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第445回 ビスマルクの外交政策~欧州から戦争を一掃したビスマルク体制~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第444回 アメとムチ? ビスマルクの社会保障政策~社会保障の創始者~

前々回 までの記事で、社会主義者であるラッサールと一定以上の信頼関係を築いたビスマルクが、一体なぜ「社会主義者鎮圧法」を作ってまで社会主義者を弾圧するにいたったのか。また「社会主義者鎮圧法」という法律で社会主義者をどのように取り締まったのかということを記事にいたしました。

そして、前回の記事 の記事では、そんなビスマルクが、社会主義者に対する弾圧に相反して、社会主義者たちが実行しようとした「社会保障政策」の成立を次々と成し遂げていく様子を記事にいたしました。

しかし、そんなビスマルクが、ヴィルヘルム1世が崩御し、その孫、ヴィルヘルム2世へと皇帝の座が引き渡される中で、なぜか社会主義者たちへの「弾圧」に強いこだわりを見せる様になり、最終的にヴィルヘルム2世の命令を受け、ビスマルクがあっさりとその法案の提出をあきらめた様子を記事にしました。

ビスマルクの「焦り」が一体何にあったのか。その改名は次回以降の記事にゆだねるとして、今回はそんなビスマルクが取った「外交政策」を記事にしていければと思います。


改めて復習する「ビスマルク」

ビスマルクとは、言わずと知れた「プロイセン」の首相。任命されたのは1862年9月23日の事。

ベルリン三月革命以降、経済的な自由を求めて活動する「自由主義者」たちが、ついにプロイセンの政権内部にまでも浸透し、プロイセンの軍事力は徐々に衰えを見せていくことになります。

1815年、ナポレオン戦争後のヨーロッパの在り方について話し合われた「ウィーン会議」によって、「ウィーン体制」が誕生しました。

プロイセンは、しかしウィーン会議後もナポレオン戦争当時の軍事態勢のままでいたため、プロイセンがオーストリアとの間で一触即発の事態に見舞われた「ヘッセン=カッセル選帝侯国内部での武力衝突」では、結果的にロシアの仲介を受け、オーストリアに対して大幅な譲歩(オルミュッツ協定)をせざるを得なくなってしまいました。

この事態を受け、後のヴィルヘルム1世、当時のヴィルヘルム王子だけでなく、ベルリン革命後に出来上がった自由主義政府もまた、軍制改革の必要性を実感していました。

ですが、その後複数回の選挙を経て、自由主義政府の中でも、国家予算を軍制改革に回すことに対して否定的な勢力が多く議席数を獲得していくこととなります。

そんな中、国王となったヴィルヘルム1世の思いを受け、軍制改革の実現をまずはその目的として抜擢された「首相」がビスマルクでした。

その後、「普墺戦争」を経て北ドイツを統一し、「普仏戦争」を経てドイツ全体を統一したのが「ビスマルク」でした。


ビスマルク外交の背景

ビスマルクが目的としていたのは、何よりも「プロイセン」という国家を平穏で安定した国家にすること。

そのための不安要素を排除するためにオーストリアと連合して起こしたのがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争。ですが、「ドイツ関税同盟」に対する駆け引きでオーストリア外相「レヒベルク」が失脚したことを受け、今度はオーストリアを不安要素であると感じ取るようになります。

そしてオーストリアのガスタイン協定の破棄を皮切りにホルシュタイン進駐を決行し、そのまま「普墺戦争」へと突入。一気に北ドイツ全体を平定し、統合。

残る「不安要素」である南ドイツ諸国を自国と同じ法制度の下に置くためにフランスをけしかけて勃発させた「普仏戦争」。

オーストリアを除くドイツ全体をプロイセンと同じ法制度下で管理することができる状態にしましたので、ビスマルクからすればこれ以上「領土拡大」を行う必要性はありませんでした。

ですが、まずビスマルク率いるドイツ帝国に大敗したフランスはそうはいきません。また、突如として出現した「ドイツ帝国」という大国は、その他周辺諸国にとっても一つの「脅威」にすぎませんでした。

ビスマルクは、この時の自身の考え方を以下のような言葉で表現しています。

私の中にあるイメージとしては、どこかの領土を得るという事ではなく、フランス以外の全ての列強が我が国を必要とし、また列強相互間の関係ゆえに我が国に敵対する連合の形成が可能な限り阻止されるような全体的政治状況というイメージである。

フランスは、ビスマルク自身がけしかけた上に圧勝し、ナポレオン三世を失脚にまで追い込んだわけですから、フランスからドイツを「必要とされる」存在にしようとまでは思っていない、ということでしょうか。

この様な事情から、ビスマルクは「フランスがドイツに復讐できない状況」を作ることを重要視することとなりました。

フランスとドイツとの武力の間には大きな開きがあり、フランスがドイツに単独で戦争を挑んだとしても、フランスはドイツに勝つことはできません。

ビスマルクが最も恐れたのは、そんなフランスが他国との間で同盟関係を築いてドイツに戦争を挑んでくること。

ビスマルクが最も望んでいたのはドイツ帝国(もっと言えばプロイセン王国)の「平和」ですから、ビスマルクが最も嫌うのはドイツ以外の国と「敵対関係」を作ること。その意味で、ドイツがどこかの国に対して領土拡大のための侵略行為を行い、戦争状態に陥ることほど無駄なことはありません。

