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第444回 アメとムチ? ビスマルクの社会保障政策~社会保障の創始者~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第443回 ビスマルクのとった社会主義者対策~社会主義者鎮圧法~

前回の記事では、ビスマルクがいずれ帝国の平穏を揺るがすことになるであろう「社会主義者」という存在に対し、ビスマルクが一体どのような対策をとったのか。これをその成立までの紆余曲折まで含めて記事にしました。

「社会主義者鎮圧法」という通称を持つ法律により、ビスマルクはドイツ帝国内で彼らが「結社」「集会」「出版」することを禁止しました。警察にはこれに違反した社会主義者(及び共産主義者)をドイツから追放する権限が与えられました。

「結社」が禁止されていますから、「ドイツ社会主義労働者党」という政党そのものが法律違反であることになります。

ですが、一方でビスマルクは本来社会主義者たちがその成立を目指していたであろう、「社会保障政策」を充実させていくことになります。

この事を、多くの記述では「労働者が社会主義運動に流れるのを防ぐため」に行われたものだと記されているのですが、ビスマルクの経歴を追いかけてきた私としては、ビスマルクがそんな打算的な意図で社会保障政策を実行したとはちょっと思えません。

ラッサールに関連する記事で掲載し続けてきましたように、彼はその必要性をずっと感じ続けていた人物です。ですから、彼はそんな打算的な意図ではなく、本当にそれが必要であると常々感じていたからこれを実現させたのだと思うのです。

しかし、社会主義者を弾圧しながら、一方でこのような、ビスマルクとラッサールの関わりを知らない人たちから見えれば「社会主義者たちを懐柔する」ように見えたビスマルクの政策は、当時ビスマルクの社会主義政策を廃止させようとしていた「フランツ・メーリング」という人物により、「アメとムチ」と揶揄されました。


ビスマルクの社会保障政策

ビスマルクがが導入した社会保障政策として代表的なものが

 「強制加入の社会保険制度の導入」。

彼が導入した社会保険制度とは、「労災保険制度」「疾病保険法」「障害・老齢保険法案」の3つです。実はこの制度の制定、ビスマルクが世界で初めて実現しており、彼はまさに「社会保障の創始者」。

ドイツでは、元々1871年に、「帝国責任法」という法律が制定されており、これが労災補償制度としての役割を担っていたのですが、この法律は雇用者側の責任で事故が発生した場合、その立証責任を労働者側に求めており、この事が訴訟にまで発展するケースもありました。

これに対し、炭鉱の経営者であった帝国党議員、シュトゥムという人物が、坑夫組合金庫をモデルとする強制保険制度への移行を提唱しました。また、プロイセン商務相の依頼で重工業家バーレという人物が作成した覚書を下に、ビスマルクは自らプロイセン商務相へと就任し、強制保険制度の導入を推進することを決定します。

彼が重要視したのは、民間の保険会社ではなく、国家が同保険制度を運営する事。そして保険料の一定の部分を国費で負担することです。

ビスマルクの考えた労災保険制度は以下の通り。(引用元 ドイツ自由主義と1881~84年の社会保険政策
。①工場・鉱山と一定の業種で働く年収2,000マルク以下の労働者・職員とその雇用者に対して、労災保険への加入を義務づける。(多数の労働者が働いていた
農業の分野は原則として除外)

②労災保険を管理・運用する新たな機関として、帝国保険施設を設置する。

③労災保険による支給は、事故後5週目に入ったときからとし、事故以前の賃金の2/3を補償の上限とする。当人が死亡した場合は、寡婦・遺児に年金を支給するが、合算して生前の賃金の1/2を上限とする。

④保険料は、年収750マルク以下の労働者については2/3を雇用者、1/3を帝国が負担し、750マルクを越え1,000マルク以下の労働者については2/3を雇用者、1/3を労働者、それ以上の年収のある者については労使が1/2ずつ負担する。

⑤同じリスク・クラスに属する経営は地域的にまとまって労災保険のための協同組合を組織することができる。

すごいですね。遺族年金までセットでついています。750マルク以下の労働者には労働者負担がありませんね。

そしてこの提案理由の中には、
「この目標を追求するうえで、社会主義的な要素が立法の中に持ち込まれるのではないかという懸念が、この道を歩むことを思いとどまらせるようなことがあってはならないのである」

