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第437回 ラッサールとビスマルク~「必然」だったと考えられる出会い~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第436回 マルクスとの断絶。現実主義者ラッサールと「夜警国家」批判

マルクスとラッサールの決定的な違いは、マルクスは権力者と敵対関係を作ろうとし、ラッサールは権力者と議論しようとしたこと。

いくら傍から「あの権力者はおかしい。もっとこうすべきだ!」と批判ばかりしていたところで、その声が権力者の下に届くことはありませんし、まして「暴力」によって国家そのものを不安定にしようとする連中に対してこの当時の権力者が「妥協」することなどありません。

結局「革命」を起こして政権そのものを崩壊させ、また一から新しい「政権」を作り上げていくよりほか、方法がなくなってしまうわけです。

ラッサールがある意味「運がよかった」のは、当時の権力者がビスマルクであったこと。とはいえ、ビスマルクが表舞台に登場するまではラッサールの考え方は理解されず、時に逮捕され、権力者から追い立てられる状況にはあったわけですが。

今回の記事は、いよいよその「本丸」。ラッサールとビスマルクが邂逅する場面まで記事を進めていきたいと思います。


邂逅当時のプロイセン

ラッサールとビスマルクが出会う直前のプロイセンの状況を整理してみます。

ビスマルクが、永遠の君主であると誓う「ヴィルヘルム1世」がプロイセン国王となったのが1861年1月2日の事。

続いて「下院選挙(衆議院選挙)」が行われ、自由主義者たちの集団である「ドイツ進歩党」が多数派となるのが同年12月の事。

第417回の記事 におきまして、「ベルリン三月革命」以降の政権側の動きを記事にしました。

この記事の中で、私はビスマルクが首相に任じられた理由として、以下の通り記述しています。

ビスマルクが首相に任じられた目的の一つとして、実は当時の国王が実現しようとしていたプロイセンの「軍制改革」を実行することがあげられます。

プロイセンが自国の権益のため、したたかに実行していた「関税同盟」をめぐって、ロシアの仲介を受けて対オーストリアで大幅な譲歩を迫られることとなった「オルミュッツ協定」。

これを締結せざるを得なくなったのは、プロイセンの軍事態勢がナポレオン戦争当時のままであり、この旧態依然とした軍事態勢がヘッセン=カッセル選帝侯内での武力衝突(オルミュッツ協定を締結する元となったもの)においてプロイセンが武力を撤退せざるを得なくなった最大の理由である、とビスマルクではなく、1861年1月に国王の座へと就いたプロイセン王ヴィルヘルム1世が考えていたのです。

ですが、この当時衆議院の多数派を占めていたのは「自由主義派」の議員。

「自由主義派」とは、ビスマルクたちのように、きちんとした軍事態勢を整えた上で外交交渉に臨むべきだとする「保守派」議員に対し、「武力ではなく、話し合いで解決すべきだ」と考えていた人たちのことをいうわけですね。なるほど。。。

で、この状況を打開するため、プロイセン陸軍大臣であるアルブレヒト・フォン・ローン中将が目をつけていたのがオットー・フォン・ビスマルク。

ヴィルヘルム1世は、ローン中将の推薦を受ける形でビスマルクを首相へと任じました。

現在の私の見識で言いかえるなら、「自由主義者」とは「資本家(ブルジョワジー)」たちの集団の事。で、『この当時衆議院の多数派を占めていたのは「自由主義派」の議員』の『議員』とは「ドイツ進歩党」の議員の事。

オルミュッツ協定を締結した当時も自由主義者たちが多数派であったわけですが、少なくともその当時の自由主義者たちの中には「軍制改革が必要である」とする、後のプロイセン国王ヴィルヘルム1世と同じ認識があったわけです。

ですが、ヴィルヘルム1世が国王となった後で行われた総選挙で多数派を獲得したドイツ進歩党は、「ブルジョワジー」たちの集団。ラッサールが「夜警国家」と批判した通り、民間に対する権力の介入を極力少なくし、国民に自由を与えることを求める連中の集団。

彼らは、予算を軍制改革のために割くことに反対だったんですね。

翌年5月、これを不服としてヴィルヘルム1世は衆議院を解散し、再び総選挙に挑むのですが、その結果は更に状況を悪化させます。

解散前の自由主義勢力161に対し、総選挙後の自由主義勢力は231議席に拡大。このうち進歩党は109議席から135議席まで拡大しました。

この状況を打破するため、白羽の矢が立てられたのがオットー・フォン・ビスマルクです。

ビスマルクは、ヴィルヘルム1世の「軍制改革を断行する勇気ある大臣が現れないなら退位する」というメッセージに対し、

自分は王権を守ることに尽くす忠臣であり、現状でも入閣する用意があり、衆議院の多数派に反してでも軍制改革を断行し、辞職者が出ても怯まない

と返します。そしてヴィルヘルム1世は

それならば貴下とともに闘う事が私の義務だ。私は退位しない。

と返しました。そして、あの「鉄血演説」とともに、ビスマルクはプロイセンの「首相」の座に就くのです。(1862年9月23日)

