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第450回 ヴィルヘルム2世の「世界政策」に巻き込まれた清国と日本など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第449回 新皇帝ヴィルヘルム2世の誕生とビスマルクの失脚

もしもヴィルヘルム2世が誕生しなかったら。

仮に誕生したとしても、ヴィルヘルム1世がそうであったようにビスマルクのことをきちんと信頼し、彼のアドバイスにきちんと耳を傾けていれば・・・。

ひょっとしたら日本は欧州大国との争いの中に巻き込まれることはなかったのではないか・・・と、実は現在そのように感じさせられています。

少し話題がそれるのですが、今から「日本が第二次世界大戦に巻き込まれていく過程」を少し復習してみたいと思います。

復習するのはもちろんシリーズ→「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」です。


日本はどうして第二次世界大戦に巻き込まれたのか

親シリーズのテーマは、本来このタイトルにすべきだったんですよね。現在のシリーズ、「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? も「十五年戦争(日中戦争)の原因と結果」の同じ親シリーズである、「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」 の一部です。

過去に既に述べていますが、親シリーズの「なぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか」という文字列は、いかにこのシリーズを作成し始めた当時の私がものを知らなかったのか。日本の近代史を知らなかったのか。これを痛感させられる文字列です。

「大東亜戦争」という言葉に準拠するのならばまだしも、「第二次世界大戦」を起こしたのはそもそも日本ではありません。

ですが、第二次世界大戦と太平洋戦争を同一視している人は決して少なくはないと思います。

太平洋戦争は日本の真珠湾攻撃(正確にはマレー半島への上陸)から始まり、日本は米英蘭中に対しても宣戦布告を行っていますから、「日本が太平洋戦争を起こした」という表現は間違いではありません。ですが、だからといって日本が第二次世界大戦を起こしたわけではありません。(宣戦布告の時期が前後することはここでは無視させてください)

これを「大東亜戦争」にまで広げると、日本は大東亜戦争の開始時期が「日中戦争(支那事変)」だとしていますから、また話が変わってきます。


「第29軍」の起こした「北支事変」


支那事変そのものは、元々盧溝橋事件に始まる「北支事変」から始まるわけですが、実際に「北支事変」では、通州事件 などの、日本人のアイデンティティを抱懐させてもおかしくないほどに悲惨な事件は起こりましたが、これはあくまでも華北の現地軍との小競り合いの延長のようなもの。

日本軍も、華北の「中華民国政務委員会」も事をそこまで大きくするつもりはありませんでした。

北支事変の真犯人は、蒋介石軍の一部体である「第29軍」。中に共産思想を持つ人間を大量に包括している非常に危険な部隊です。

第29軍とは、元々「馮玉祥」という人物が率いていた部隊。

馮玉祥という人物に関しては、第148回の記事 から引用する形でご紹介しておきます。
馮玉祥とは、第二次奉直戦争において北京政変 を起こし、北洋政府の混乱に一つの区切りをつけた人物。

北京政変の後、自ら北京で張作霖に対するクーデターを仕掛けながら、さっさと敗亡して戦場を逃亡し、ソ連に渡った人物。
その後、「ソ連の支援する、中国共産党と連携した中国国民党」への参入をソ連において宣言。

済南事件 において、事件を中心となって引き起こした二部隊の内の一つが、馮の部下である「方振武」が率いる部隊でした。

そして、上海クーデター 以降蒋介石に「全面的に協力」していたはずの馮玉祥は、蒋介石による北伐が完了すると、突然蒋介石に対して反旗を翻します。

勿論その「経緯」はきちんとありまして、北伐の完了後、自分の中に組み入れていた北洋政府時代の「軍閥」の影響力を縮小するために、「軍縮」を行おうとしたことにその理由はあります。

はっきりといえば、「北伐」によって確かに中国全土の「統一」は形式上なされたように見えたかもしれませんが、決して一枚岩ではなく、それどころかお互いに腹を探り合い、離反しあう性質は全く解消されていなかったということだと思います。

