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第455回 ドイツが第一次世界大戦に参戦した理由など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由

前回の記事で、第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたことがある、と言いながら、一つしかその理由を掲載せずに記事を終了させていましたね。

後、「ナチェルターニェ」、日本語で「大セルビア主義」というんですが、これもリンク先を読んでいただければよくわかるんですが、リンクを読め、という表現はいささか強引だったかと。

「ナタルニーチェ」とは、セルビアがオスマン帝国に占領され、滅ぼされる以前に存在した「大セルビア」。オスマントルコから独立して復活を果たしたセルビアが、オスマントルコに滅ぼされる前の状況にセルビアを戻そうとするセルビアの政策の事を言います。

滅ぼされる前のセルビアの領土の中に、「ボスニア」が含まれており、オスマントルコから独立したセルビアは、自国同様自治権を有することとなったボスニアを自国領として再び併合したい、と考えていたわけですね。


あともう一点。私は前回の記事で、

『セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね』

と記したのですが、結果的にやはり「ナチェルターニェ」構想がその原因の一つとなっていたことが前回の記事を進めていく中でわかりました。

ナチェルターニェは1844年に製作されたのですが、露土戦争後、正式にオスマントルコから独立することができたセルビアを率いていたセルビア公は親オーストリアであったため、ナチェルターニェ構想は形骸化していたのですが、セルビアでクーデターが起こり、カラジョルジェヴィチ家が政権の座に就いた後、再び「ナチェルターニェ」に基づく政権運営が復活した、ということですね。

オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアの間に「火種」を生んだのはセルビアで起きたクーデターであり、セルビアがこれまでの「親墺」から「親露」に転向してしまった事。これまで武器の発注をオーストリアに行っていたのに、これをフランスに切り替えるなどしたため、オーストリアとセルビアとの間で所謂「貿易摩擦」が起きました。

対抗してオーストリアがセルビアの畜産品に莫大な関税をかけて事実上の禁輸措置をとるなどしたため、オーストリアとセルビアの関係は急速に悪化していくこととなります。(豚戦争)

そして、そんな中で行われたのがオーストリアにより「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」という強硬策でした。

ロシアと密約まで結んで実行したはずなのに、結果的にオーストリアはボスニアだけでなくロシアも敵に回してしまうことになります。その後勃発した「第二次バルカン戦争」において、セルビアのバックについたロシアと、ブルガリアのバックについたオーストリアはまるで「代理戦争」の様な形で戦果を交えることとなります。(実際に戦争したのはセルビアとブルガリアです)


ドイツはなぜ第一次世界大戦に参戦したのか?

前回の記事で、『「いくつか」整理できたことがある』とした内容のうちの一つとして、第一次世界大戦の発端となった「サラエボ事件」が、セルビアが一方的に事件を仕掛けてきた事件であり、オーストリアが切れて引き起こしたのが「第一次世界大戦」だというような、非常にあいまいな認識でいました。

ですが、「バルカン問題」の事を考えると、サラエボ事件が起きる以前から、セルビアとオーストリアの間では既にいつ戦争状態に陥ってもおかしくはない「火種」があったんだということを知ることができました。

また更に、第一次世界大戦ではオーストリアがセルビアに宣戦布告をおっこなった後、ニコライ二世がロシア軍総動員令を発令し、これに対抗する形でドイツが同じく総動員令を発令。更にドイツがベルギーにまで攻め込んだことを受け、イギリスがドイツに対して宣戦布告を行う・・・といった形で大戦は泥沼化していくことになります。


この流れは非常に概略的な説明になるのですが、例えば前回の記事でも疑問を呈しました通り、この時点でヴィルヘルム2世とニコライ2世は友好的な関係にあり、この2名がなぜお互いに宣戦布告を行うような状況になったのか。疑問が残りますね。

また、セルビアにオーストリアが宣戦布告を行ったことは理解できるとしても、ではなぜヴィルヘルム2世はそう簡単にオーストリアに対する支持を表明したのか。ここも素直にうなずくことはできない部分です。

現時点で一ついえることは、この時点でドイツの指導者は既にビスマルクではない、ということ。皇帝であるヴィルヘルム2世自身なんですね。また更に、普墺・普仏戦争の際、軍参謀総長として辣腕を振るった「ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ」もまたもういないということ。