鉄血演説をもう一度掲載してみます。
全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。

バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンは好きに自由主義をやっていればいい。これらの諸国にプロイセンと同じ役割を期待する者は誰もいないだろう。

プロイセンはすでに何度か逃してしまったチャンスの到来に備えて力を蓄えておかねばならない。

ウィーン条約後のプロイセンの国境は健全な国家運営に好都合とはいえない。現在の問題は演説や多数決 ―これが1848年から1849年の大きな過ちであったが― によってではなく、鉄と血によってのみ解決される

ビスマルク

ここに掲載されている「自由主義」という言葉に、ラッサールの「自由放任主義国家」や「夜警国家」という言葉を重ねてみますと、私自身としても記事でこの演説を紹介した当時に比べてもだいぶんしっくりきます。

プロイセンの「自由主義者」たちは基本的に「小ドイツ主義」。つまり、チェコやハンガリー、イタリアの問題を国内に抱えるオーストリアをドイツから切り離し、「ドイツ民族(ゲルマン語系民族)」だけで「ドイツ民族」として統一することを願っていたわけです。

ベルリン三月革命は本来そういう革命です。

ですが、ビスマルクが名指しした南ドイツ、即ち「バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン」は違います。特にバイエルンは同じ「ドイツ民族」の中でも「バイエルン人」としてオーストリアと考え方が近く、「小ドイツ主義」ではなく「大ドイツ主義」の立場に立っていました。

ですので、ビスマルクがはっきり演説によって明示した国家の「枠組み」は、まさしく自由主義者たちが目指す「国家」であったわけですが、彼らの目指す国家としての「在り方」は、決して「鉄と血によってのみ解決される」ようなものではなかったはずです。

ラッサールがズバリ指摘した通り、彼らの目指す国家としての「在り方」はまさしく「夜警国家」。権力の民間への関わりを極力なくし、民間人の自由に経済活動を行える「国家」であったわけです。

彼らが「民族主義」をさかんに訴えていたのは、本当は「ドイツ民族」として統一することが大切だと思っていたわけではなく、彼らが目指す経済システムに「統治者」が邪魔だったから。

自由主義者たちがプロイセン王国ではなく、勝手に「ドイツ帝国憲法」を作り、その帝国の皇帝として彼らが選んだ人物を据え、彼らが望んだとおりに新しい「国家」を運営できるのなら、彼らが目指す「夜警国家」を実現することもまた、夢物語ではなくなるわけですから。

ですが、そんな自由主義者たちの思惑とは異なり、新国家を設立し、新しい自由主義国家を目指す北ドイツとは違って、南には「分離主義者」、つまりその根底に本当の意味での「民族主義」国家を作りたいと考える国々があり、その一つとして「オーストリア」という国家が存在しています。

またプロイセンの周りにはドイツ諸国だけでなく、フランスやロシア、オスマントルコなどをはじめとする、「武力によってドイツに介入することを望む国家」がたくさんあるわけです。

その象徴として、プロイセンはオーストリアに軍事力で圧倒され、ヘッセン=カッセル選帝侯国からの撤退を余儀なくさせられ、ロシアの介入の下、オーストリアとの間で「オルミュッツ協定」を締結せざるを得なくなる・・・という辛酸をなめさせられることになったのです。

ヴィルヘルム1世や当時の自由主義者たちが「軍制改革が必要だ」と感じたのはまさしくこれが理由でした。

ですから、ビスマルクは南ドイツの国々をあえて「自由主義」と揶揄することでプロイセンとは切り分け、ヴィルヘルム1世の構想通り、「軍制改革の必要性」を「鉄血演説」によって訴えたのです。

自由主義もよいが、その前にまず外敵から攻められても対処できるほどの、もっと言えば外敵に「攻めづらい」と思わせるほどの軍事態勢を整えることの方が大切なのではないか、と。

この当時の自由主義者を見ていると、まるでどこかの日本の「反体制派」の人々を見ているようですけど。

で、この当時の自由主義者たちもまた、現在の日本の「似非左翼」の人々と同じように、ビスマルクが訴えようとしていた一番肝心なところは切り取って、ビスマルクのイメージを貶めるような批判ばかりを行いました。