そして、「第29軍」とはそんな性質を代表するような「馮玉祥」が元々率いていた部隊。
そして、その中には少なくともあの済南事件を引き起こした部隊が含まれていたはずです。

つまり、北支事変とは、そもそも「ソ連共産党の息がかかった軍隊」によって引き起こされた小競り合いであり、親分である蒋介石が直接絡んだものであはありません。


真の日中開戦は「第二次上海事変」


その「蒋介石」が関わるのは北支事変が上海にまで飛び火し、北支事変から「支那事変」へと拡大する際。

前述した通り、「通州事件」という日本人のアイデンティティを抱懐させてもおかしくないほどに悲惨な事件を収束させて間もなく、今度は上海の日本人居留区(疎開)が最終的に蒋介石軍(中国国民党軍)、と中国共産党軍総勢20万の軍隊に包囲される事態が発生しました。

この時の日本軍兵士の数は同居留区の中にたったの5000人。この事を受け、日本軍が事実上の「宣戦布告」を行って勃発したのが「第二次上海事変」です。

仮に「支那事変」を大東亜戦争の勃発だとするのであれば、この時点を以て当てるべきだと私は思います。

しかもこの時も先に日本海軍に空爆を行ったのは蒋介石軍であり、更に同軍は帰還時に日欧米の民間人が居住する「共同疎開」へ空爆を行い、1700人を超える民間人が死亡。

そして蒋介石はこの時に撮影した写真や映像を国際連盟に持ち込み、これを日本軍の仕業である、と訴えています。

バカな国際連盟の面々はこれを真に受け、日本への経済制裁は「正当なものである」としてお墨付きを与え、のちの「援蒋ルート」へとつながり、これがのちの「北部仏印進駐」から「南部仏印進駐」へとつながるきっかけとなるのです。

日本の「南部仏印進駐」が米国の「石油輸出禁止」のきっかけになったと日本の事を非難する連中がたくさんいますが、その大元は蒋介石のデマを真に受けて日本への経済制裁に正当性を与えたバカな国際連盟の連中。この事を批判する人が全く存在しないことに私は非常に違和感を覚えます。


盧溝橋事件はなぜ起きたのか?

盧溝橋事件のいきさつは、第153回の記事 に掲載しています。

ですが、そもそもの理由として、中国軍の仕業であったにせよ、日本軍のミスであったにせよ、盧溝橋という場所で「空砲」が鳴りさえしなければ「盧溝橋事件」は起きませんでした。

もっと言えば、そこに「日本軍」がいなければ、事件は起きなかったわけです。

盧溝橋にいた日本軍はもともと「天津」にいた「支那駐屯軍」が、「冀東(きとう)防共自治政府」への「共産軍の侵入をなんとしても阻止したい」と考えていた、「冀察政務委員会」管理者である「宋哲元」の許可を受けて演習を行っていたもの。

冀東自治政府

ややこしいですよね。詳細は第140回の記事 をご覧ください。

では、なぜ「天津」に日本軍がいたのかというと、ここからようやく「ドイツ」へとつながるのです。


「義和団の乱」後の「北清事変」

情報は第140回の記事 から引用します。

なぜこの地域に日本軍が駐留していたのかということですが、これは時代を大きく遡って、「義和団の乱(北清事変)」のことを振り返る必要があります。

そもそものところでいえば、中国が悪いわけじゃなく、この義和団の乱に関係して言えば「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由です。

ですが、この当時の中国(清朝)の政権も非常に不安定な状況にあり、皇帝の叔母であり「西太后」が実権を握る状況の中、「義和団」の反乱に便乗した西太后が無謀にも欧米7カ国+日本に対して宣戦布告を行い、敗戦した結果、宣戦布告をされた8か国と当時の清朝の間で締結されたのが「北京議定書」。

