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第447回 フランスを孤立化させるための「同盟」~ビスマルク体制~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

前回の記事では、ロシアとオスマントルコとの間で行われた戦争、「露土戦争」と、その講和条約として両国間で締結された「サン・ステファノ条約」について記事にしました。

ですが、この「サン・ステファノ条約」。ロシアのバルカン半島への影響力を大きく高めることが懸念されたため、ロシアと同じくバルカン半島に国境を接するオーストリア(・ハンガリー)帝国、及びイギリスから大きく反発を買うこととなります。

そこで、その仲裁役としていよいよわれらがオットー・フォン・ビスマルクが登場します。


ベルリン会議がもたらした三帝同盟の崩壊

ベルリン会議

ただし、ビスマルクに対してはロシアより、もっと早い段階での介入を求める声があったのですが、ビスマルクにとってみれば、ロシアに肩入れすることでオーストリアの不満を買うことが、結果として三帝同盟の崩壊へとつながることを恐れていましたので、どうしても介入に対して慎重にならざるを得ませんでした。

最終的に「露土戦争」に決着がついた時点でビスマルクは「誠実な仲介者」として東方問題に対する「介入」を初めて行いました。

オーストリアの要請を受けてのものです。

ただ、オーストリアとしてはロシアとの間で既に「ライヒシュタット協定」という密約を結んでいる関係にありますから、一時的にロシアとトルコとの間で「サン・ステファノ条約」が結ばれたものの、不自然な形にならないよう、同協定における約束、即ちボスニア・ヘルツェゴビナを自国領土として併合するための画策を行ったのではないか、とも思うのです。

オーストリアは同戦争に対しては「中立」の立場を保っていましたし、それがロシアとの約束でしたから、戦争に参加すらしていないオーストリアが突然領土を拡大したりすれば、どう考えても不自然ですからね。

つまり、オーストリアとロシアとがお互いに対立しているように振る舞い、両国にとって最も中立的な立場であるドイツのビスマルクに仲裁してもらう、という構図です。


ベルリン条約

このベルリン会議に参加したのは、当事者であるロシアとオスマントルコの他、オーストリアとドイツ、そしてイギリス、フランスに加え、イタリアも参加していますね。(その他、ギリシャ、ルーマニア、セルビア、モンテネグロもオブザーバーとして参加しています)

露土戦争の講和会議としての性格と同時に、今後のヨーロッパの在り方を決定づけるための会議としての意味合いも有していたのでしょうか。

同会議の結果として、「ベルリン条約」が締結されました。

【ベルリン条約】
・セルビア公国、モンテネグロ公国、ルーマニア公国の三公国の正式な独立

・大ブルガリア公国の分割(マケドニア、東ルメリ自治州、ブルガリア公国:「ブルガリアにとっては事実上の独立)

・オーストリア=ハンガリーによるボスニア・ヘルツェゴビナ占領

・キプロスのイギリスへの割譲

セルビア、モンテネグロ、ルーマニアはもともと「自治領」だったものが正式に独立。これはサン・ステファノ条約でも同じ内容が取り決められています。

ブルガリアも元々「自治領」だったわけですが、ここに関しては領土を広大にしすぎるとロシアの影響力が大きくなりますので、「マケドニア」「東ルメリ自治州」「ブルガリア公国」の3つに分割した上で、マケドニアはトルコに返還。東ルメリ自治州も同じく返還されますが、自治権が与えられます。

「ブルガリア」も「自治領」から「自治公国」へと昇格。ただし、その宗主権はオスマントルコに残され、ブルガリアはオスマントルコへの貢納が義務付けられることになります。

大ブルガリア分割

上図で、南辺~東部の茶色の部分がマケドニア、上部のグリーンの部分がブルガリア公国、ブルガリアとマケドニアに挟まれた赤い部分が東ルメリ自治州です。

そして、ボスニア・ヘルツェゴビナはサン・ステファノ条約では「自治領」となることが決められていたのですが、ベルリン条約ではオーストリアが「占領」することとなりました。