とまで記されています。この記述だけ見ても、ビスマルクの意気込みが、決して社会主義者に阿るようなものではなかったことがうかがえますね。

ビスマルクはこのような保険制度のことを「国家社会主義」と呼んだのだそうです。

国家社会主義。第68回の記事 等で、私は北一輝が自身の記した『日本改造法案大綱』の中で、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要である」と記したことを紹介しています。

訳語として同じドイツ語になるのかどうかはわかりませんが、「国家社会主義」という考え方の生みの親はビスマルクだったんですね。

もちろん、北一輝の目指した「国家社会主義」とビスマルクの考えた「国家社会主義」とは全く性質の異なるものですが。

ただし。今回のシリーズのタイトル名である「ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?」。ここに含まれる「ナチス」という言葉。これは、彼のアドルフ・ヒットラーが党首を務めた政党の名前で、正式には「国家社会主義ドイツ労働者党」といいます。

ビスマルクの呼称した「国家社会主義」という言葉が、ドイツ語で正式になんというのかが現在の私にはわかりませんから何とも言えませんが、その「国家社会主義」という言葉が関された「ナチス」。どことなくビスマルク政策の影響を感じさせますね。


第一次・第二次労災保険法案

ところが、帝国議会はビスマルクの提出した第一次労災保険法案を大幅に修正し、保険主体を帝国政府ではなく「各邦国政府」とし、更に保険料は一律で労使が負担。国は負担することのない法案とし、これを可決してしまいます。

ビスマルクは、国家が同保険制度を運営する事。そして保険料の一定の部分を国費で負担する事(低所得者への恩恵)。この2点を最も大切にしていたのですが、結局この2点が議員たちから強い反発を受けることとなりました。

ビスマルクの考え方を全く理解していません。ビスマルクの考え方を「社会主義的」だとしました。自由主義者たちは、社会制度に対する「国家権力の介入」を極端に嫌ったんですね。企業経営の責任は、企業経営者(及び労働者)が負うべきだとしたのです。

企業が賠償責任を負えない場合、労働者の生活をどのように守るのかという発想が全くなかったのだと思います。

そしてビスマルクは、「帝国議会が議決した法案では帝国政府の意図に反して貧しい者に大きな負担を課すことになる」との考え方から、連邦参議院にてこれを否決。再び帝国議会を解散してしまします。(この時点で、ドイツ帝国という国家では、現在の日本でいう「内閣」と「国会」がきちんと分立していることもわかります)

ところが、この時にビスマルクが労災保険法の財源として「煙草専売化」を謳ったことから、これが煙草の値上げにつながると考えた有権者たちにより、保守党や帝国党、分離後の国民自由党は敗北。自由主義勢力が躍進する結果となったのだそうです。


1882年4月に召集された議会において、ビスマルクは再び「第二次労災保険法案」を提出するのですが、この法案では労働者が労災保険を受け取るための機関として、13週間の待機期間が設定されていました。

ビスマルクは、これをカバーするための保険制度として、冒頭で掲載した通り、ビスマルクは「疾病保険法案」も合わせて提出します。これは、労働者が疾病により「就労不能」となった場合の保険制度で、保険料の1/3を使用者が負担することになっていたのだそうです。

今の日本でいう「傷病手当」ですね。この「疾病保険法案」については大きな反発はなく、1883年5月31日に可決されたのだそうです。疾病保険法案は、既に執行されていたいくつかの「疾病金庫」を統合することが目的とされており、その保険料負担が1/3が企業、2/3が雇用者とされていましたから、これは通りやすかったんでしょうね。

ですが、結局「第二次労災保険法案」に関してはビスマルクが根回しを行ったにもかかわらず、結局廃案となりました。

ビスマルクの提示した労災保険法案は、現在の日本の保険制度と同じ「賦課方式」がとられており、これを今の日本で保険制度が批判されるように、「現在のつけを将来にまわす不当な方式である」との批判も行われていたようで・・・なんともはや。

時代は繰り返されるんですね。


第三次労災保険法案

翌年、1884年3月には、三度「労災保険法案」が帝国議会へと提出されます。

この法案の内容は以下の通り。引用元は同じく引用元 ドイツ自由主義と1881~84年の社会保険政策 からです。
①保険義務のある雇用者が全国規模ないし地域規模の「同業協同組合」を結成し、この組織が保険の担い手となる。したがって雇用者のみが負担する。「同業協同組合」は支部を結成することもできる。