この議定書に基づいて、日本だけでなく欧米8カ国が中国国内に自国軍を駐留させていたのが当時の状況。
盧溝橋で軍事演習を行っていた部隊は日本が、この「北京議定書」に基づいて「天津」という地域に駐留させていた「支那駐屯軍」という部隊です。

勿論「権益」の問題があったことは事実ですが、既に当時の中国、北京市(北平市)周辺には多くの日本人が居住しており、現地法人を守るためにも日本軍は駐屯軍を撤退させるわけにはいきませんでした。

きちんと書いてますね。

『「ドイツ」が「キリスト教」という洗脳術を用いて中国の領土を侵食し、中国の伝統や文化、風習をまったく無視しして当時の中国人の精神を支配しようとしたことが最大の理由』

である、と。もちろんドイツだけではありません。ですが、清の西太合が「北京に公使館をおく」、日欧米の合計8カ国に対して宣戦布告を行うという暴挙に出る原因を作った「義和団の乱」。

「義和団の乱」が起こった原因について、第78回の記事 から引用しますと、
この「山東省」という地域がどのような地域であったかというと、中国にとっては学問の中心ともいえる「儒教」。この儒教の始祖である「孔子」がの出身地です。

ドイツは中国にキリスト教を布教していく上で、この「山東省」という地域は、戦略的にも重要な地域だと考えていました。
儒教発祥の地にキリスト教を布教することで、ドイツは中国人の精神そのものを支配しようと考えていたのでしょうか。

しかし、これは当然地元の中国人の反発を引き起こします。大刀会という武術集団数人が山東省曹州府にあるカトリック教会を襲撃し、ドイツ人神父2名を殺害。この直前には梅花拳という拳法の流派が約三千名で同じ曹州府にあるカトリック教会を襲撃する事件が発生しました。

共に、教会建設にあたる土地争いが原因で、一般民衆が助けを求めたことが原因なのですが、このことを口実に当時のドイツ帝国は山東省に派兵。膠州湾を占領します。
清朝との間で外交折衝が行われ、ドイツは22万両の賠償金を獲得し、済寧など3ヶ所に教会を建設。

更にドイツと清国の間で独清条約が結ばれ、ドイツは膠州湾を租借。鉄道建設権と鉱山の採掘権を手にします。

この時、ドイツ教会を襲撃した梅花拳の流派は、今回の事件で梅花拳の名声に傷がつくことを避けるため、「義和拳」と改名します。

義和拳には、母体となった梅花拳の流派だけでなく、他の反キリスト教グループも結集し、やがて「義和団」と呼ばれるようになります。

1989年、山東省に赴任したのはあの袁世凱。彼によって山東省の義和団は弾圧されるのですが、弾圧された義和団は山東省以外に流失します。

そして、北京周辺にまで流出した義和団によって引き起こされたのが今回のテーマである「義和団の乱」です。

要は、ドイツが中国を価値観の面から洗脳するため、孔子の出身地である山東省でキリスト教を布教しようとしたところ、現地の拳法家たちが教会を襲撃し、神父が2名殺害された、ということです。

拳法家たちの教会襲撃はこれだけにとどまらず、ついに政府から袁世凱が派遣され、彼らは鎮圧されます。

この事で山東省を追われた義和拳の使い手らは北京と天津の間の地域にまで移動し、北京を包囲。これを受けて北京政府は義和団の鎮圧に乗り出すどころか、逆に北京内に公使館を持つ8カ国に対して宣戦布告を行ったわけです。

ちなみにこの時流出した義和団の行為についてい、Wikiでは以下のように記されています。

外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、果ては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった

