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第442回 ビスマルクの恐れた社会主義~パリ・コミューンの樹立~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第441回 普仏戦争以降のドイツとマルクス~ラッサール後のドイツ社会主義~

前回の記事でも記しましたように、現在記事を書いている理由は、「ビスマルクがなぜ社会主義勢力に危機感を覚えるに至ったのか」。この理由を探ることにあります。

「マルクス」という人物に主眼を置いてこれを追いかけているわけですが、前回の記事ではマルクスの視点から見た「普仏戦争」にポイントを置いて記事を作成しました。

今回の記事では更に普仏戦争後、フランスにおいて樹立された「パリ・コミューン」という、「プロレタリア独裁政府」にポイントを置いて記事を作成したいと思います。


パリ20区共和主義中央委員会→パリ20区共和主義代表団

今回も基本的にWikiの記事をベースに進めてみたいと思います。

普仏戦争でナポレオン三世はプロイセンに敗北し、降伏して捕虜となります。

これを受け、パリではクーデターが起こり、ナポレオン三世のフランス帝政(第二帝政)は崩壊します。その後、成立したのが国防政府。(1870年9月4日:共和国宣言)

同政府に対し、ビスマルクが提示した講和条件は非常に穏当なものでした。

そもそも普仏戦争自体が帝政ナポレオン三世政府によって開戦されたものですし、新政府は自らそのナポレオン三世政府をクーデターによってうち倒したわけですから、同政府がこれ以上戦争を続けることはない、と考えていたのが第一点。

そしてビスマルク自身も、これ以上戦火を広げるつもりも毛頭ありませんでしたから。

ところが、何を思ったのか、その新政府は更にビスマルク軍に対して宣戦布告を行ってきたのです。そして、その結果としてフランス国防政府は、ドイツ帝国の間で、更に厳しい条件で講和条約を結ばざるを得ないこととなりました(フランクフルト講和条約)。

フランクフルト講和条約

フランクフルト講和条約

・ドイツ皇帝の承認
・統一ドイツとフランスの領土線の確定(=アルザスの併合)
・アルザス地方からのフランス系住民の追放
・賠償金50億フランの支払い(3年間の期限付き)
・賠償金が支払われなかった場合、国境地帯の重要施設を更に併合する
・特定地域からのドイツ軍撤退

読み込んでみますと、どうも共和国国防政府そのものは早期和平を望んでいた様で、徹底抗戦を要求したのは民衆であったようです。

国防政府そのものはブルジョワ色が強かったことから、パリの労働者たちは「裏切りである」と感じており、この頃からフランスの各都市で、中央政府から離脱し、革命政権として自立する動きが見え始めていたんですね。

普墺戦争や普仏戦争によってナショナリズムが煽られ、バラバラだったドイツ諸国の「ドイツ民族」がビスマルクによって統合されていく「ドイツ帝国」とは真逆の動きがフランスでは起きていたということ。

現在でも「コミューン」という言葉には日本の「市区町村」に相当する様な意味合いがあるのだそうですが、当時のフランスでも「コミューン」という言葉に、「革命自治体」、という意味合いがあったのだそうです。後のロシアで登場する「ソビエト」の様なものですね。

共産主義はもともと「コミュニズム」というものが正式名称ですから、その影響も受けているのだと思います。

1870年9月11日に「パリ二十区共和主義中央委員会」が発足します。

国防政府がプロイセンに宣戦布告したのが9月6日ですから、その5日後の出来事です。ですが、Wiki、「パリ・コミューン」のページによれば、この時点で国防政府は「国防」への関心はすでに薄れていたのだとか。

一方でプロイセンに対する降伏を拒否し、徹底抗戦を主張したのはこの「パリ中央委員会」だったんですね。パリ中央は、『パリ中央は全20区の民主的社会主義者の力を集中する目的を持つ』という規約を採択し、更に『市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議』を採択。

この様に、国防政府の発足が9月4日ですから、国防政府の発足より期を待たず、「パリ中央委員会」は国防政府に対する敵対姿勢を明確にし始めていたんですね。

一方で国防政府もまたパリ中央委員会を阻止しようとする動きに出ましたから、両者の対立は決定的なものとなりました。

この後、プロイセンによってパリ周辺の主要拠点が陥落し、国防政府とパリ中央委員会、及びパリ民衆はいよいよ「休戦」と「徹底抗戦」をめぐる争いへと突入することとなります。

1871年1月、パリ中央は「パリ20区共和主義代表団」へと名称を変更し、国防政府に政権の座を明け渡すよう要求を突きつけます。

この時、パリでは食糧を含む物資が圧倒的に不足しており、この事も代表団側からの要求に加えられていたのですが、代表団は同時に徹底抗戦を求めていました。

ですが、パリ市民がそもそも食糧不足に陥っていたのは、圧倒的な武力の差があるプロイセンに対し、徹底した籠城戦を挑んでいたから。さっさと敗北に意思をしめせば、これ以上苦しむこともないわけですが、彼らにはその発想はなかったということでしょうか。

この間、代表団は国防政府に対し、『市議会を労働者を主体に人民民主主義に基づく准政府(コミューン)とする新決議』に基づく市議会選挙の実施を求め続けていました。

1月28日、国防政府はついにプロイセンと休戦協定を成立させ、パリ籠城戦が終結します。

その後、2月8日にフランスでは総選挙(国政選挙)が行われ、アドルフ・ティエールという人物が「行政長官」を務める新政府が誕生します。(逆に言えば、プロイセンに降伏した後、即座に選挙ができるような状況にあったということ)