第307回の記事 で触れていますが、セルビアは独立した時点で、この「ボスニア・ヘルツェゴビナ」のセルビアへの統合を目指していました。

ただ、第307回の記事 に対する修正が必要かと思われる部分で、ボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアの占領下におかれた後も、オーストリアと敵対することなく、むしろオーストリアに歩み寄る姿勢を見せています。

ところが、1908年、ボスニアヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国によって併合されていしまいます。

このことで北側を抑えられたセルビアは、今度はその野心を南方、つまり「オスマントルコ」へと向けることとなります。

と記したのですが、1878年、公国として独立が認められたセルビアは、オーストリアに接近し、1882年、「オーストリア=ハンガリー帝国の承認」の下、「公国」から「王国」へと昇格しています。

セルビアが王国となった後、セルビアの南方、「ブルガリア」ではブルガリアの南方、「東ルメリ自治州」において、ブルガリアへの統合を求めた蜂起が勃発し、これを受けてブルガリア公が東ルメリ自治州の併合を宣言しました。

これに反対するセルビアはブルガリアと戦争状態に陥っています。つまり、この時点でセルビアは「南方」へも関心を持っていることになりますので、記述内容は少し先走った部分があったかもしれません。


話題を「ベルリン条約」に戻します。

ベルリン条約はロシアとトルコとの間で締結された「サン・ステファノ条約」を修正する目的で締結されたものですが、この条約で最も煽りを受けたのはロシア。ブルガリアの件はイギリスとの話し合いで決まったわけですが、それ以外にももともとロシアが獲得するはずであった領土が大幅に削減され、ロシア政府はビスマルクに不満を持つようになります。

この段階で、ドイツ・オーストリア・ロシアの3国間で締結していた「三帝同盟」は事実上解消されることとなりました。


ビスマルクの対ロシア政策

ロシアとの関係が冷え込んでしまったことを受け、ロシアをドイツ側に引き戻すため、ビスマルクはロシアに対し、逆に「孤立化」させるための外交政策をとることになります。

誤解していただきたくないのは、ビスマルクにとって、この時点における最大の懸念事項は、「フランス」がドイツに対して復讐を企てる事。そのためフランスを他の欧州列強と同盟させないようにすることを最大の目的としています。

ですから、ロシアに対する「孤立化政策」を推し進めるのは、あくまでもロシアにドイツ側に戻ってきてもらい、再び同盟関係を築くこと。ロシアに対して散々嫌がらせをした挙句、「やめてほしかったらこっちに戻ってこい」という政策を進めていくことになります。

ドイツはまず、三帝同盟を構成するもう一つの相手であるオーストリアとの間で、「独墺同盟」を結びます。(1879年10月7日)

【独墺同盟】
第1条 調印国の希望と真摯なる要求に反して、ロシアが両帝国の一つに攻撃をかけたならば、調印国は帝国の全力をあげて支援する義務を負う。従って共同のまた相互の同意によらなければ講和に応じない。

第2条 もし調印国が別の一国に攻撃された場合、調印国はその同盟国への侵略者を支持しないことはもちろん、同志の国にたいして少なくとも好意的な中立を保つ。

しかしながら、もし侵略国がロシアの支援を受けているとするならば、それが共同行動によるかまたは被侵略国の脅威となる軍事的手段を伴うものであれば、第1条の相互扶助の趣旨に沿って、調印国はその全力をあげて、共同行動に移る。この場合、共同した和平が達成されるまで調印国の戦争は継続される。

第3条 この条約の期間は批准の日から仮に5年間とする。この条約の満了するに至る1年前から調印国はこの条約の基礎となる条件が継続しているか、それ以上の延長について合意できるか、詳細について修正が必要かの疑問について協議するものとする。この条約の最終年度の始めの月にどちらかの調印国からこれらの交渉について招請状が発せられないとき、条約はその後3年間に限り延長されるものとする。

第4条 この条約の平和的趣旨に鑑みて誤解を避ける目的で調印国により秘密とされる。第3者に公開するときは両者による共同議定書によってのみ行われ、また特別合意に従うものとする。

