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第453回 諸悪の根源? ヴィルヘルム2世がもたらす災厄など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第452回 ヴィルヘルム2世の政策~場当たり的な政策が醸し出す未来~

しかし、ヴィルヘルム2世・・・いけてないですね、やっぱり。

前回の記事 で彼の政策を一部記事にしてみたんですが、どうにも気が乗りません。感情移入できないんです。

タイトルにもしたように、一つ一つの政策が場当たり的ですし、先見性のかけらも見受けられません。そして、彼の周りにも彼の政策をきちんとサポートできているような人物が見当たらないんですね。

それを象徴しているのは、彼の政策の象徴ともいえる「世界政策」でしょうか。

例えば、私が高校時代、教科書で習った言葉に「3B政策」という言葉があります。ですが、この言葉を覚える意味が一体どこにあるのか、私には理解できません。

1898年、彼がオスマン帝国を訪問した際、彼はオスマン帝国に対し、「ドイツは全世界3億のイスラム教徒の友である」という演説を行っています。

ですが、これまでの歴史を踏まえ、普通に考えればわかると思うんです。ドイツがオスマン帝国に対して、友好の言葉を述べるということは、即ちドイツとオスマントルコとの間にあるエリア。「バルカン問題」を頭に入れていれば、このバルカン問題において、「ドイツはスラブ民族ではなく、オスマン帝国を支持しますよ」といっているようなもの。ロシアに喧嘩を売っているようなものです。

また更に、スラブ民族のほとんどはキリスト教徒なんですから、当然イギリスやフランスも敵に回すようなものです。

この後、彼はドイツ(プロイセン)の首都、ベルリン、

ベルリン

トルコとバルカン半島の接点であるヴィザンティウム(現在のイスタンブール)、

ビザンティウム

現在のイラクの首都バグダッド。
バグダッド

この3つの地点を鉄道で結ぶ、「バグダッド鉄道」の建設が政策として計画されました。これが、のちに「3B政策」と呼ばれるようになります。これが英仏露の大反発にあい、第一次世界大戦に敗退したことで、頓挫することになります。

まあ、要は3つの大国との間に反発を生んだだけで、ドイツには全く利益をもたらさなかった政策です。これらの国々との対立を極力起こさないように政策を進めたビスマルクの政策とは全く対立する政策ですね。


デイリー・テレグラフ事件

前回の記事で話題にした「黄禍論」もそうですが、ヴィルヘルム2世は、日本に対しても挑発し、反発をあおるような発言をたびたび行っていたようです。

彼が行った政策の一つに、「艦隊法」という法律の制定があります。

この法律は、ドイツ軍に新しく海軍を設立するもので、1898年、「自衛のため」の艦隊建設を目的とした法律が、更に1900年に成立した「第二次艦隊法」は「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を意図したものであったのだとか。

これに対し、ヴィルヘルム2世は言い訳として、

「ドイツの戦艦建造はイギリスを敵国とするものではなく、極東の国々に対するものである」

との発言を行っています。Wikiの開設によれば、「特に日本を挑発するような発言」として掲載されています。

この言葉は、「デイリー・テレグラフ事件」といって、ヴィルヘルム2世と対談したイギリス陸軍大佐、ワートリーという人物が、その対談の内容を、「恣意的に要約」して「デイリー・テレグラフ」という新聞社に送り付けたものが発端となってはいるのですが、掲載されたのは1908年10月28日の事。

ですので、「イギリスに対抗できる艦隊の設立」を目的としたとされる「第二次艦隊法」成立後の話です。日本にとってみれば、三国干渉に引き続き、ということになるでしょうか。

ビスマルクとの面会により、日本人では「ビスマルクのいる」ドイツが大好きな人が増えていたのですが、ヴィルヘルム2世の数々の挑発的な言動を受け、日本では「反独」感情が供促に高まることになります。

「デイリー・テレグラフ紙」ではこれ以外にも、イギリス人を挑発するような発言や、イギリス人たちを見下しているともとられかねないような発言も掲載されており、これはイギリス人だけでなく、ドイツ人からも怒りを買うことになります。

ビスマルクの時代には、皇帝はどちらかというとお飾り的な存在であり、その主導権は完全に首相である「ビスマルク」が握っていました。

ヴィルヘルム2世はこれを快く思っていなかったんですね。ですからビスマルクを事実上罷免してまで自分自身が主導して政治を運用しようとし、宰相はみな、ヴィルヘルム2世の考えを実現するにはどのようにすればよいか、としか考えられない連中がその座に収まる結果となってしまったのです。

「デイリー・テレグラフ事件」を受け、カプリヴィ、ホーエンローエの後を次いで首相となったビューローは首相の座を辞職(1909年7月14日)。議会からも皇帝のあまりにも軽率すぎる振る舞いを批判する声が非常に大きくなりました。

ビューローが辞職する直接の原因となったのは艦隊法による軍艦建設により財政赤字が深刻化したことが原因なのですが、デイリー・テレグラフ事件の結果、皇帝の権力よりも議会の権力の方が強くなり、ヴィルヘルム2世の権力は事実上、大幅に縮小されることとなりました。

