FC2ブログ
第449回 新皇帝ヴィルヘルム2世の誕生とビスマルクの失脚など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

ランキングサイト

この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

「ナチスドイツ」、果ては「ヒットラー」なる人物が誕生した理由を探るため、今シリーズ では、長らく「ドイツ」そのものの歴史をずっと追いかけてきました。

ビスマルクが統一するまで、世界の中に「ドイツ」という国が存在した歴史はなく、「ドイツ」と呼ばれた地域には、元々実に様々な「民族」が居住しており、唯一「ゲルマン系の言語を話す」ということのみにその共通点のある人々が暮らしていました。

改めて、シリーズ最初の記事 を振り返ってみますと、そもそものメインテーマである「ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)」が誕生したのは「バイエルン」。

ビスマルク退陣後のドイツはその後、「第一次世界大戦」の渦へと巻き込まれていくわけですが、バイエルン人たちの中には、「第一次世界大戦を起こしたのはプロイセンであり、自分たちは関係がない」とする意識があったそうです。自分たちは巻き込まれた側。被害者だ、と。

ビスマルクやビスマルクによるドイツの統一、そしてその経緯を全く知らなった当時としては、同じドイツでありながらなぜ、という疑問が拭えずにいたのですが、今ならその事情がよくわかりますね。

バイエルンとプロイセンは、元々その成り立ちも民族性も全く異なる国であり、特に「南ドイツ」であるバイエルンと北ドイツであるプロイセンとは、その宗教的な側面からも全く別の「国家」だったわけですからね。

ドイツ統一後も、「自由都市」として軍事的な側面以外は独立した法律の下運営されていたのも「バイエルン」です。ドイツ民族としての統合を理想としていた北ドイツと「分離主義者」たちが中心となる南ドイツ。これもまた「宗教性の違い」にもよるものです。

宗派が違うだけで、同じキリスト教なんですけどね。

あと、ヒットラーの著書、「我が闘争」を読んでいますと、彼は冒頭で自分が血筋的にも「バイエルン人」だと言っているのですが、同じ著書を読み込んでいきますと、彼の出身地はバイエルンではなくオーストリア。オーストリアのバイエルン人ということなんでしょうか。

そして「ドイツ人」としての誇りを持とうとしないオーストリアのことが、彼は大嫌い。

まだ前半の半分も読み切れてはいませんが、「我が闘争」に基づく記事もいずれ作成する予定です。


ヴィルヘルム2世の誕生

第433回の記事 でドイツ帝国誕生後、ビスマルクがとった「社会主義者対策」を、第444回の記事 ではそんな「社会主義者対策」とは相反するように、国民に寄り添う形で執り行った「社会保障政策」。そして第445回の記事前回 までの記事では、更にビスマルクがとった「外交政策」をそれぞれ記事にしてきました。

ドイツ帝国誕生後のビスマルクの政策は、まさしくこの三本柱で、「社会主義者鎮圧法」によって社会不安の根源ともいえる「社会主義者」を徹底的に取り締まり、逆に国民に対してはそんな「社会主義」の象徴ともいえる「社会保障政策」を弱者目線で徹底整備。

軍事外交においては「平穏」を維持するため、ドイツ周辺で戦争を勃発させないため、徹底的に「フランスを孤立化」させる外交交渉を貫き、バルカン半島を除くヨーロッパにおいては事実、その「平穏」を維持し続けることに成功しました。

そしてもう一つ、貿易外交においては海外の不況の影響を最小限にとどめることを目的とし、「保護関税法」を実施して保護貿易体制をとりました。

もちろん、すべての同じ政策を現在行え、といえば間違いなく日本でも憲法違反になる部分がありますし、まず無理だとは思います。ですが、法的な裏付け、その前提条件が異なる当時としては、実に「先見の明」のある政策を実行し続けた人物こそオットー・フォン・ビスマルクだったのではないでしょうか。

ですが、そんなビスマルクの政策は、2つの「敵」を作り出します。そのうちの一つが言わずと知れた「社会主義者鎮圧法」によって弾圧された社会主義者たち。もう一つは自分たちの目指す「自由貿易」とは真逆の政策をとられたことで、ビスマルクの経済性悪に反発した「自由主義者」たち。

そして、そんな「自由主義者」の象徴ともいえたのが、1888年3月9日に崩御した皇帝ヴィルヘルム1世の後を継いだ「フリードリヒ3世」。そして、彼の妃であった皇后「ヴィクトリア」。ヴィクトリアが生まれたのはバッキンガム宮殿。彼女はイギリス人だったんですね。

