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第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第453回 諸悪の根源? ヴィルヘルム2世がもたらす災厄

前回 までの記事を通じまして、特に「ロシア」と「ドイツ」 の2方面から、第一次世界大戦というものを見ることができたかな、と思います。

とはいえ、当シリーズ における「第一次世界大戦」については、これから記事にする予定なので、少し矛盾する言い回しにはなりますが。

二つの視点から見てきたことで、私の中でいくつか整理できてきたことがあります。


第一次世界大戦とバルカン問題

一つは、「第一次世界大戦の勃発」が、結局「バルカン問題」の延長線上にあったんだな、ということ。

勃発した単調直入な理由は>前回の記事 でも掲載しました通り、ボスニア出身のボスニア系セルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が原因で、1914年6月28日の事。

第303回の記事 におきまして、その背景として、まず暗殺犯であるガヴリロ・プリンツィプに武器を支給したのがセルビア政府であること。

そしてこれを理由にオーストリアがセルビアに宣戦布告を行ったことを記事にしました。

また更に、その遠因として、オスマントルコの支配下にあったセルビアが、最終的に「セルビア王国」として独立した様子を記事にしました。引用します。

セルビアは1459年6月、1463年5月にはボスニアがそれぞれオスマントルコ帝国に攻略され、滅亡してしまいます。

しかし、1817年、セルビアはオスマントルコ領セルビア公国として復活。
また更に1877年4月に勃発した露土戦争を経て、1882年、「セルビア王国」として独立を果たします。

ただ、問題となるのはオスマントルコ領であった時代のセルビアで計画されていた「ナチェルターニェ」なる覚書。
ここには、オスマントルコが崩壊したと仮定して、トルコ崩壊後、ボスニアを含む中世のセルビア王国の領域に基づいた「セルビア王国」を建設する、との方針がしるされていました。

そして、この「ナチェルターニェ」に記されていた方針が、後のセルビア王国の政府方針となっていきます。

さて。一方のボスニア(ボスニア・ヘルツェゴビナ)ですが、こちらも露土戦争の結果締結された「サン・ステファノ条約」に於いて、ボスニアの自治権が認められることとなります。(1878年)

ですが、同年、オーストリア・ハンガリー帝国の要請を受けたドイツ宰相ビスマルクによって主宰された「ベルリン会議」に於いて、このボスニアヘルツェゴビナをオーストリア・ハンガリー帝国が軍事占領することが認められてしまいます。

ですが、セルビアは「ナチェルターニェ」にて、中世セルビア王国が存在した地域を「セルビア王国」として復活させることを政府方針としているわけで、オーストリア・ハンガリー帝国に対し、セルビア人が多く居住することを理由に、ボスニアヘルツェゴビナ領有の正当性を主張します。

しかし、1908年10月6日、ついにボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国に統合されることとなります。

つまり、セルビア人の感情として、この時点でオーストリア・ハンガリー帝国に対する敵愾心が生れているわけですね。

この引用部分に関しましては、ドイツシリーズにおいて私が掲載しました、

第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

 及び、

第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

両記事を読んでいただいた方には、すっとご理解いただける内容かと思います。

両方の記事を繋げますと、バルカン半島で、1459年6月、「イスラム教国であるオスマントルコ」に支配されていた「キリスト教国であるスラブ人国家セルビア」は、1817年、にオスマントルコ領セルビア公国として復活し、1882年、「セルビア王国」として独立したということ。

ただ、「セルビア」についての説明は、第303回の記事 では少し誤りがあります。

セルビアが、元々セルビア王国領であったボスニアを、オーストリアが併合してしまったために、オーストリアに対する敵愾心を抱くようになったかのように記していると思うのですが、447回の記事 でも訂正していますように、ベルリン条約でオーストリアによるボスニアの自治権が認められた後、セルビアはオーストリアに歩み寄っていて、オーストリアの承認を受けてセルビア公国からセルビア王国へとランクアップしていたりしますので、この記述は正確ではないと、現時点では考えています。

つまり、セルビアとオーストリアが対立するようになった理由は、元々セルビアが抱いていた「ナチェルターニェ」構想以外にある、ということですね。


オーストリアとセルビアの対立の理由

オーストリア・ハンガリー帝国

セルビア王国

ということで、オーストリアとセルビアが対立した理由を探ってみたのですが、一番大きいのは、1903年6月11日にセルビアで起きたクーデターにあるようです。

このクーデターで、ベルリン条約後、オーストリアから承認されて王国へと昇格させたセルビアの王家、オブレノヴィッチ家、最後の国王であるアレクサンダル・オブレノヴィッチ5世が陸軍士官らによって暗殺されてしまいます。

セルビアそのものの情報をそこまで深めるつもりはないのですが、さわりだけお伝えしておきますと、この事でセルビアは専制君主制から立憲君主制に移行。新国王は親露政策をとり、更にオーストリアとの間の同盟関係を解消し、英仏、ブルガリアと経済同盟を形成したのだそうです。


「豚戦争」の勃発


この事でセルビアとオーストリアでは、その関係が急速に悪化することとなります。いきさつを、Wikiからそのままコピペしてみます。

1906年、セルビアが兵器の購入先を二重帝国のベーメンの兵器工場からフランスに切り替えると、二重帝国は対抗措置としてセルビアの主要輸出品である畜産品(豚またはその製品)など農産物への禁止関税を施行した。