ですが、それでもビスマルクが首相の座を追われることなく、とどまり続けることができた一番の理由は、「国王との信頼関係」にありました。

この時のビスマルクに対し、ラッサールもまた、以下のような「ビスマルク批判」を行っています。

彼は反動的なユンカーであり、彼に期待しうるのは反動的措置のみです。

さも戦争が差し迫っているかのような口実を設けて、 ―まさか国民はそれを鵜呑みにはしないでしょうが― 剣をガチャつかせて軍制改革予算を通そうとするか、あるいはドイツ統一への何らかの反動的処方を料理しようとするでしょう。

しかしドイツ統一が反動的な土壌の上でできるはずはありません

つまり、この時点ではまだラッサールはビスマルクを批判しており、ビスマルクよりも自由主義者たちの考え方に近かったことがわかります。

しかし、

「さも戦争が差し迫っているかのような口実を設けて、 剣をガチャつかせて軍制改革予算を通そうとするか、あるいはドイツ統一への何らかの反動的処方を料理しようとするでしょう」

という言い回しを見ていると、まるで現安倍政権に対する野党やマスコミの批判を見ているようですね。


ビスマルクとラッサールの「憲法批判」

1863年1月に召集された議会において、ビスマルクは以下のような「憲法批判」を行います。
憲法は3つの立法権(国王、衆議院、貴族院)の同格性を規定しており、いずれの立法権も他の立法権に譲歩を強制することはできない。

それゆえに憲法は三者の妥協の協調を指示しているのである。立法権者の1つが原理原則1点張りで妥協を崩した場合には争議が生じる。

争議は権力問題である。国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかないので、その時には権力を手中にする者は自己の意志で行動できるべきである

ビスマルクは、これまでヴィルヘルム1世がそうしてきたように、自由主義者たちの反発にあい、予算を通すことができませんので、軍制改革に対して予算の裏付けを行わない、「無予算統治」を行います。

上記「憲法批判」は、彼の行ったこの「無予算統治」を正当化するためのものです。

さて。ここで、一つ思い出していただきたいことがあります。

前回の記事において、私は、1862年の総選挙の時、ラッサールが行った「演説」を掲載しました。もう一度内容を掲載します。

【自由主義者に向けた演説】
「憲法問題は法の問題ではなく権力の問題だ。

一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の権力関係の中にしか存在しない。

成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の権力関係の正確な表現である場合のみである」

ビスマルクの演説は、ラッサールがこの演説において指摘した内容そのもの。

ラッサールは、憲法に記された権力関係が実態に即していないものであった場合、憲法そのものが有名無実化することを指摘しました。

そしてビスマルクは、憲法上同格である「三権」、即ち「国王、衆議院、貴族院」が対立していること、これを理由に「国家運営は一瞬たりとも停止するわけにはいかない」として、本来「同格」であるはずなのに、「国王」の権限を優先させました。

ラッサールは、ビスマルクに先んじてこの当時のドイツの憲法、即ち1850年プロイセン憲法の欠点を見抜いていたのです。

そして、この点を指摘した当時のラッサールの考え方はまだビスマルクを批判する立場にあり、「自由主義者」を支持する考え方をしていました。

以下は、ラッサールの演説のうち、先述した「自由主義者に向けた演説」に引き続き、同年(1862年)11月にラッサールが行った演説です。
もはや封建主義は社会的な力ではブルジョワに勝てないのでエセ立憲主義で延命を図っているのであり、エセ立憲主義の仮面さえ剥いでしまえば封建主義は全社会と対立して滅亡することになる。

したがって進歩党は護憲闘争をただちに停止し、むしろ封建主義が今やそれなしでは権力を維持できなくなっているエセ立憲主義を破壊することを目指すべき。

議会は自ら無期限休会を決議し、政府が無予算統治を放棄するまで休会し続けることである。

強力なブルジョワ階級を持つようになった今のプロイセンでは議会なしで統治などできないので、いずれ封建主義は音を上げることになり、その時に国民は真の憲法を勝ち取ることができる

この演説の中で、ラッサールはビスマルクらの「保守的」な政治を「封建主義」として批判していますね。

そして1863年1月の議会に先んじて、ドイツ進歩党の代議士会において、ラッサールの上記の訴えが提出されるのですが、ラッサールの提案は代議士会において却下されます。進歩党の代議士たちは、当時の議会を「似非立憲主義」であるとは考えておらず、「議会」そのものを重要視していたんですね。

何より、「1850年憲法」そのものが、自由主義者たちによって作られたものだったわけですから。進歩党議員たちから見れば、自分たちのその「憲法」が否定されたに等しかったわけです。

自由主義者たちとの連携が必要であると考える社会主義者ラッサールに対し、自由主義者の集団である進歩党議員は逆に敵意をむき出しにしてきます。

ラッサールはそんな自由主義者たちの態度にうんざりし、ついに自ら「労働運動」へと乗り出すこととなりました。


かなり長文となっていますので、一度記事を分けます。



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