ビスマルクにとっては幸いなことに、フリードリヒ3世はもともと咽頭癌を患っており、またヴィクトリアが信頼する宮廷医と、義理の息子であるフリードリヒ3世のことを心配してヴィクトリアの母親が送り込む医師団との対立でまともな治療を受けることができず、皇帝に即位してわずか99日でこの世を去ることになってしまいました。

そして、そのあとを引き継いだのがヴィルヘルム2世。

ヴィルヘルム2世

そう。第一次世界大戦の当事者であり、のちにドイツの共産主義グループである「レーテ」が引き起こした「レーテ蜂起」により亡命を余儀なくされた人物。あの、「ヴィルヘルム2世」です。

第444回の記事 の中で、1889年10月、ビスマルクが、「期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案」を議会に提出したことを記事にしました。

ですが、多くの人が思うはずです。

 「社会主義者が危険なことは理解したとしても、いくら何でも『無制限』はやりすぎなんじゃないか」

と。


ルール地方における労働者ストライキ

ビスマルクが前記法案を提出したのは1889年10月。この5か月前、ドイツの「ルール地方」、ラインラント付近で、ドイツ産業の中心となる地域の鉱山において、発生したストライキが、一気にドイツ各地に拡大していったのだそうです。

これを受けて、皇帝ヴィルヘルム2世は、経営者たちを批判し、労働者たちの支持を表明するのですが、この時のビスマルクの行動を、Wikiヴェルヘルム2世のページには、以下のように記しています。
ビスマルクは自由主義ブルジョワが社会主義勢力をもっと危険視するよう紛争の解決は当事者に任せようと考え、私有財産保護のために警察と軍隊を投入する以上のことは何もしなかった

これは、あのフェルディナンド=ラッサールが「夜警国家」として批判した自由主義者の目指す自由主義国家 そのまんまですね。

これに対してヴィルヘルム2世は一歩踏み込んで、「労働者」たちを救済する方向に乗り出したわけです。この時、合わせて「ドイツ社会主義労働者党の扇動にのって公共の安全を脅かす行為は辞めるよう要求」も行ったようですね。

もともとヴィルヘルム2世はビスマルクのことを尊敬しており、自由主義者であった父フリードリヒ3世とは違って、保守的な思想の持主。ビスマルクもまた、フリードリヒ3世よりヴィルヘルム2世のことを信頼しており、またイギリス出身の自由主義者、ヴィクトリアとヴィルヘルム2世の距離が開くような画策も行っていました。

実際ヴィルヘルム2世は父フリードリヒ3世が崩御した直後に母ヴィクトリアを幽閉するなどしていますので、ヴィクトリアのことをそれほど信頼していたわけでもなかったのでしょう。

ですが、このルール地方を発端としたストライキ事件の前後で、ヴィルヘルム2世とビスマルクとの間に、微妙な関係の変化が生まれることになります。


社会主義者鎮圧法をめぐる駆け引き

ビスマルクは、この事件が起きた後、事実上事件を「放置」したまま、出身地へ里帰りし、翌年1月24日までそこで静養しました。

この間、ヴィルヘルム2世と接触した人物らが、彼に影響を与え、ビスマルクから少し気持ちが離れてしまうことになります。

ヴィルヘルム2世自身、祖父ヴィルヘルム1世がビスマルクを信頼し、ある意味ビスマルクに主導権を握られてしまっている状況に多少なりとも疑問を抱いていたのだと思います。彼は、「自分自身の手で政治を行いたい」と考えていたようですね。

ビスマルクが「社会主義者鎮圧法」の改正案を提出させたのも、どうやらその静養先から。この事から、ビスマルクもこの時点ではこの改正法案が皇帝から批判され、成立されないとする選択肢を想定に入れていなかったのではないか、とも考えられます。

1月24日、ビスマルクも参加した御前会議において、皇帝は先んじてルール地方に始まる労働者問題を受けた「労働者保護勅令」の計画を発表したのですが、「社会主義者鎮圧法」の成立を優先すべきだとして、その計画は先延ばししてしまいました。

この時、国民自由党より、「社会主義者鎮圧法を無期限に延長するのであれば、『社会主義者を住居から立ち退かせる権限を警察に認める条項』を外すべきだ」という主張がなされていたのですが、皇帝はビスマルクに対し、この要求を呑むよう(実際には「帝国議会が追放条項の破棄を決議してもそのために法律を流産させることはしない」とする声明を出すよう)求めます。

この提案は保守党からもなされました。

ですが、ビスマルクはこれには応じられないことを示した上で、「もしそのような考え方を陛下がお持ちなのなら、私は宰相としては適任ではない」として、辞職をほのめかします。

