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第436回 マルクスとの断絶。現実主義者ラッサールと「夜警国家」批判など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第435回 共産主義者マルクスと社会主義者ラッサール~信頼関係から対立へ~

私自身、ここまで話題が長くなるとは露ぞ、思っていなかったフェルディナント・ラッサール。

ラッサール自身はマルクスを信頼し、資金面でも積極的に支援し、良かれと思って自身の書いた文章をマルクスに送付するわけですが、マルクスはラッサールに金の無心をしておきながら、ラッサールがどんどん成功し、努力によってブルジョワへと成長していく様子を嫉み、僻み、ラッサールのことを批判の対象とする様になってしまいます。

プロイセン国王の代替わりをきっかけに、マルクスをプロイセンへと呼び戻したラッサールですが、マルクスは結局プロイセンの市民権を得ることができず、この後マルクスとラッサールの関係はしばらく途絶えることとなります。


政治運動家としてのラッサール

さて。マルクスと別れた後、ラッサールは政治運動へと身を投じていくことになるのですが、そんな彼に影響を与えたのはオーストリアにおいてイタリア統一運動に邁進するジュゼッペ・ガリバルディという人物。

ガリバルディ

ガリバルディという人物の事を、現時点では深めるつもりはないのでこの程度にしておきますが、Wikiベースの情報では、ラッサールが自身の夫人とともにイタリアに旅行し、ガリバルディと会見し、帰国した後は「ガリバルディの影響で直接的な政治運動が増えていった」とあります。

彼の文筆活動は、「演説原稿」中心となっていきます。

今回のシリーズを通じてビスマルクファンとなった私としては、ここからが非常に面白い。

この頃のラッサールが連携を深めていたのは1848年革命(おそらくベルリン革命三月革命のこと)における革命家たち。その中にローター・ブハーという人物の名前が登場します。革命家たちの中でも特にラッサールと親交が深かった人物です。現段階でローター・ブハーの情報を深めることはしませんが、この人物の名前をご記憶いただきたいと思います。

時期的に1862年当時の事。ヴィルヘルム1世が国王となったのが1861年1月の事。この時点ではまだビスマルクはプロイセンの首相ではありません。

そして同年12月にプロイセンにおいて「衆議院総選挙」が行われます。この時最大議席を獲得したのが自由主義左派政党ドイツ進歩党。ビスマルクと立場の近い保守党は、進歩党105議席に対してわずか15議席しか獲得できなかったのだそうです。

この時プロイセンで用いられていた選挙制度は「三等級選挙制度」。

【三等級選挙制度とは】
ドイツのプロシアで 1849年5月30日、下院議員選挙のために制定され、50年の改訂憲法に取入れられた間接選挙法。

その内容は、各地方自治体で全有権者をその納税累計額が等しくなるように3階級に分け、各階級からそれぞれ同数の議員を選出するというもの。

つまり、圧倒的多数を占める下級納税者とごく少数の上級納税者が同数の議員を選出するという、まったくの大地主・大富豪本位の選挙法であり、1918年 11月のドイツ革命まで、長くプロシア保守勢力のとりでとなった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より)

一応、コトバンクからそのままコピペしたのですが、最後の「1918年11月のドイツ革命まで、長くプロシア保守勢力のとりでとなった」とする記述にはいささか疑問が・・・。

ちなみに「プロシア」と書いているのは「プロイセン」の事です。「下院」とは「衆議院」の事であり、「上院」に相当するのが「貴族院」です。

「三等級選挙制度」をものすごく簡単に言えば、たくさん納税している有権者ほどより自分自身の選挙結果が反映されやすい選挙、ということですね。

ただ、私の記事の目的からすると、この説明文を書いている通りに理解していただきたいわけではもちろんありません。

この選挙制度は「保守勢力」、つまり貴族や王族ほどお金を持っていますから、当然納税額も多くなります。

ですから、元々は貴族や王族に有利にするための選挙制度だったのですが、産業革命によってこれまで一「市民」にすぎなかった「上級市民(ブルジョワ)」もお金持ちになってしまいましたから、貴族や王族よりもむしろそんな「ブルジョワ」の意見の方が反映されやすくなってしまいました。

ブルジョワ=自由主義者ですから、もちろん彼らは「保守派」ではありませんね?

