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第441回 普仏戦争以降のドイツとマルクス~ラッサール後のドイツ社会主義~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第440回 マルクスの視点から見るラッサール死後のドイツ社会主義

現在記事を作成している短期的な目的は、ラッサールの時代、理解を示していた「社会主義」に対して、ビスマルクがなぜそれに危機感を覚えるに至ったのか。これを探ることを目的としています。

社会主義(共産主義)の始祖ともいえる「マルクス」を中心にこれを探ってきたわけですが、私自身が記事を作成していく中で、「ラッサール」という人物に巡り合ったことから、途中よりこの人物の視点からドイツの「社会主義」について記事を作成してきました。

ですが、どうしてもそれだけではすっきりしない部分がありましたので、同じ歴史を今度は「マルクス」の視点から書き直しているのが 前回の記事 よりの内容になります。

前回の記事 では、ラッサール死後の「ドイツ社会主義」を、彼の後継者とされるシュバイツァーとマルクスの関わり、及びもう一つの社会主義勢力であるドイツ社会民主労働党より、マルクスと「リープクネヒト」の関わりから「普墺戦争以前のドイツ社会主義」を検証してみました。

マルクスからの指示を受けて(かどうかは定かではありませんが)、ビスマルクが政治の表舞台に躍り出たプロイセン「ベルリン」に移動したリープクネヒトは、結局ベルリンを追放され、ザクセンの「ライプツィヒ」へと移動します。

彼は、ここでベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しました。普墺戦争の結果を受けてのことです。

「ラッサール派(全ドイツ労働者協会)」に対抗して結成していますので、ベーベルやリープクネヒトは、ラッサール(もしくはラッサール派)の主導する社会主義は、本当の社会主義ではない、と考えていたのかもしれません。彼らの目指す「社会主義」は、その先に「共産主義」を見据えていましたからね。

そんな「ザクセン人民党」は、その中に抱える「矛盾」、即ち「ブルジョワ」と分裂し、新たに「ドイツ社会民主労働党」を結成しました。

ここまでが前回の記事の内容です。

今回の記事では、「普墺戦争」、つまり「北ドイツ連邦」が結成された後のドイツと社会主義陣営の関わりを記事に起こしてみたいと思います。


マルクスと普仏戦争

第422回の記事 で話題にしました様に、「北ドイツ連邦」誕生後、「プロイセンのルールが通用しないドイツ国」である「南ドイツ4カ国」をプロイセンのルールで統一することを目的として、ビスマルクは「普仏戦争」を仕掛けました。

プロイセン王(北ドイツ連邦主席)ヴィルヘルム1世から受け取った「エムズ電報」の一部を省略し、ナポレオン三世の「悪意」が誇張されて見えるように編集したものを新聞に掲載することでフランスを煽り、フランスから戦争を仕掛けさせ、これを南ドイツを含めた「ドイツ民族」の「ナショナリズム」を煽ることに利用しました。

対した準備もせずプロイセンに戦争を吹っ掛けたフランスに対し、プロイセンは法整備まで含めて準備万端。ものの1か月半でナポレオン三世を降伏させました。

その結果として、「ドイツ帝国」が結成されるわけですが、この時「ナショナリズム」を煽られた人物の中に、あの「マルクス」や「エンゲルス」も含まれていたのです。


マルクスとプルードン

プルードン

結局・・・といいますか、マルクスが目指していたものは、ビスマルクによって実現されたものと同じものではなかったのか、とつくづく考えさせられます。

ビスマルクがフランスを撃破していく様に、マルクスもまた熱狂しているのです。

開戦においてマルクスは、フランスに対する批判を以下のように展開しています。
フランス人はぶん殴ってやる必要がある。

もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。

そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。

世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している

いろいろとツッコミを入れてやりたくはなります。マルクスはそもそも「反権威主義」で、ビスマルクのことを「封建主義的である」と批判していた人物です。

何よりフランスに戦争を挑んでいるのはそんな「権威主義」の象徴(とマルクスらが主張する)であるビスマルク率いるプロイセン(と南ドイツを含むドイツ諸国)政府であり、間違っても「ドイツ労働者階級」ではありません。

ですが、マルクスのこの主張によれば、ビスマルクがナポレオン三世を撃破すれば、ドイツ労働者階級の理論が、フランスの労働者階級の理論に勝利することになるわけです。

で、マルクスはその象徴として「プルードンの理論」を挙げています。

では「プルードンの理論」とはそもそも何を言っているのかと申しますと、簡単に説明すれば「アナーキズム(無政府主義)」。マルクス派その状態に至るまでの過程として「プロレタリアによる独裁」が必要だとしていますから、いうなれば「アナーキズム」対「プロレタリア独裁論」。