参謀総長の座にあったのは、モルトケ(大モルトケ)の甥である「ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ」、通称小モルトケであったということ。この2点があげられるかと思います。

そう。『第一次世界大戦を「ドイツ」と「ロシア」の二つの視点から見てきたことで、「いくつか」整理できたこと』のうち2つ目は、第一次世界大戦の時のドイツ指導者であったヴィルヘルム2世は「世界政策」の名の下に、行き当たりばったりで行動する、彼のビスマルクとは比較にならないほどの無能者であったということです。

ただ、本当に「無能だった」といえるのかというと、それは先代の指導者であったビスマルクが有能すぎただけで、他国の指導者たちと比較すると、これがどうだったのかということには疑問が残るところですね。


ヴィルヘルム2世とニコライ2世

ヴィルヘルム2世とニコライ2世

この両者。実はいとこ同士。これは私としても意外でした。

ただ、いとこと言っても、直接の血のつながりはないそうで、血のつながりがあるのはヴィルヘルム2世とニコライ2世の妻。とはいえ、両者が仲がよかった理由の一つとはいえるかな、と思います。

また、サラエボ事件が起きたときの両者の「皇帝」としての立ち位置を考えますと、ヴィルヘルム2世の場合、第453回の記事 でお伝えしました通り、デイリー・テレグラフ事件を受け、イギリスや日本を敵に回し、更に議会では選挙を経てドイツ社会主義労働者党が姿を変えたドイツ社会民主党が議会第一政党へと躍進。

更にツァーベルン事件を経て社会民主党の支持者を中心として帝国全土からバッシングを受け、議会とは大きな亀裂が発生している状態。これが1913年末の段階です。

一方のニコライ2世は日露戦争勃発後に首都サンクトペテルブルクで丸腰の民衆に発砲し多数の死傷者を発生させる「血の日曜日事件」を起こし、「ロシア第一革命」が勃発。

更に日露戦争には敗北し、民衆に対する威信は著しく低下。国内には各地に「ソビエト」と呼ばれる社会主義者たちの「評議会」が結成される状況にありました。

実際、ロシアでは第一次世界大戦開戦より約3年後に当たる1917年2月23日、後の「10月革命」へとつながる「二月革命」が勃発しており、ロシア国内には「反乱分子」といえる社会主義勢力が虎視眈々と改革の機運を狙っている状況にあったのだと思います。

つまり、「ロシア」も「ドイツ」も、実は国内情勢としては非常に似通った状況にあったということ。ひょっとすると、「戦争」を起こし、これに勝利することで、国内に対する皇帝の「威信」を取り戻したいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。


オーストリアの事前工作

オーストリアによる「セルビアへの宣戦布告」が行われた時、ロシアは即セルビアへの支持を表明し、「ロシア軍総動員令」を発令しました。

これに対し、ドイツもまた同様に「総動員令」を発令したわけですが、実はドイツはそう条件反射的に総動員令を発令したわけではありません。

ロシアが総動員令を発令した時、ヴィルヘルム2世はまず、ニコライ2世に対して「総動員令の取り下げ」を行うよう要請しています。ロシアが総動員令を発令したのが1914年7月30日の事。ドイツが取り下げの要請を行ったのは同日の事であり、ドイツは翌31日まで回答を待っています。

ですが、ロシアがこれを断ってきたためにドイツはロシアに対して動員を停止することと、セルビアを支援しない確約を条件とする最後通牒を発し、翌8月1日、ロシアがこれを断ってきたためドイツはロシアに対し「宣戦布告」を行っています。

では、ドイツは一体なぜこれほど即座にオーストリアを支持するため、ロシアへの「要請」を行ったのでしょうか?


