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第440回 マルクスの視点から見るラッサール死後のドイツ社会主義など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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<継承する記事>第439回 ドイツ社会民主労働党と全ドイツ労働者同盟が合併した理由

ドイツという国において「社会主義」というカテゴリーが形成される過程は、前回までの記事である程度捕捉できたと感じていたのですが、どうもやっぱりしっくりこない部分が残ります。

ビスマルクは、元々ラッサールと一定以上の信頼関係を築いており、「社会主義」そのものを敵視していたわけではないと思うのですが、彼の死後、ビスマルク率いるプロイセン政府と社会主義者たちは徐々に対立していく事になります。

普仏戦争の時はドイツ社会民主労働党を結成したベーベルやリープクネヒトが予算の成立に反対したとして「大逆罪」や「不敬罪」で逮捕・投獄されていたり。

わからなくはないのですが、このあたりの経緯を、「マルクス」側の視点から見ると、もう少ししっくりくるものとなるのではないか、と感じたので、この記事では、前回の記事でラッサール側 から追いかけたラッサール死後のドイツ社会主義を、今度は「マルクス」側の視点から追いかけてみたいと思います。


マルクス側の視点から見るラッサール後の全ドイツ労働者同盟

マルクス(1867年)

前回の記事で記していますように、ラッサールの死後、全ドイツ労働者協会の指導をすることとなった「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」が、実際に指導者となるまでの間には紆余曲折があったわけですが、まずはそのあたりから記してみたいと思います。

まず、ラッサールよりラッサール自身の「後継者」として指名されたのはベルンハルト・ベッケルという人物。

ですが、同協会内で衆目を集めていたのは後に会長となるヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー。彼はラッサールの路線を継承し、その考え方を大切にしつつも、ラッサールの考え方に縛られることなく、より柔軟に発展していくべきだと考えていました。

一方で、ラッサールを最も理解しているはずのハッツフェルト伯爵夫人ゾフィーは、ラッサールの考え方を一切変えることなく、そのまま踏襲していくべきだと主張しました。

ここでまずシュヴァイツァーとゾフィーは対立することになるわけです。

私の直感とすれば、ラッサールであれば、ゾフィーよりもシュヴァイツァーの考え方に賛同したのではないか、と思いますね。

ラッサールの考え方を一言一句変えず、そのまま踏襲するというやり方は、まさに「原理主義」。ラッサールがマルクスから離反した最大の理由は、マルクス主義(共産主義)が原理主義的=理想論であり、現実的ではないと考えたから。

なのにそんな自分の考え方が原理主義化してしまえば、それはマルクスと同じ道を歩むことを意味していますから。

で、シュヴァイツァーはそんな自分自身の考え方から、ラッサールと対立する立場にあったマルクスやエンゲルスにも接触を図ります。

そして、そんなシュバイツァーが協会の新聞として刊行したのが「ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)」。シュバイツァーはマルクスに、この新聞への寄稿を依頼するのです。

当時のマルクスはロンドンに居住していましたから、ドイツに影響力を及ぼすために、プロイセンの首都であるベルリンに足がかりを作りたい、と考えていました。そんな理由から、マルクスはシュバイツァーからの依頼に応じます。

ですが、シュバイツァーはもともとラッサールの事を信頼していた人物。シュヴァイツァーに対するラッサールの影響は、機関紙「社会民主主義」にもその端々に表れています。

客観的に考えて、ラッサールは進歩党(自由主義者・ブルジョワジー)に対しては見切りをつけていましたので、進歩党とは一線を画する政策を訴えたわけですが、彼はむしろ進歩党よりも、ビスマルクに対して親近感を覚えていたわけです。


このブログでは再三述べています通り、ビスマルクは確かに「権威主義」的にふるまってこそいますが、彼は「自由主義」を否定しているわけではなく、また「社会主義」的要素も権力側に取り入れる事が必要だと考えていました。