プルードンは、「アナーキズム」の始祖になるんだそうですよ。この辺り、段々整理できてきました。プルードンはフランス出身の社会主義者であり、彼が発行した「貧困の哲学」という書籍を、マルクスは「哲学の貧困」という書籍で批判していたのだそうです。

マルクスはプルードンに対する対抗意識をむき出しにしていたんですね。

更にエンゲルスは
今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ

と語っていたのだとか。「ドイツの守護天使」が一体何を意図しているのか。「ビスマルク」に他なりませんね。

一体どこまで矛盾しているんだ、この人たちは・・・・と。

1864年9月28日に創設された秘密結社、「第一インターナショナル」の場でマルクスは、
ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。

だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。

こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか

と発言しています。

「ケーニヒグレーツの戦い」とは普墺戦争における対オーストリア戦でオーストリアに対するプロイセンの勝利を決定づけた戦いです。「第二帝政」とはナポレオン三世によって統治されたフランス帝政の事。「ボナパルト」とはナポレオン三世のことです。

そして「ライン川の両岸」とは「ドイツ連邦」の事。

そしてマルクスが「ボナパルト体制」として批判しているのは当時の「北ドイツ連邦」に他なりません。

自分たちが熱狂し、大歓迎していながら、同時に同じ体制を批判する。これ以上矛盾した姿勢はないと思います。

更にマルクスは同じ第一インターナショナルの場で
今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。

もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう

とも発言しています。

ビスマルクはもちろんフランスを征服するために同戦争を起こしたわけではありませんから、マルクスが主張したような行為は行っていませんし、何より普仏戦争後の欧州全体で一切の「戦争」を勃発させなかったのはビスマルクその人。ですがそんなビスマルクに対し、マルクスはナポレオン三世降伏後の普仏戦争に対し、以下のような主張をしています。

・あのドイツの俗物が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる。

・もしプロイセンがアルザス=ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう。

・戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった。

第425回の記事、「ナポレオン三世降伏後の普仏戦争」の章でお伝えしていますように、ビスマルク自身もマルクスが考えるように、ナポレオン三世が降伏した時点で普仏戦争を終結させようと考えていました。

ですが、ナポレオン三世後のフランスで樹立された「共和制政府」が「プロイセンに対して宣戦布告」したことにより戦争は続行されることになりました。

帝政フランスに対して勝利したわけですから、当時の理屈で考えればプロイセンが、敗北したフランスに対して、「領土の割譲」と引き換えに戦争を終結させることは、ある意味当然といえば当然のことです。

しかもプロイセンはその全土の割譲を求めたわけではなく、「アルザス=ロレーヌ」のうちの「アルザス」の、しかも元も両国で領土争いのあった地域に限定した「割譲」を求めたのです。

ですが、マルクスはこの事を更に批判していますね?

この事を更にマルクスは、
もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。

どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。

それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ

とも発言しています。(引用はすべてWikiからの引用です)

ですが、既に述べていますように、この戦争が終結した後、ドイツ帝国が樹立されて以降、独仏間はもとより、ヨーロッパ全土において、少なくともビスマルクが「ドイツ帝国首相」であった期間を通じて「新たな戦争」は起きていません。

戦争の火種を生んだのは「神にへつらうヴィルヘルム」よりもむしろそのあとを継いだヴィルヘルム2世。彼はビスマルクを解任した人物ですね?

そしてドイツ帝国の樹立後、普仏戦争は終結を迎えるわけですが、マルクスはこれに対し、「意気消沈した」とあります。

なんだかなぁ・・・という気持ちが拭えませんね。マルクスが「プロレタリア」としての立場からやりたかったことをビスマルクが「首相」としての立場から全部やり遂げてしまったわけで、マルクスのどことなく「やるせなさ」も感じさせられるシーンです。


「パリ・コミューン」を巡って

さて。ビスマルクに対し、「社会主義勢力」への危機感を抱かせた最大の理由となるのではないか、と考えられるのが、普仏戦争後のフランスで樹立されたプロレタリア独裁政府、「パリ・コミューン」の存在です。

前置きが少し長くなったこともありますので、「パリ・コミューン」に関連した記事は記事を分けて掲載します。


このシリーズの次の記事
>> 第442回 ビスマルクの恐れた社会主義~パリ・コミューンの樹立~
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>> 第440回 マルクスの視点から見るラッサール死後のドイツ社会主義

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