オーストリアは、サラエボ事件を口実にセルビア人をサラエボから駆逐しようとしていた

今更感満載ですが。

私、どちらかというとオーストリアが切れるのも最もだよな、というような考え方をしていたわけですが、しかし実際はオーストリアもセルビアに対して「反セルビア感情」を抱いていたわけで、自国の皇太子夫妻が暗殺されたことは、オーストリアにとってこれ以上ない対セルビア開戦を行うための「口実」だったんだな、という印象を今は持っています。

ですから、オーストリアは、セルビアに対して宣戦布告を行う前に、サラエボにおいて「反セルビア暴動」を煽動しています。

Wikiから引用しますと、以下の通りです。
サラエボではボスニア系セルビア人2人がボスニア系クロアチア人とボシュニャク人により殺害され、またセルビア人が所有する多くの建物が損害を受けた。

セルビア人に対する暴力はサラエボ以外でも組織され、オーストリア=ハンガリー領ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアなどで起こった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナのオーストリア=ハンガリー当局は目立ったセルビア人約5,500人を逮捕、送還したが、うち700から2,200人が監獄で死亡した。ほかにはセルビア人460人が死刑に処された。主にボシュニャク人で構成された「Schutzkorps」も設立され、セルビア人を迫害した

つまり、オーストリア当局は反セルビア暴動をあおっておいて、これに反発して暴動を起こしたセルビア人たちを逮捕、投獄、処刑し、セルビア人に対する迫害まで行っていた、ということですね。

オーストリアがもし皇太子夫妻殺害に対する報復として宣戦布告を行うのなら、このようなことを行わず、即座に宣戦布告を行うのではないか、と私は思うのです。

オーストリアは、それよりもバルカン半島におけるセルビアの脅威を取り除くことを意図しており、もし仮に自国がセルビアに宣戦布告を行ったとすれば、当然にしてセットでついてくる「ロシア」の脅威を事前に取り除いておく必要がある、と考えました。

仮にロシアが参戦したとしても、これに対抗するだけの軍力が必要だと考えたわけですね。

ですので、サラエボで暴動が起きている間に、オーストリアは事前にドイツと交渉を行い、「ロシアが介入した場合はドイツがオーストリアを援助する」約束を取り付けていました。

ドイツ、ヴィルヘルム2世がロシアに対し、即座に「ロシアへの要請」を行った理由はここにあります。


ドイツはなぜオーストリアを支持したのか

となると、疑問はここにたどり着きます。

事前交渉でドイツはオーストリアを支持することを表明していたわけですが、オーストリアを支持してセルビアと対立するということは、これはイコールロシアとの対立を意味することは分かっていたはずです。

ヴィルヘルム2世がニコライ2世に行ったような交渉をしたところで、引き下がるようなロシアではないことも。

また更にドイツはロシアに宣戦布告すると同時にフランスに対しても宣戦布告を行っています。これは、、「シュリーフェン・プラン」と呼ばれる、露仏攻略ための古い「戦略」を実行するため。ドイツの計画では「ロシア」に宣戦布告をするということは、同時に対フランス開戦も意味していました。

このあたりは次回記事でまとめたいと思います。

この後更にイギリスまでもがドイツに宣戦布告を行っており、どう考えてもドイツにとっては不利でしかありません。

これをドイツ、ヴィルヘルム2世はオーストリアを支持した段階で予見できたはずです。

結局、これをもたらしたのも、ヴィルヘルム2世がビスマルクの「フランス孤立化政策」から「世界政策」へと大きく舵を切りなおしたことが原因です。

この事は、かえってドイツの孤立化をもたらし、オーストリアから対セルビア開戦に向けた相談が行われた段階で、既にドイツにはオーストリアしか同盟国が存在しませんでした。

実際には「三国同盟」が結ばれていて、ドイツはイタリアとも同盟関係にあったのですが、イタリアは第一次世界大戦中に英仏露の「三国協商」側に寝返って対独参戦しています。

この状態で、もしオーストリアがセルビアに敗れるようなことがあれば、西をフランス、東をロシアに抑えられたドイツの南側に、バックにロシアがついた「セルビア」という脅威が迫ることとなります。

加えて戦争状態に突入することで、ビスマルクがそうしたように、ドイツ国内の「ナショナリズム」を煽動して、自身に反発する社会主義者たちをも巻き込むことを想定したのかもしれません。普仏戦争の時はあのマルクスでさえ「ナショナリズム」に昂揚したわけですから。

どちらにせよ、ヴィルヘルム2世の中に、「焦り」があったことは事実だと思います。


さて。次回記事では、ドイツがどのようにして第一次世界大戦に臨んでいくのか、本日少しだけ話題にした「シュリーフェン・プラン」を中心に記事を進めてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第456回 第一次世界大戦でドイツがフランスに宣戦布告を行った理由
このシリーズの前の記事
>> 第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由

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