私、争点は「無期限に延長するかどうか」ということかと思っていたんですが、そうではなかったんですね。

確かにその後の社会主義者たちの動きを見ていれば、前記した状況を削除してしまえば、同法案はたとえ無期限であったとしても、これが形骸化してしまうことは想像に難くありませんね。

ビスマルクの「社会保障政策」が実現していった経緯を考えますと、おそらくビスマルクはヴィルヘルム2世の「労働者保護勅令」そのものに反対であったわけではないのだと思います。これを実現するのであれば、先に社会主義者鎮圧法を延長すべきだといっていたのでしょうね。

けれども、ビスマルクのその考え方よりも、ヴィルヘルム2世の勅令が弾かれたこと、そして国民自由党や保守党、ヴィルヘルム2世自身が求める社会主義者鎮圧法の修正が行われなかった事という、いわば「ミクロ的な部分」に視点が集まってしまい、この事でヴィルヘルム2世はビスマルクに反発心を抱くようになります。

翌2月には労働者保護勅令の2月勅令が発せられるのですが、ビスマルクはこの勅令への署名を拒否し、同勅令で定められていた「労働者保護国際会議」のベルリンでの開催を妨害します。

妨害した理由は、おそらくその開催が労働者の暴動へとつながり、やがてクーデターへと発展することを恐れたのではないかと思うのです。

その証拠・・・というわけではないのですが、同月25日、ビスマルクは皇帝に対し、「もし労働者の暴動が発生したら断固たる手段を取る決意があるか」と尋ねています。

暴動は、当時のドイツ帝国の崩壊につながりかねないことをビスマルクは知っていたんですね。これに対しヴィルヘルム2世はこう答えます。

 「かかる際には断じてフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の如き態度はとらぬ」

と。

ヴィルヘルム2世とビスマルク

フリードリヒ・ビルヘルム4世とは、1848年のベルリン3月革命の時のプロイセン国王で、軍隊をベルリンから退去させ、民衆(自由主義者)たちの求めるままに憲法の制定を約束した人物です。

フランスやオーストリアではそれぞれ国王が退位し、亡命を余儀なくされましたね。


ヴィルヘルム2世との謁見で、ビスマルクは「皇帝からの信認を得た」との確信を得、翌年3月2日、皇帝の「労働者保護勅令」が反映された「労働者保護法案」とともに、再び「社会主義者鎮圧法」の改正案を提出する方針を示しました。

この法案には、更に「他人にストライキ参加を強制した者への罰則条項」も加えられていました。

ですが、皇帝は「保守党」「帝国党」「国民自由党」のビスマルクを支持するはずの「カルテル3党」が同法案に反対であることを知り、彼らから散々持ち上げられた挙句、彼はビスマルクの期待を裏切り、ビスマルクに同法案の提出をやめるよう命じました。

これに対して、ビスマルクはあっさりとその取り下げに応じます。


ビスマルクの失脚

1850年、オーストリアとの間で締結せざるを得なかった屈辱の「オルミュッツ協定」の締結をめぐり、軍制改革の必要性に駆られたヴィルヘルム1世のたっての願いを受け、自身が一生付き従う国王であると心に決め、プロイセン首相となった人物。それがビスマルクです。

もはや皇帝に帝国を守るだけの覚悟が存在せず、また皇帝から必要とされなくなってしまった以上、ビスマルクに今の立場にとどまる理由はもはや存在しません。

1890年3月18日、ビスマルクは皇帝に対し、辞表を提出することとなりました。


長らく続きました、「ビスマルク」シリーズですが、ついにその終焉を迎えましたね。

ただ、「社会主義者鎮圧法」や「フランス孤立政策」にビスマルクが一体何を賭けていたのか。ビスマルクが去った後、「親政」をふるい始めるヴィルヘルム2世。

ビスマルクを追い落としてまで「労働者保護勅令」の必要性を訴えたヴィルヘルム2世が、この後ヨーロッパのみならず、アジアにまで及ぼしていくその「影響」を追いかけてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第450回 ヴィルヘルム2世の「世界政策」に巻き込まれた清国と日本
このシリーズの前の記事
>> 第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~

にほんブログ村 政治ブログへ にほんブログ村 経済ブログへ

このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


このエントリーにお寄せ頂いたコメント

URL:
コメント:
 

スポンサードリンク

Copyright © 真実を問う!データから見る日本 All Rights Reserved.
ほったらかしでも稼げるFC2ブログテンプレート [PR]