②保険料は毎年の補償額を配分する「賦課方式」により徴収され、その際に「リスク・クラス」を反映させる。「同業協同組合」は毎年の補償負担額を越える保険料を徴収して「準備基金」を積み立てることもできる。

③「同業協同組合」の監督・裁決機関として常勤3名・非常勤8名のメンバーから成る「帝国保険庁」を設置する。

④労災発生後13週間は「待機期間」とし、疾病保険が負担する。

つまり、「疾病保険」は既に法案として成立していますので、残る変化は保険料の「国家負担」が排除されたこと。その代わり運営主体として民間保険会社が排除される内容は継続されました。

帝国議会で、ビスマルク案に反対する立場にあった「国民自由党」が、大きくその姿勢を変化させたことで、この第三次案は帝国議会を通過しました。引用資料 によれば、「中央党」「保守党」「帝国党」の3党がビスマルク政府との話し合いでまとめた妥協案が、委員会第二読会(今でいう予算委員会分科会のようなもの)を通過したことが、国民自由党の態度を変化させた大きな要因だったのではないか、とされています。


障害・老齢保険法案

ヴィルヘルム2世とビスマルク

この法案は、現在でいう「老齢年金」及び「障害年金」の事。

ビスマルクがこの法案を提出したのは、1888年11月22日の事。

『70歳以上になったか、あるいは労災と無関係な疾病や事故にあって稼得不能になった場合に支給される年金について定めた法案』です。

実は、この法案が提出された時、既にビスマルクがその「生涯の君主」として誓いを立てたヴィルヘルム1世は崩御(1888年3月9日)しており、更に彼の後を継いだヴィルヘルム1世の息子、フリードリヒ3世もまた1888年6月15日に崩御。

そしてそのドイツ帝国の皇帝の座は、ヴィルヘルム1世の孫、ヴィルヘルム2世へと受け渡されていました。ヴィルヘルム2世に対する記載はまた後日記事にて掲載する予定ですが、ヴィルヘルム2世。

そう。シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 中、第351回の記事 で登場させた、、あの「ヴィルヘルム2世」です。

ビスマルクは、1889年10月、期限切れが迫っている社会主義者鎮圧法を無期限に延長する法案を帝国議会に提出するのですが、様々な政党の反対によって否決されます。

ヴィルヘルム2世も、ビスマルクを支持する保守党も、同法の廃止を求めていたわけではなく、その「追加条項」を廃止することを求めていたのですが、どうもこの時のビスマルクには「焦り」のようなものが見られます。

追加条項に対する弱腰な姿勢を見せるヴィルヘルム2世に対しビスマルクは、
もしこの法案が政府の提案通りに採択されないなら、法律なしで(社会主義者に)対処せねばならず、波は高まるままになり、やがて正面衝突は避けられない。

かかる重大問題において陛下が異なる考えを抱いておられるなら恐らく自分は適所にあるとはいえない

とし辞任をちらつかせてまでヴィルヘルム2世に同法案に対する賛同を求めています。

同法案が否決されたのは1890年1月24日。

2月4日、皇帝より「労働者保護勅令の2月勅令」が発せられるのですが、ビスマルクはこれに対する署名を拒否。更に同勅令で予定されていた労働者保護国際会議の開催に対する妨害工作を図ります。これをきっかけに、ヴィルヘルム2世はビスマルクと決別する姿勢を鮮明にしました。

2月20日に行われた帝国議会選挙では、ビスマルクを支持する「保守党」、「帝国党」、「国民自由党」の3党(カルテル3党)が敗北し、中央党・自由思想家党・ドイツ社会民主党(ドイツ社会主義労働者党が名を変えたもの)の3党が躍進。

3月2日の閣議において、ビスマルクは更に厳しい社会主義者鎮圧法提出の方針を示すのですが・・・

結論から申しますと、社会主義者鎮圧法は、最終的に皇帝より提出をやめるよう命じられたビスマルクが、これをあっさり了承したことで消滅することとなりました。

このあたりのいきさつはまた後日記事にて掲載いたします。

次回記事では、時期をビスマルクのドイツ帝国首相就任時にまで差し戻して、今度は「ビスマルク外交」について記事を作成できればと思っています。



このシリーズの次の記事
>> 第445回 ビスマルクの外交政策~欧州から戦争を一掃したビスマルク体制~
このシリーズの前の記事
>> 第443回 ビスマルクのとった社会主義者対策~社会主義者鎮圧法~

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