そんなドイツにとって、最も警戒しなければならない相手が「フランス」でした。ですから、ビスマルクは、フランスがドイツ以外の国と同盟関係を結べなくなる状況を作ることに邁進します。


ビスマルクと「三帝同盟」

以前に掲載した地図ですが、以下の地図をもう一度掲載いたします。

1900.jpg

1900年当時の地図ですので、少し年代は違いますが、1871年~1890年まで、ビスマルクがヨーロッパ全体で領土争いが起きることを食い止めていましたから、地図としてはそれほど大きな違いはないと思います。

ドイツの「敵」となりうる国、即ちドイツと国境を接する国は「オーストリア」「ロシア」「デンマーク」「ベルギー」「オランダ」の5カ国。中でも大国といえるのは「オーストリア」「ロシア」の二カ国です。

ですので、ビスマルクはまずこの両国と「同盟関係」を結びます。

フランスではナポレオン三世が失脚し、帝政から「共和制」へと移行しました。

「共和制」とは、いわば社会主義体制であり、社会主義体制が目指すものは「帝政の打倒」ですから、これを理由にビスマルクは、「帝国」である3国(ドイツ、オーストリア、ロシア)が同盟関係を結ぶことで、対フランス包囲網を築くことを提案しました。

この結果結ばれたのが「三帝同盟」なのですが、この同盟は同盟内に潜在的な問題を抱え込んでいました。


「ロシア」と「オーストリア」のシコリ

これが「クリミア戦争」などに代表される「東方問題」と呼ばれるもので、元々オスマン=トルコの勢力下にあった「バルカン半島」の民族の独立運動に、他のヨーロッパ諸国が介入していた問題に起因します。

先ほどの地図で言いますと、オーストリア、ロシア以南、ギリシャまでの半島が「バルカン半島」。オーストリア、ロシアはバルカン半島と直接国境を接していますので、この「バルカン半島」に対して各々「利害」を有していたわけです。

元々、オーストリアとロシアはプロイセンを交えて「神聖同盟」を結ぶなどしていて、お互いに友好関係にありました。もちろん、腹の中では何を考えているのかわからないような関係性ではありますが。

で、そんなオーストリアとロシアの関係に亀裂が入ったのが前記した「クリミア戦争」。1853年10月16日から1856年3月30日、ウィーン体制下の欧州に於いて行われた戦争で、元々はモンテネグロとオスマン=トルコとの間での小競り合いの様な紛争が、最終的にロシアとオスマン=トルコの戦争にまで発展した。そういった戦争でした。

私のブログではまだ「オスマン=トルコ」という国をテーマにして深堀したことはありませんから、私自身でもオスマン=トルコに対する情報はほぼ持っていないに等しいので、この戦争そのものをそこまで深堀することはしません。

問題となるのは、この時オーストリアがロシアに対して示した態度です。


クリミア戦争では、ロシアと対峙したオスマン=トルコを、イギリスとフランスが支援しました。

この事から、ロシアは苦境に陥り、オーストリアに助けを求めたのですが、これに対してオーストリアはオーストリアとの友好関係ではなく、自国の利害を優先し、同戦争に対しては中立の姿勢を示し、更にロシアとの国境に軍隊を終結させ、ロシアに対してオスマン=トルコと講和することを求め、応じなければロシアを敵とみなす意思まで表明しています。

ちなみにニコライ1世のロシア帝国は、オーストリアで起きたハンガリー蜂起において、オーストリアの皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会談を行い、ハンガリーに出兵し、ハンガリー蜂起の鎮圧に協力しています。にも関わらず、オーストリアはロシアを裏切ったんですね。

ちなみに同戦争の講和会議はオーストリアとプロイセンの立ち合いの下で行われたのですが、これまで当時の国際協調関係の象徴であった「ウィーン体制」。これの根幹をなしていた「五国同盟」が事実上崩壊し、ウィーン体制そのものが終焉を迎えることになります。


三帝同盟の崩壊

ということで、元々「シコリ」を抱えたまま締結された「三帝同盟」なのですが、これもまたクリミア戦争と同じ「東方問題」が原因で崩壊することになります。

そもそも「東方問題」とは、ドイツ帝国への仲間入りをあきらめざるを得ないオーストリアが、北方、即ちドイツ側ではなく、「南方」、即ちバルカン半島側への影響力の拡大を目的としたものと、同じく「汎スラブ主義」の名の下にバルカン半島への南下を目指すロシア。

そして特にロシアの影響力拡大を恐れるイギリスやフランス、そして同じくバルカン半島と国境を接し、更に領土そのものを有する「オスマン=トルコ」との駆け引きが原因で起きた問題です。

ビスマルクの外交政策に焦点を当てて記事を作成する予定だったのですが、少しだけ記事を分けまして、次回記事では1877年、ロシアとオスマン=トルコとの間で再び勃発した戦争、「露土戦争」をビスマルクの三帝同盟と比較する形で記事にしたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第446回 「汎スラブ主義」と「露土戦争」~三帝同盟崩壊への序曲~
このシリーズの前の記事
>> 第444回 アメとムチ? ビスマルクの社会保障政策~社会保障の創始者~

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