後継者として「テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク」が宰相となるのですが、彼が宰相となって初の帝国議会選挙(1912年1月)によって、ついに「ドイツ社会民主党」が議会第一政党へと躍進することとなりました。

「ドイツ社会民主党」。そう。第439回 までの記事でテーマとしたドイツの社会主義政党。「ドイツ社会民主労働党」と「全ドイツ労働者協会」が合併して出来上がった、「ドイツ社会主義労働者党」を前身とする政党です。

ドイツ社会主義労働者党は、ビスマルクが失脚し、「社会主義者鎮圧法」が失効した事を受け、「ドイツ社会民主党」と党名を変更しました。

すごいですね。ヴィルヘルム2世のあまりにも稚拙すぎる政策のおかげで、ビスマルクが恐れていた「未来」が、国外だけでなく帝国内でも見事に現実のものとなっていくのです。


孤立化するドイツ

海外では1902年に日本とイギリスとの間で日英同盟が。1904年日露戦争を経て1907年日露の間で日露協約が、フランスとの間で日仏協約、イギリスとロシアとの間で「英露協約」、1908年には日米間で「日米協商」と、次々に友好関係が築かれていきます。

逆にドイツと友好関係にあるのは清とオスマントルコのみ。ドイツは孤立化を強いられることとなっていました。

ビスマルク体制とは、真逆ですね。多分、ビスマルクであればこの時点で日本とは友好関係を築いていたでしょうし、日本と協力してロシアの満州進出を阻止しながら、ひょっとすると目的を同じくするイギリスとも同盟関係を築いていたかもしれません。

一方でロシアと敵対関係を作るつもりもないでしょうから、「独露再保障条約」の更新を行って友好関係を築き、同時にオーストリアとの同盟関係を継続しながら、バルカン問題にも取り組んでいくような形になっていたのかもしれません。希望的観測すぎるでしょうか。

とはいえ、ビスマルクは1898年7月30日、老衰に近い形で息を引き取っていますから、遅かれ早かれ同じような状況は生まれていたのかもしれません。「ヴィルヘルム2世」という人物が皇帝になるという事実だけは避けることができなかったでしょうから。


ツァーベルン事件

ドイツ社会民主党が議会第一党として躍進したその翌年(1913年)末、「ツァーベルン」という町で、地元住民とプロイセン軍との間に、一触即発の事態が勃発します。

この町は、普仏戦争によってドイツがフランスより獲得した「アルザス地方」にある町。

ややこしいんですが、アルザス人はもともと「ドイツ民族」。ドイツ語の一種である「アルザス語」を話す民族で、ドイツの前進の一つである「神聖ローマ帝国」の一部でした。

その後、フランスの領土となっていたのですが、普仏戦争によって再びドイツに統合された地域です。

ここに住んでいた「エルザス人(アルゼス人)」は、フランスに支配されている間にドイツ人との間に価値観の「ズレ」が生じており、ドイツ人の中にも、このエルザス人に対する「差別意識」のようなものがあったのだそうです。

そして、この地域に配属されたプロセイン将校がツァーベルンの住民に対して行った「侮辱的発言」が原因で、エルザス人の中から抗議の声が上がります。同発言が新聞報道されたんですね。

報道後、兵舎の周りに集まった群衆が逮捕される、侮辱した張本人であるフォルストナーが、今度は自分自身が侮辱されたことに逆切れして市民を怪我をさせ、拘留される、などの小競り合いが発生。

ツァーベルン議会からは皇帝や宰相に対して、市民が逮捕されたことを講義する電報が送られるなどし、社会民主党の支持者を中心に兵士に対する抗議活動が、帝国全土へと広がります。

その後、フォルストナーによる侮辱行為が音声記録として登場したことにより、フォルストナーは侮辱罪で告訴され、事態は終息へと向かいます。


この事を受け、宰相であるベートマンに対して不信任案が提出され、保守党以外全ての政党によって決議されるのですが、憲法によって宰相の任免権が皇帝にあることが決められており、ヴィルヘルム2世はベートマンの続投を表明。事件に関係した軍人たちが処罰されることもありませんでした。

結果として、ヴィルヘルム2世と議会との間には大きな亀裂が生じることになるんですね。


さて。いよいよ「第一次世界大戦」へと時計の針が近づいてまいりました。

第一次世界大戦の直接の原因となったセルビア人学生によるオーストリア皇太子暗殺事件が勃発するのは1914年6月28日。

第303回の記事 におきまして、「ロシア側の視点」から「第一次世界大戦」勃発を記事にしました。

次回記事では、「バルカン問題」も絡めながら、今度は「ドイツ側の視点」から第一次世界大戦について記事にすることができればと思っています。

いよいよ、シリーズ、 ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 とリンクしてきましたね。

少しだけ、楽しみになってきました。



このシリーズの次の記事
>> 第454回 改めて復習する第一次世界大戦が勃発した理由
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