。

傍から見れば、「なんて無茶なことを」と思われたのではないでしょうか?

ですが、それでも圧勝できた理由は、普墺、普仏ともに相手側との「兵器力」の差。そして短時間で兵力を確保するための「徴兵制度」の実施。通信網や鉄道の整備など、ビスマルク軍はその「事前準備」を綿密に行ったうえでオーストリアやフランスを挑発し、戦争を仕掛けさせたわけです。

もう一つ、ビスマルクが戦争の「引き際」をわきまえていたこともその理由としてあるわけですが、今回は「モルトケの功績」の方に着目します。

特に特徴的なのは、普墺戦争でビスマルク軍が用いた「ドライゼ銃」。(この辺りは第422回の記事 をご参照ください)

その能力に慄いたフランスは、ドライゼ銃を上回る性能を持つ「シャスポー砲」を開発したのですが、普仏戦争が勃発した時点でビスマルク軍はその性能差を埋めて余りある、「クルップC-64野砲」という大砲を完成させていた、というエピソード。

つまり、普墺戦争で圧勝しておきながら、その時の功績に甘んじることなく、普仏戦争の際にはこれを上回る「戦略」を既に計画していたということです。


「シュリーフェン・プラン」という妄想

さて。私がなぜ本題に入る前に、わざわざビスマルク時代のプロイセンの話を再び持ち出したのか。

普墺・普仏戦争においてプロイセン軍が事前の予測を大きく裏切り、オーストリア・フランスに対して圧勝した理由。それは何よりも「事前準備」を綿密に行っていたからです。

ここまで言えばお分かりですね。ビスマルクが失脚し、当時の軍略家、大モルトケもいないドイツにおいて、ドイツを率いたヴィルヘルム2世が用いた軍略=「シュリーフェン・プラン」とは、まるで普仏戦争においてプロイセンを相手にしたフランスを彷彿とさせる軍略。

「妄想」に近いものでした。

「シュリーフェン・プラン」とは、その名前の通り、ビスマルク後のドイツにおいて、一時参謀総長を務めた「シュリーフェン」という人物が考えた軍略です。

アルフレート・フォン・シュリーフェン


この軍略が練られたのは1905年の事。1890年にビスマルクが失脚し、ビスマルクが意固地なほどに徹底した「フランスの孤立政策」を撤回し、ロシアよりもオーストリアとの同盟関係を重要視したヴィルヘルム2世。

この事でビスマルクが危惧した通り、ロシアはフランスとの間で同盟関係を結ぶにいたりました。既に記事にしています通り、ロシアとフランスの位置はドイツをサンドイッチ状態にする位置。

両国が連携してドイツに挟撃を仕掛ければ、一気にドイツの立場は危うくなります。普仏戦争で買った恨みから、フランスと同盟関係を築くことはできませんので、ビスマルクはロシアと同盟関係を築き、フランスと同盟させないことを何よりも大切にしていたのです。

しかし、現実問題としてビスマルクが危惧していた状況に陥ってしまった以上、ドイツにとって最悪の事態、つまりフランスとロシアが同時に軍事行動を起こし、ドイツに迫ってくる事態に備えないわけにはいきません。

そこで、シュリーフェンがこの事態を想定して考えたのが「シュリーフェン・プラン」です。

以下、Wikiより「シュリーフェン・プラン」について引用しておきます。
ドイツ参謀総長シュリーフェンは、二正面戦争解決の手段として、フランスを全力で攻撃して対仏戦争を早期に終結させ、その後反転してロシアを全力で叩こうと考えた。

これは、ロシアの未発達な電信網や鉄道事情などから、ロシアが総動員令を発令してから攻勢に出るまでには6週間かかると予測したからである。

こうして立案された「シュリーフェン・プラン」は、東部戦線と西部戦線左翼を犠牲にして、強力な西部戦線右翼で中立国ベルギーとオランダに侵攻し、イギリス海峡に近いアミアンを通過。その後は反時計回りにフランス北部を制圧していき、独仏国境の仏軍主力を背後から包囲し殲滅するというものであった。

作戦の所要時間は1か月半とされた。

これは、かなりロシアの事を舐めた視点で計画されていますよね。ただ、この計画が立てられたのは1905年ですから、この時点では的を射た政策だったのかもしれません。

ですが、この「シュリーフェン・プラン」が実際に用いられた第一次世界大戦が起きたのは1914年7月末の事。同計画が練られてから、実に10年近くも年月が経た後のことです。