これに対しセルビアは二重帝国からの輸入を拒否する報復措置をとり、「豚戦争」が始まった。

豚戦争は1910年まで続いたが、その間セルビアは、二重帝国以外のヨーロッパ諸国に市場を求めてオスマン帝国のサロニカ(現在のギリシア・テッサロニキ)の港経由で交易を行い、オスマン帝国のほかエジプト・ロシアに家畜の輸出先を拡げ、さらに皮肉なことに、オーストリア=ハンガリーの有力な同盟国であるドイツに市場を確保することによって二重帝国からの経済的自立を達成した。

つまり、このセルビアによる大きな政策転換が、セルビア・オーストリアの対立を生むきっかけとなり、将来起こる「第一次世界大戦」の遠因となっていたんですね。

余談ですが、セルビア王家の特徴は、オブレノヴィッチ家も、クーデター後に君主となったカラジョルジェヴィッチ家も、ともにセルビア本国の出身者でした。支配民族と被支配民族が同じ、という日本と同じ構造の国だったんですね。


オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合

オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するのは1908年10月6日の事。

この時、カラジョルジェヴィチ家への王位移行を経て、オーストリアとの関係が急速に悪化していたセルビアでは、再び「大セルビア主義」、つまり、「ナチェルターニェ」に基づいた国家戦略が復活していたんですね。

この時点で、セルビアは再び「ボスニア・ヘルツェゴビナ」への進出を志すようになっていましたから、このタイミングでのオーストリアの「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」、オーストリア・セルビア関係に対して、まさに火に油を注ぐような行為であったことは想像に難くありません。

また、この時オーストリアの外相に任じられていた「アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール」は、セルビアがどうという前に、ロシアとの協調関係を維持しながらもバルカン半島に対する影響力を拡大するための外交を推し進めており、その「総仕上げ」でもあったのがボスニア・ヘルツェゴビナの自国への併合でした。

同年(1908年)7月にオスマントルコでは「青年トルコ革命」が勃発し、にわかにバルカン半島情勢が混乱し始めることになります。

これは、エーレンタールにとっても一つの「チャンス」でもありました。逆に革命の影響がバルカン半島を刺激するようになれば、自国が占領しているボスニア・ヘルツェゴビナもまた、不安定化する恐れがありましたから、エーレンタールはすぐさま決断し、ロシア外相とも協議し、両地域の併合をロシアが黙認する「密約」を取り付けます。

これを受け、10月5日、一気の両地域の併合宣言を行いましたが、案の定セルビア(とモンテネグロ)が猛反発し、オーストリアとの間で一生即発の事態を迎えます。更に開戦に乗り気だったのはむしろオーストリアの方で、オーストリアはセルビアとモンテネグロを分割することで、バルカン半島に対する懸念材料を一気に払拭する気満々でした。

ところが、ロシア国民の間でセルビアに対する同情論が高まり、また英仏の反対で密約を結んだロシア側の「権益」がご破算になったこともあり、ロシア政府は国民の圧力に押されてオーストリアに強硬な態度をとることとなり、今度はロシアとの間にまで開戦の危機が生まれてしまいます。

これを受け、オーストリア皇帝は対セルビア開戦を断念。ロシアにはドイツが圧力をかけ、開戦の危機は回避されることとなりました。


この段階で、出来上がってしまっていますね。「オーストリア対セルビア」の対立の構図が。そしてセルビアのバックにはロシアが付き、オーストリアのバックには「ヴィルヘルム2世率いる」ドイツが付くという構図まで。

そもそもの原因を作ったのは、クーデター後に誕生したセルビアの新国王ペータル1世政権。同政権の政策転換さえなければ、ひょっとすると墺露にセルビアを加えた状態でボスニア・ヘルツェゴビナ併合の話も出来ていたのかもしれません。

第一次世界大戦の当事者であるヴィルヘルム2世とニコライ2世は元々中がよかったはずなので、これがなければ両国が戦争状態に陥ることもなかったのかもしれません。

この後、1912年5月には独立を目指して反乱を起こしたアルバニア人を支援する「バルカン同盟」とトルコとの間で「第一次バルカン戦争」が勃発。

バルカン同盟(セルビア・モンテネグロ・ブルガリア・ギリシャ)の結成はロシアが支援したものです。(参考記事:第307回

バルカン戦争では結局バルカン同盟側が勝利するわけですが、今度はバルカン同盟の同盟国間で争いが勃発(第二次バルカン戦争)。

詳細はリンク記事を参考にしていただきたいのですが、構造は「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」V.S.「ブルガリア」。

ロシアは元々「汎スラブ主義」で盛り上がる国民の声に押されてスラブ人国家を支援していた国ですから、当然「セルビア・モンテネグロ・ギリシャ」を支援。一方でセルビアと対立構造にあるオーストリアはブルガリアを支援します。

ブルガリアに対してはルーマニア、オスマントルコも宣戦布告を行いましたから、ブルガリアを支援したのは唯一オーストリアのみであったことがわかります。

セルビアのオーストリアに対する怨念は、第一次・第二次バルカン戦争でも深められることになりました。詳細は308回記事 をご参照ください。

そんな中で勃発したのが、セルビア政府から武器を渡された 『ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプ』が「サラエボ」でオーストリア皇太子を暗殺した「サラエボ事件」。

次回記事では、本題である「第一次世界対戦」そのものへと記事を進めてみたいと思います。

このシリーズの次の記事
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