そして、ティエールの下でプロイセンと締結されたのが冒頭でお示しした「フランクフルト講和条約」。「講和成立によってパリ市民と政府との亀裂は決定的となった」と記されているのですが、選挙で選ばれたはずなのに、ティエール政権はもうすでに政権としての体をなしていないように感じますね。


パリ20区共和主義代表団と第一インターナショナル

「第一インターナショナル」としていますが、ここでいう第一インターナショナルとは、第一インターナショナルフランス連合評議会の事。第一インターナショナルフランス支部、みたいなもんですね。

選挙において第一インターナショナルフランス連合評議会はパリ20区共和主義代表団、及び労働者連合組合会議と統一戦線を組みました。そしてその後も代表団に対する援助を継続しており、休戦後、2月15日の時点でなお、「いかにプロイセンと戦うか」ということを協議していたようです。

ビスマルクはすでに戦争する必要性など全く考えていませんでしたし、これ以上フランスに攻め込むつもりなど全くなかったにも関わらず、です。

一方のパリ代表団は、共産主義お得意の「機関紙」(ル・クリ・ド・プープル)を刊行し、「原則宣言」なるものを掲載しています。
すべての監視委員のメンバーは、革命的社会主義党に属すると宣言する。

したがって、あらゆる可能な手段によって、ブルジョアジーの特権の廃止、ブルジョアジーの支配階級としての失権、労働者の政治的支配、一言でいえば社会的平等を要求し追及する。<中略>階級そのものも存在しない。労働を社会構成の唯一の基礎と認める。この労働の全成果は、労働者に帰すべきである。

政治的領域においては、共和制を多数決原理の上に置く。それ故に、多数者が国民投票という直接的手段によるにせよ、議会という間接的な手段によるにせよ、人民主権の原則を否定する権利を認めない。

それゆえに現社会が政治と社会の革命的清算によって変革されてしまうまで、あらゆる議会の招集に実力で反対する。<中略>革命的コミューン以外のものは認めない。

つまり、自分たちが所謂「共産主義」革命を目指していることを、堂々と機関紙で訴えたということですね。

一方、国防政府内にもティエール政府に反対する兵士たちが「国民衛兵中央委員会」を組織しました。彼らは、政府軍の統制から外れ、「義勇軍」として行動し、ティエール政府がプロイセンと協定を結んだ後もプロイセン軍に対する抵抗を呼びかけていました。

政府の命令で衛兵軍を排除しようとした政府軍の2名の将軍は逆に衛兵の捕虜とされ、群衆たちによって殺害されてしまいます。

これをきっかけに巻き起こったのが「パリ・コミューン革命」。パリ市民は武装蜂起し、ティエールは軍及び政府関係者とともにヴェルサイユに逃走しました。

この後、パリにおいて「コミューン政府の選挙」が行われ、ついにプロレタリア(労働者階級)による独裁政府、「パリ・コミューン政府」が誕生しました。(1871年3月28日)

パリ・コミューン式典


カール=マルクスとパリ・コミューン

パリ・コミューンそのものはその後、ヴェルサイユ軍によって崩壊。ヴェルサイユ軍によってパリ市民が大虐殺されることとなりました。(1871年5月27日)

普仏戦争が勃発したとき、マルクスは
もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。

そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。

世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している

としてその開戦に熱狂しました。

そしてこの時批判した「プルードンの理論」とは、即ち「アナーキズム(無政府主義)」の事。自身の「プロレタリア独裁論」を否定する考え方を批判する意味で、フランスの社会主義者であるプルードンの名前を用いたわけですが、結果的に自分自身が批判した「プルードン」の地元で、「プロレタリア独裁政府」が誕生しました。

マルクス、ほんとに行けてないと思うのですが、マルクスはそんなパリ・コミューンの成功を、後に「フランスにおける内乱」名前で書籍化される声明で絶賛します。

一方のビスマルクは、この反乱に対し、フランス兵捕虜を釈放し、ティエール政府軍に参加させることで、ティエール政府軍を支援しています。

ビスマルクからすれば、本来ナポレオン三世の降伏で終結させるつもりだった普仏戦争が、パリのプロレタリアートたちによって永続化され、双方に多大な犠牲を生み出すことになったのですから、当然の結果といえるのかもしれません。


ドイツ帝国内において、パリ・コミューン政権が誕生したとき、真っ先にこれに対する支持を表明したのがドイツ社会民主労働党と全ドイツ労働者協会でした。

そして両政党に真の「ラッサール派」はもういません。マルクスが目指す「プロレタリア独裁」、即ち「パリ・コミューン政府」がやったことと同じ「革命」を目指す両勢力が統合され、議席を獲得したのが「ドイツ社会主義労働者党」。

こう考えると、ドイツ帝国誕生後のドイツにおいて、最大の社会主義勢力が誕生し、たかが「12議席」とはいえ、国内で50万票の票数を獲得した同党のことを、ビスマルクが「帝国の敵」であると意識したのも無理はないのではないでしょうか。

さて、いよいよ次回以降の記事では視点を「ビスマルク」へと戻し、ビスマルクのとった対社会主義政策、及び外交政策へと展開していければと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第443回 ビスマルクのとった社会主義者対策~社会主義者鎮圧法~
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>> 第441回 普仏戦争以降のドイツとマルクス~ラッサール後のドイツ社会主義~

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