自身がヴィルヘルム1世に対して生涯をかけて「臣下」であり続けることを誓っていた通り、保守的か、革新的かといえば「保守的」でありましたが、それは日本風に言えば「国體(こくたい:国家としての在り方)」に対してのもの。国民の経済活動や社会制度に対してはむしろ「革新的」であったともいえるのではないでしょうか。

ですが、「権威主義(もしくは封建主義)」か、「共産主義」か、その二択しか選択肢のないマルクスらには、そんな感覚を理解することはできません。

マルクスはラッサール路線を引き継いだシュヴァイツァーに対して、
我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術は我々との連携を不可能にするものだった

との考え方を示し、エンゲルスとともに同機関紙に対して絶縁状を突き付けることとなりました。

ゾフィーはシュバイツァーの「ラッサールの考え方を柔軟に変化させていくべきだ」、とする主張に反発したわけですが、これだけを見てもシュバイツァーがいかにラッサールの考え方を大切にしていたのかということがわかりますね。

ちなみに、マルクスはこのラッサール的な考え方「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んで批判しています。


マルクスとリープクネヒ

一方の「ドイツ社会民主労働党」を結成したリープクネヒトですが、彼はドイツよりスイスに亡命した後、スイスから国外追放され、更に亡命した先のロンドンでマルクスと出会っています。「共産主義者同盟」を結成し、ケルンに「凱旋」する前のマルクスです。

Wikiの記述によれば、彼は、ラッサールがビスマルクと接触するようになった頃、(即ち1863年5月頃以降)、これに危機感を覚えたマルクスがベルリンに送り込んだ、所謂「スパイ」であったと記されているのですが、時系列的に若干矛盾するので、この記載は間違いなのではないか、と。

リープクネヒトがベルリン入りするのは1862年。ラッサールがまだビスマルクに対して敵意を抱いていたころの話です。

Wikiの記載では、「不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した」とあります。この「不信感」が一体何に対する不信感なのか。疑問に思うところです。


少し話題がそれましたが、リープクネヒトがベルリン入りした翌年、ラッサールは「全ドイツ労働者協会(同盟)」を結成します。

リープクネヒトはここに加盟し、ここでラッサール派に対するマルクス派への「引き抜き」を行います。

ちなみに、マルクスは、この時ラッサールとともに、ビスマルクより、「国営新聞」の編集を依頼されていたんですね。ですが、マルクスはラッサールとは違い、これを断っています。反権力の意思表示ですね。

シュバイツァーはラッサールの死後、マルクスとも接触を持とうとしたわけですが、ビスマルクもまた、ラッサールだけでなく、マルクスとも接触しようとしていたことになりますね。

ラッサールが決闘で命を落とすのはその翌年。1864年8月の事です。


浪費家「マルクス」

ラッサールは8月に命を落としたわけですが、先んじて1864年5月、マルクスの同志の一人であるヴィルヘルム・ヴォルフという人物も命を落としています。

ヴォルフは倹約家であり、かなりの財産を蓄えていたわけですが、彼は遺言でこの財産のほとんどをマルクスに捧げる事を記していました。

この事でマルクスは突然金回りがよくなるわけですが、金を手にした彼は、突然浪費家となり、その様子は以下のように記されています。
パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになった

で、再び借金を抱えることとなり、エンゲルスがこれを肩代わりすることになりました。

努力により地位と財産を築き、貴族たちと肩を並べる生活を行うまでになったラッサールをとことん批判しまくっていたくせに、最悪ですね、マルクス。


ザクセン人民党の結成

話題をラッサールの死後の話題に戻します。

リープクネヒトは、労働者組合の会議に出席して、オットー・フォン・ビスマルクの政策を攻撃ていたことから、ベルリン(プロイセン)を追放され、彼はザクセンのライプツィヒへと移動します。(1865年)

彼がここで「ラッサール派」に対抗して、ベーベルとともに結成したのが「ザクセン人民党」(1866年8月18日)。
このあたりの経緯は 第433回の記事 でも記していますね。

同記事において、私は「シュヴァイツァー」の事も「ビスマルクに対する反乱分子」と同じカテゴリーで記していますが、シュヴァイツァーは「親ビスマルク」。反乱分子はベーベルとリープクネヒトですね。

