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第439回 ドイツ社会民主労働党と全ドイツ労働者協会が合併した理由など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第438回 ラッサールとビスマルクの邂逅と全ドイツ労働者協会の結成

シリーズの復習

第428回 までの記事におきまして、ビスマルクによるドイツ統一後、「ドイツ帝国首相」としてのビスマルクの政策にポイントを置いて記事を作成していたのですが、その中で私はカトリック政党である「中央党」を法律によって弾圧していたビスマルクが、この「中央党」との連携に迫られることとなったことを知りました。

その理由の一つとして、1873年不況に対応するため、それまでの自由主義政策から保護主義政策に転換したことに伴って、ビスマルクが「自由主義左派」と対立することとなったこと。そしてもう一つ、「社会主義者」たちの台頭にあったことを挙げました。

第430回の記事 において、まずは「自由主義左派」との対立に至る経緯を記事にしました。

記事の中で、ビスマルクはまず「自由主義」そのものを否定するつもりなど毛頭なかったこと。

彼は単に「自由主義」や「保護主義」といった一つのイデオロギーにとらわれることなく、その時の国家が置かれた経済状況や国際状況に合わせて柔軟に政策を転換できる仕組みを念頭においていたわけですが、これを逆にイデオロギーにとらわれた自由主義者たちは理解することができなかったんですね。

結果、ビスマルクは自身の支持政党である「国民自由党」から分裂した同党左派、そしてビスマルク自身が首相として白羽の矢を立てられる一因となった「ドイツ進歩党」への対応を迫られることとなりました。

これが中央党との連携を模索せざるを得なくなった一つ目の理由です。

そして二つ目が「社会主義者」たちの台頭。ですが、私が 今回のシリーズ で記事にしてきた内容の中で、その「社会主義者」というカテゴリーに触れることはありませんでしたから、私自身の中でも唐突感を感じざるを得ませんでした。

なぜここで突然「社会主義者」なるものが台頭することとなったのか。この違和感を払しょくするため、私はまず一人の人物にポイントを当ててこの話題を調べることとしました。

それが「カール=マルクス」です。言わずと知れた共産主義の親のような存在。記事にしている「ドイツ(プロイセン)」の出身ですし、まずは彼から調べることがドイツにおける「社会主義」を知る手掛かりになるだろう、と考えたのがその理由です。

これが、第431回 以降の記事になります。

ある意味意外なことに、マルクスが誕生したのは私が現在記事の中心的な対象であるビスマルクとたった3年しか違いませんでした。そしてマルクスとビスマルクは同じプロイセンの出身だったんですね。

また、調べていて少し整理できてきたのが、「社会主義」と「共産主義」、そして「自由主義」や「民族主義」とは、それぞれが全くの別物であるということ。「社会主義」と「共産主義」非常によく似ていますが、やはり第434回 以降の記事で話題にしたラッサールの登場により、「社会主義」は「共産主義」との間に明確に線引きがされたのではないか、と私は思っています。

そんな「社会主義」と「共産主義」、そして「自由主義」や「民族主義」が同時に登場したのが両者(ビスマルクとマルクス)が活躍した同じ時期。調べていますと、あたかもこれら4つの「イデオロギー」が、同じ思想であるかのようにして記されている部分がありますので、余計にわかりにくくなっているのだと思います。

「共産主義」は別格として、「社会主義」「自由主義」「民族主義」の3つは特にそうですね。

この時点での共産主義(マルクス主義)は、理想論ばかりを展開し、新聞などの印刷物や革命などを通して権力者(貴族や資本家)から労働者に権利を委譲させようとする者たち。

社会主義は理想論ではなく、現実論で共産主義者が目標とする社会と似た社会を実現しようとする者たち。そのためには自由主義者とも協調できる部分では強調しようとしますし、権力者とも議論によって妥協点を探ろうとします。

「自由主義」とは主に資本家たちが目指した市民社会で、権力の市民経済に対する介入を極力少なくし、権力者ではなく「市民」によって運用される社会を目指します。

そして「民族主義」とは、土地や血筋などの「出身」によってカテゴライズされた市民たちが、異民族からの支配から脱却し、「民族」が結束して統治する社会を目指す者たち、といったところでしょうか。

時にそのイデオロギーが重なる場合もありますが、本来それぞれは別々のものだということです。

日本の場合は基本的に単一民族で、支配層であった民族も同じ大和民族。「異民族」ではありませんから、元から「民族主義」などという発想を持つ必要はありません。同じ社会の中に「自由主義」的な要素も「社会主義」的な要素も含まれる社会。それが「日本」です。

「ナショナリズム」などというと非常に仰々しいイメージがありますが、ナショナリズムとは所詮「民族主義」の事。他国で同じような構造の社会って皆無に近いんじゃないでしょうか。


現シリーズの本来の目的

現在進めているカテゴリー、 ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? の親カテゴリーは実はなぜ日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)を起こしたのか という名称になっています。

現在の知識からこのカテゴリー名称を見ると、いかにシリーズを作成し始めた当時の私がものを知らなかったのかということもよくわかりますね。第二次世界大戦を起こしたのは日本ではありませんね?