改めてこちらの地図を。

1900.jpg

仮に対露仏開戦に至った場合、シュリーフェンの計画によれば、ドイツ軍はフランスとの国境やロシアとの国境は一時的に放置して、対露仏戦争とは全く無関係なオランダ・ベルギーを武力によって制圧し、ベルギー側からフランスに侵攻。国境付近でドイツ軍に向けて進軍するフランスを背後からたたき、壊滅させた上で急いでロシアとの国境に向かい、ロシアを叩く・・・と。

シュリーフェンの計画によれば、ロシアが総動員をかけて進軍を開始してからドイツにまで到達するのに6週間かかると想定されていますので、その間にオランダ・ベルギーを侵攻した上で全力でフランス軍に当たって、4.5週間でフランス軍をせん滅し、その足でロシア国境に向かう・・・ということですね。


小モルトケによるシュリーフェン・プランの改良

で、実際にこの計画の実行にあたったのは1906年に参謀総長となった大モルトケの甥、小モルトケ。

Wikiによれば、小モルトケはこの「シュリーフェン・プラン」の相当な改修を行った、とあるのですが、内容を見てみると、

・フランスが真っ先に狙うであろうアルザス・ロレーヌ地方(普仏戦争でビスマルク軍がフランスより獲得した土地)の防衛をオーストリア軍に任せる予定だった→ドイツ軍部隊を新設し、その舞台に防衛に当たらせる。

・フランスの裏をかくためにオランダとベルギーを侵略する予定だった→オランダは侵略せず、代わりにルクセンブルク(ベルギーとフランスとドイツに囲まれた小さな領土)を侵攻する。

といった程度の内容で、どう考えても「相当な改修」には見えません。

ですが、ヴィルヘルム2世軍はこんな稚拙な計画の下、対ロシア戦を開始するのです。


ドイツがフランスに宣戦布告を行った理由

では、改めまして、なぜドイツはフランスに宣戦布告を行ったのか。

もうお分かりですね。なぜならば、シュリーフェン・プランで最初に攻めこむ計画になっていたのがロシアではなく、フランスだったから。

シュリーフェン・プランでロシアに戦争を挑む以上、ドイツ軍にとっては=「対仏開戦」を意味していたわけです。なぜならば、シュリーフェン・プランによれば、先にフランスを倒さなければ、ロシアと戦争することができないわけですから。

また、更にその進路として迷惑にも「ベルギー・ルクセンブルク」を通過することになっていましたから、当然ベルギーにも戦争を挑むこととなります。


ヴィルヘルム2世軍の「誤算」

「誤算」ねぇ・・・。

まず第一に、シュリーフェン・プランによれば、ベルギーがドイツ軍による進軍をまるで何もせず、素通りさせてくれるかの様に計画されているのですが、当然そんなことはありません。ベルギー軍だって自国に侵略してくる国があれば当然迎撃します。当然のことです。

ということで、ドイツ軍はベルギーを通過する際、当然のようにしてベルギーの反撃を受けることとなりました。

第二に、対ロ仏開戦に当たって、英国は中立の姿勢を示していたのですが、ドイツに対してたった一つだけ約束をしていました。

「ベルギーにだけは攻め込むなよ」と。

英国がなぜベルギーに攻め込まないようドイツに進言したのかを深く調べることは現時点ではしませんが、シュリーフェン・プランに基づいてドイツが進軍する以上、ドイツはベルギーに攻め込まないわけにはいきません。

ということで、イギリスに対独開戦を行うための口実を与えてしまい、ドイツは当然のごとくしてイギリスも敵に回してしまいます。

また更に、ロシアだって10年前のままの軍事態勢で居続けるわけがありません。10年もあればロシアの軍事技術も当然進歩します。

シュリーフェン・プランによれば、ロシア軍がドイツ国境にたどり着くまでに6週間かかるとされていましたが、ロシア軍は総動員発令より実に2週間半後にはドイツ国境にまでたどり着き、当然ドイツ軍はそちら側にも軍を配備しないわけにはいかなくなり、対フランス戦がスタートした時点で、既にドイツ軍の優位性は吹き飛んでしまっていました・・・というか、最初っから優位性もへったくれもない気がします。

フランスやロシアを見くびりすぎですし、ベルギーを舐めすぎでしょう。

もしこの時の指導者がビスマルクであり、参謀が大モルトケであったとしたら・・・と考える方もいらっしゃるかもしれませんが、そもそもビスマルクや大モルトケはこんな稚拙な計画で露仏両国に戦争を挑むなどというバカな真似はしませんし、そもそもオーストリアとロシアが戦争状態に陥る前に事態を打開していたのではないかと思われます。

普仏戦争においてフランスはまともな準備すらせずにドイツに宣戦布告し、逆に綿密な準備を行っていたドイツに返り討ちにされたわけですが、今回の独仏戦は真逆ですね。

しかも、「シュリーフェン・プラン」は、おそらくドイツ側から宣戦布告を行うことなど想定していなかったんじゃないでしょうか?