第435回の記事 におきまして、「イタリア統一戦争」当時のオーストリアの姿勢をラッサールが批判的に見ていて、オーストリアが「ナショナリズムを踏みにじり続けている」と感じていたことを記しています。

そしてさらに、1859年当時、彼が
「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を併合するのだ。」

と記したしたことも記載しました。

ビスマルクがオーストリアのレヒベルクと意気投合して「シュレースヴィヒ・ホルシュタイン」を巡ってデンマークに戦争を仕掛けたのが1864年。同戦争の講和条約であるバート・ガスタイン協定が結ばれたのが1865年8月14日の事。更に普墺戦争によって両領土どころか北ドイツ全体を統一したのが1866年8月23日の事。

ザクセン人民党は、普墺戦争の結果を受けて結成されました。この段階でシュバイツァーら全ドイツ労働者協会は「親ビスマルク」の立場にありました。つまり、北ドイツ連邦の結成を支持していたのですね。ただ、実際には「支持していた」というよりも「受け入れていた」という表現の方が近いようで、この現状の中で何ができるのか、という発想をしていた様です。

ですが、リープクネヒトらザクセン人民党はこれを批判して結成されたわけです。リープクネヒトらは、この段階に至ってもなお、「オーストリアまで含めたドイツ語圏の統一」を主張していました。

シュバイツァーが全ドイツ労働者協会の会長となるのは1867年5月の事。ですから、ザクセン人民党が結成された時点ではまだシュヴァイツァーは会長にすらなっていなかったことになりますね。


マルクスの「普墺戦争」に対する評価

マルクスは、戦争という方法を使ったビスマルクの「北ドイツの統治」に対し、実は決して否定していないところが面白いところ。

マルクスが目指していたのは

1 ブルジョワ革命によって支配者を滅ぼす
2 プロレタリアート革命によってブルジョワを滅ぼす
3 プロレタリアートが一時的に管理者となり国家を統治。
4 統治者の必要のない社会を作り出す

といったところですから、当初よりお伝えしています通り、ビスマルクの取った方法は、順番や「誰がやるのか」という部分こそ違えども、マルクスの考えと似通った部分があります。

ビスマルクはブルジョワ=自由主義者たちに嫌悪感を抱いています。彼はまず「戦争という暴力」によってプロイセン周辺の自由主義国家から統治権を奪い(1)、国境をなくした上で法によって国家を統治しました(3)。

つまり、3という行程がないことと、これを実行したのが権力側であるということを除けば、マルクスが目指す社会を一部ビスマルクが打ち立ててしまったのです。

逆に言えば、後は3さえ実行し、権力者を滅ぼしさえすれば、マルクスの目的の一部が更に達成されることにもなります。


この後出来上がった「北ドイツ連邦」の「帝国議会」に、「ベーベルとリープクネヒト」、そして「シュバイツァー」はともに立候補し、両者は「帝国議会議員」となります(1867年2月、及び12日8月31)。

2月の段階でザクセン人民党が2議席、8月の段階でザクセン人民党が3議席、全ドイツ労働者協会が2議席となります。

更にベーベルは1868年にザクセン人民党の機関紙として「民主主義週報」を刊行し、これをきっかけとして人民党の規模を拡大。全ドイツ労働者協会と肩を並べる規模にまで勢力を拡大させました。

ただ、ザクセン人民党は中に「ブルジョワ」を抱え込んでおり、同党は分裂し、リープクネヒトやベーベルら、純粋な「社会主義者」による政党、「ドイツ社会民主労働党」が立ち上がることになります。(1869年)


「社会主義者」・・・ですか。ですが、実質的には「共産主義者」と呼称するべきなのかもしれないですね。

彼らが目指しているのはラッサールが目指した「社会主義国家」ではなく、その更に先にある「共産主義国家」なのですから。

次回はここから更に「普仏戦争」裏でのマルクスの動きと、敗戦後のフランスで樹立される「プロレタリア独裁政府パリ・コミューン」に関連した記事を作成できればと思っています。


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