第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして始まっています。日本はその第二次世界大戦に、1941年12月1日、御前会議において対英米蘭開戦を決定し、これが第二次世界大戦への「参戦」のきっかけとなりました。

太平洋戦争は1941年12月8日のマレー半島上陸、及び同日の真珠湾攻撃をきっかけに始まりました。

ですが、この段階で既に日本は蒋介石軍を相手に日中戦争を開戦しており、これを含めて「大東亜戦争」と呼称することを決めていますので、ある意味「最も早く第二次世界大戦を起こしたのは日本だ」といえなくはないと思いますが。

日中戦争の開始は1937年8月14日に勃発した中国軍による上海空爆=第二次上海事変の勃発からだと考えられますが、両軍は「事実上の宣戦布告」を行ってこそいるものの、正式には宣戦布告を行っていませんから、「戦争」ではなく「事変」と呼称するのが本当は正しいのだと思います。いわゆる「支那事変」です。

今回のシリーズ はドイツの近代史を追ってこそいますが、本来の目的は「日本が第二次世界大戦に参戦した理由」を追いかけるものであることを念頭において記事を見ていただければありがたいです。

特にドイツの近代史を追いかけているのは、多くの方が抱くのではないかと思う疑問。「日本はなぜドイツと同盟したのか」ということを解析することを目的としています。


ラッサール死後の全ドイツ労働者協会

ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー

前回の記事 では、ラッサールの死後の「全ドイツ労働者協会」について、

ラッサールの死後、彼の後を継ぎ、全ドイツ労働者協会の指導をすることとなった「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」。彼が指導した全ドイツ労働者協会は、ラッサールの意思を引き継いで親・ビスマルク路線をとった

と記したのですが、彼が指導者となるまでの間には紆余曲折はあったようです。

シュヴァイツァー自身が同盟の会長となったのは1867年5月の事。ある意味ラッサール的だなと思うのは、彼は会長となるまでの間、ラッサールの考え方に対しても柔軟な考え方をしていた様で、ラッサールに反発する立場であったはずのマルクスやエンゲルス、リープクネヒトらとも接触をしていたのだとか。

そういったこともあり、ラッサールの一番の理解者でもあり、ラッサールが裁判に協力したハッツフェルト伯爵夫人ゾフィーとの対立を生み、シュヴァイツァーが会長として就任後、ゾフィーは全ドイツ労働者協会から分党し、ラッサール派全ドイツ労働者協会という団体を作っています。

ただ、シュヴァイツァーが会長就任後、親ビスマルク路線をとったのは先述した通りで、この間全ドイツ労働者協会はリープクネヒトらのドイツ社会民主労働党と対立することになりました。

ただし、「この間」という表現を用いた通り、シュヴァイツァーが会長職を辞任して以降、全ドイツ労働者協会とドイツ社会民主労働党は急速に接近していくことになります。

シュバイツァーは「北ドイツ連邦」当時(1867年8月)、帝国議会選挙に立候補し他の1名と共に全ドイツ労働者協会で2議席を獲得するのですが、「ドイツ帝国」で行われた1871年3月3日帝国議会選挙では落選。全ドイツ労働者協会全体でも一議席も獲得することができませんでした。

彼の会長辞任の理由はこの選挙結果です。「親ビスマルク路線」をとっていたのは彼でしたから、彼が辞任した後、全ドイツ労働者協会の「親ビスマルク」は以前ほどのものではなくなってしまいます。ドイツ社会民主労働党との間で、お互いに対立する要素がなくなってきたこともあり、両者は急速に歩み寄りを見せることになりました。

翌、1874年1月の帝国議会選挙では、全ドイツ労働者協会で3議席を獲得。正確な議席数は見つけていないのですが、ドイツ社会民主労働党は全ドイツ労働者協会以上に議席数を獲得しており、更に両党が獲得した投票数を合算すれば、後2~3議席獲得できていたのではないか・・・という結果となり、この事が両党を合併へと背中を押すこととなりました。

この時点で、全ドイツ労働者協会からラッサールの精神は失われていた・・・と考えることができるのではないでしょうか。

しかし「野党連合」で議席数を獲得しようとする発想は、今の日本の野党の考え方とも共通する部分がありますね。この時点で、全ドイツ労働者協会はドイツ社会主義労働者党とともに官憲より「弾圧」される立場にもあったことから、両派は連帯感を深め、1875年5月のゴータ大会において両派はついに統一され、ドイツ社会主義労働者党が発足しました。

この結果、1877年の帝国議会総選挙では、ドイツ社会主義労働者党が12議席を獲得。これは当時の議席数全体の9%に及ぶのだそうです。


次回記事では、ビスマルクがこのドイツ社会主義労働者党を恐れた理由と、同勢力に対してとった彼の政策を記事にしていきたいと思います。



このシリーズの次の記事
>> 第440回 マルクスの視点から見るラッサール死後のドイツ社会主義
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