この後、講和条約において日本は天津に軍を駐留することが認められるのですが、他の8カ国も同様の権利を認められています。


ドイツはなぜ山東省で布教活動ができたのか

ドイツが山東省で布教活動を行うことができた理由は、ドイツが山東省に「権益」を有していたから。

ドイツは清国が「日清戦争」において日本に敗北した際、その講和条約で清国が日本から約束させられた「2億テールの賠償金」。

この一部を清国に貸与したんですね。ドイツはその代わり、中国に対し「山東省に対する権益」を認めさせます。


「なんだ、やっぱり日本が原因か」などという声が聞こえてきそうですが、例えドイツが山東省に権益を有したとしても、山東省を支配することを目的として、同省で布教活動など行わなければ「義和団の乱」の勃発は防げたはずです。

元々中国人が持っていた伝統的な習慣や風習を無視し、「キリスト教」的な考え方を押し付けようとしたためにおきた出来事です。

また、「日清戦争」そのものも、もとはといえばイギリスが清国を開国させ、アヘンとキリスト教を輸出するために仕掛けた「アヘン戦争」や「アロー戦争」に対してもともと欧州の大国であるはずのロシアが介入し、講和条約を結ばせ、満州の北半分を清国割譲させた事。

これが日本に「危機感」を抱かせたことが遠因として存在します。

この事を受け、日本は日本とロシアとの間にある朝鮮に自立心を持たせ、ロシアからの防波堤になることを求めました。

ですが、清国はいつまでも朝鮮が清国の属国であるという考え方を捨てようとせず、朝鮮もまた、清国の属国であろうとしました。

日清戦争とは、いわば朝鮮を清国から独立させることを目的として起こした戦争です。「ロシア」の脅威から日本を守るために。

その後もロシアは、実際に北清戦争の混乱に乗じてアムール川沿岸の清国人を皆殺しにし、誰も居住者のいなくなった場所を占領するという、文字通り「鬼畜行為」にまで及んでいます。


ヴィルヘルム2世と「三国干渉」

三国干渉

さて。この「日清戦争」において、日本は清国より「遼東半島」の割譲を約束させるのですが、これに対して日清戦争とは無関係であるにも関わらず、日本に対してちょっかいを出してきた国が3つあります。

一つは、地政学的にリスクを負う「ロシア」。ですが、残る2カ国は遼東半島に対して全く、何一つ関係のない国々です。

その国のうちの一つは、そうです。言うまでもありませんね。「ドイツ」です。そしてもう一カ国がフランスです。

そしてこの時のドイツの皇帝は「ヴィルヘルム2世」。ビスマルクが植民地政策に消極的であったことに比べ、ヴィルヘルム2世は逆に植民地を拡大する外交政策を取りました。権益を有する山東省を植民地化した政策は、その一環だったんですね。

義和団の乱が勃発するのが1900年。その2年前、1898年3月6日にドイツは清国との間で独清条約を締結。山東省をドイツの事実上の植民地にしてしまいます。山東省における神父の殺害事件を、ヴィルヘルム2世はドイツに軍を派遣する口実にしたんですね。


もしビスマルクが未だに首相を続けていたら。もしヴィルヘルム2世がビスマルクの考え方を理解し、これを大切にできるような人物であったとしたら、このようなことは起きなかったのではないでしょうか。

普墺戦争においても、普仏戦争においても、ビスマルクは「引き際」をわきまえていました。両戦争はドイツ国民の「ナショナリズム」を高めるために利用したのであり、そもそも「侵略」することを目的とはしていませんでした。

「国境を接する国」であるということもあるでしょうが、ビスマルクは逆に言えば国境を接することのない国に戦争を仕掛けるようなバカな真似は行いませんでしたね。むしろ自国周辺で戦争を起こさないことを目的として行われたのが「ビスマルク外交」でした。

ヴィルヘルム2世による「三国干渉」が行われたのは1895年4月23日のことですが、実はその12年ほど前、ビスマルクは日本の使節団と直接出会い、私が今回記事にした内容をそのまま文章化したような言葉を口にしています。

次回記事では、そんなビスマルクと日本の使節団との出会いを少し記事にしてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第452回 ヴィルヘルム2世の政策~場当たり的な政策が醸し出す未来~
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