調印国はアレクサンドロボ会議でロシアのアレクサンドル皇帝により表明された見解についてロシアの軍備は調印国への脅威とならないことを希望する。従って、本件につき連絡をする必要を認めない。しかしながらこの希望が期待に反し誤りだと証明されたならば、調印国はアレクサンドル皇帝に、片方への攻撃は両方への攻撃を意味することを秘密裡に通告することが、忠良なる義務であると理解したい。

第5条 この条約は両国皇帝の認可に有効性の基礎を置く。そしてこの認可がなされたあと14日以内に発効するものとする。

がっつりと条約の内容が掲載されていましたので、転記しておきます。転記元はWikiです。

かなりロシアに対して挑発的な内容ですね。ちなみに、ここに記されている「アレクサンドル皇帝」とは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のことで、イギリスが清国に対して仕掛けたアロー戦争に便乗して参戦し、満州北東部を清国に割譲させた人物です。(参照:第74回の記事

「農奴解放令」を実施した人物として 第297回の記事 でもご紹介しましたね。

後、ここに書いてある「アレクサンドロボ会議」が何を意味するのかは現在の私にはわかりません。

その他、様々な「嫌がらせ」をロシアに対して仕掛けるのですが、一方のロシアでは。

第297回の記事 で少しご紹介したように、「農奴解放令」など、様々な改革を実施したことがかえってロシアやロシア支配下にあるポーランドなどの民族主義者を活気づかせ、ロシアでは武装蜂起やテロ行為が頻発するようになり、ナロードニキ(人民主義者)たちによる皇帝暗殺計画が頻繁に計画されるようになります。

ナロードニキたちはフランスに逃亡するのですが、フランスからはその引き渡しを拒否されるなど、フランスからもロシアは孤立するようになります。フランスは共和制で、ロシアは帝政なので、そのあたりが影響したのでしょうか。

そして、ロシアの外交的孤立が深まる中、1881年3月13日、ついにアレクサンドル2世はナロードニキ(人民主義者)たちの手で暗殺されてしまいます。


ロシア外務大臣ゴルチャコフの失脚とロシア新皇帝アレクサンドル3世

アレクサンドル2世の下で外務大臣を担っていたのがゴルチャコフという人物なのですが、ロシア外交の中で「反ドイツ」「反ビスマルク」の象徴的な存在であったのも彼でした。

アレクサンドル2世の後を引き継いだアレクサンドル3世は、逆にドイツとの関係改善を求めるようになり、ゴルチャコフは外務大臣の座を追われることとなります。

ビスマルクの思惑通り、ついにロシアはドイツに歩み寄ることとなり、再び「新三帝同盟」である「三帝協定」が締結されました。(詳細な月日は不明ですが、1881年の出来事です)


さて。この後ビスマルクはイタリアとの間で「独墺伊三国同盟」を、更にルーマニアとの間では「独墺ルーマニア三国間同盟」を、1887年7月に墺露の関係が悪化し、三帝協定が破綻するとイタリア、イギリスとの間で地中海協定(後にオーストリアも参入)、ロシアとの間では「独露再保障条約」を締結します。

これらの「同盟」や「条約」が一体どのようなものか・・・という解説は非常にややこしいので、今回の記事及びシリーズでは割愛します。

重要なのは、このような外交政策を通じてビスマルクはフランスを孤立化させることに邁進し、確かに「露土戦争」やセルビア・ブルガリア間での紛争など、バルカン半島における戦火こそ上がってはいるものの、この地域を除く欧州一体での「戦争」は一掃されていたということ。

これは、ビスマルクが失脚した後のドイツやその他ヨーロッパ地域をめぐる動向を見ているととてもよくわかると思います。

これは、「社会主義者」に対する動向も同様です。

確かに、ドイツ帝国結成後、特に最後の10年間のビスマルクの動きは必死さを感じさせるほど何かに焦っているように感じさせられる部分もあります。社会主義者対策も同様ですね。

次回記事では、そんな首相末期のビスマルクとその失脚に向けた動きを記事にしていければと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第449回 新皇帝ヴィルヘルム2世の誕生とビスマルクの失脚
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>> 第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~

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