ドイツがロシアの宣戦布告を行うため、ドイツ側の勝手な理屈でフランスは宣戦布告をされ、ベルギーはドイツ側の勝手な理屈で攻め込まれてしまうわけです。

元々はセルビアのバックについたロシアとオーストリアとの争いですから、フランスもイギリスもベルギーも全く戦争には無関係ですから。

それもこれも、ヴィルヘルム2世の「世界政策」という、あまりに幼稚な妄想が呼び込んだ「厄災」です。ドイツ国民にとってもいい迷惑だったでしょうね。更にイギリスと同盟関係にあった日本からも宣戦布告され、せっかく極東に手に入れたはずの山東省という植民地まで失ってしまうことになりました。


イタリアの離反

イタリアは、元々オーストリアとの間で領土問題を抱えていました。

第387回 以降の記事でたびたび話題にしてきた「ウィーン三月革命」。

直前に起きたフランス二月革命は、プロレタリアートたちによるいわゆる「プロレタリアート革命」でしたが、ウィーンで起きた「三月革命」は、そんな二月革命に触発された革命ではありますが、性格はオーストリアでハプスブルグ家の支配下にあった民族がオーストリアからの独立を望んで起こした「民族主義」革命。

独立を望んだ「民族」の中に、「チェコ」「ハンガリー」に加えて「北イタリア」が含まれていたことをご記憶でしょうか?

この問題は、ビスマルクによってドイツが統一された後もくすぶり続けていました。

ですが、露土戦争の事実上の講和条約である「ベルリン条約」を経てフランスがイタリアの対岸にまで迫ってきたことを受け、「ドイツ」「オーストリア」との間で同盟関係築きました。(三国同盟)

イタリアは三国同盟の一員として大戦に参加したはずだったのですが、開戦翌年、4月には三国同盟を裏切り、連合軍へと寝返ります。

イギリスより終戦後、オーストリアとの間でくすぶり続けていた領土問題を回収することを約束されたことがその原因とされています。(ロンドン密約)


「独露」の敗北

一国一国詳細に調べることはしませんが、イタリアが離脱したとの独墺に、オスマン帝国、ブルガリア王国がが加わり、「中央同盟国」を形成。

「中央同盟国」は、シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 にて話題にしましたね?

第346回 ウクライナ・ソビエト戦争の経過とヨーロッパ諸国の干渉
第347回 ウクライナとロシア、それぞれのブレスト=リトフスク条約

1917年に勃発した二月革命~十月革命、所謂「ロシア革命」の影響でロシアは共産化し、連合軍を離脱。中央同盟国と同盟関係を築いたウクライナとの戦争を経て、中央同盟国との間で「ブレスト=リトフスク条約」を締結。

元々セルビアのバックについたロシアと、オーストリアのバックについたドイツとの間で始まったはずの第一次世界大戦ですが、ロシアは早々と(といっても3年は経過していますが)戦線から離脱してしまいます。

そしてその翌年。ドイツもまた、同じような経緯をたどって第一次世界大戦の宣戦から離脱することとなります。この事を受け、第一次世界大戦は終結することとなるのですが・・・。

では一体どのようにしてドイツは第一次世界大戦から離脱することとなったのでしょう? 実は私、既にこの内容を記事にしていたんですね。私自身が作成した記事でありながら、全く気付いていませんでした。

それが、こちらの記事→第351回 ドイツ革命の経緯(ワイマール共和国の誕生)

そう。私が今シリーズ を作成するきっかけとなった記事です。

ということで、次回記事では、シリーズロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 に引き続き、再び「ドイツ革命」に焦点を当てて記事を作成したいと思います。

記事内容としてはおそらく ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 で作成した記事を引用する形で進めていくことになるとは思いますが、もう少し「ドイツサイド」に切り込んだ視点で記事を作成できればと考えています。



このシリーズの次の記事
>> 第462回 ドイツ革命までの経緯~キール水兵の反乱と一次大戦直前の社会主義~
このシリーズの前の記事
>> 第455回 ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由

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