つまるところ、1861年選挙で多数派を得た「ドイツ進歩党」の連中は、そういう連中たちの集まりだということです。

ビスマルクはそんな自由主義者たちに否定的ですから、自由主義者たちが当選しやすいこの「三等級選挙制度」には反対でした。
ラッサールもまた、「社会主義者」ですから、プロレタリア(労働者)ではなくブルジョワ(資本家)が多く当選してしまうこの選挙制度には反対だったのです。

時系列を無視する形になってしまいますので、この話題はいったんここで止めます。


ラッサールの演説

そういえば、そんな言葉、高校時代に習ったよな・・・という言葉がここで登場します。いや、そんな言葉、当時のドイツ、プロイセンの具体的な流れを知らずに突然覚えさせられたって理解できるわけないだろ、と思いっきりツッコミを入れたくなるところです。

1862年春に、「プロイセン下院解散総選挙」が行われるのですが、この総選挙を前に、ラッサールは自由主義者、及びプロレタリアートに向けて二つの演説を行います。

Wikiからそのまま引用します。

【自由主義者に向けた演説】
「憲法問題は法の問題ではなく権力の問題だ。

一国の現実の憲法は、その国に存在する現実の、事実上の権力関係の中にしか存在しない。

成文の憲法が価値と持続力を発揮するのは、それが社会の中にある現在の権力関係の正確な表現である場合のみである」

つまり、「憲法」が現在の権力関係を正確に表現したものでなければ、「成文憲法」をこしらえたとしても全く意味がない、と。本当は国王が最大の権力者なのに、その事が憲法に記されていなければ、その「憲法」に価値はないし、持続して運用することはできない、ってことですね。

「国民主権」と仮に憲法で謳っていたとしても、国王がそれを守らず、勝手にルールを変えることがもし可能なのなら、その憲法に意味はない、と。「憲法は権力を縛るものである」とか主張する「似非左翼」の面々が大喜びしそうな言い回しですが、ここに記されている真の意味合いは決して「似非左翼」がイメージするようなものではない、と私は思うんですけどね。

【労働者に向けた演説】
ヘーゲルによれば国家は道徳的理想と自由を実現するものであるはずなのに自由主義ブルジョワの自由放任主義は不道徳と搾取しかもたらさない。

このような自己の利益を保全するだけの自由放任主義国家は「夜警国家」であり、不適切である。

一方労働者階級の階級全体の改善を図ろうという原理は普遍的で国家の支配原理となるのにふさわしい。

その支配原理を実現する手段は普通選挙・直接選挙である

ここです。「夜警国家」。習いましたよね、世界史の授業で。

この言葉を用いたのは他ならぬこの「フェルディナント・ラッサール」だったんですね。ええ。ラッサールという人物の事を私はこのシリーズを書き始めて初めて知りましたから、当然彼が「夜警国家」という言葉の生みの親であったことなど全く知りませんでしたよ。

ドイツの歴史の中で、ラッサールという人物事態がほんの刹那的に登場したような人物ですし、私がこのシリーズを記したほどに深めて検証しなければ、学生さんたちにとっても全く印象に残らない人物ですよ。

で、そんな「夜警国家」という言葉をただ無責任に覚えさせる学校教育の在り方も正直どうかと思いますよ、これは。ほんと。

ちなみに、「夜警」とは、日本でいえば拍子木を叩きながら夜半に町を練り歩く「火の用心」のようなもの。現代風に言えば店の従業員が出払った後、宝石店が泥棒に襲われないように巡回するガードマンのようなもの。

引用文中でラッサール自身が言っていますが、夜警国家とは、「自由放任主義国家」の事。「夜警国家」も「自由放任主義国家」もともにいわゆる「自由主義国家」を皮肉ったものです。

「自由主義国家」とは、即ち「小さな政府」の事。政府の民間への関わりを極力減らし・・・いうなれば小泉内閣のような感じ。「民間でできることは民間で」のキャッチフレーズの下、政府の仕事を引きはがして民間にゆだねたあんな感じです。

だめだ・・・ラッサールにもめっちゃ共感を覚えてきました。そりゃ、ビスマルクと馬が合うはずです。

第430回の記事 で、ビスマルクの考え方の例えとして、麻生現副大臣が、内閣総理大臣を務めたときの演説を掲載しましたね。

もう一度、同じ文章を引用しておきます。

【「麻生内閣総理大臣講演「私の目指す安心社会(平成21年6月25日)」より抜粋】
  まず、私は単純な小さな政府至上主義から決別をさせていただきました。

この9か月の間に、かつてない規模の経済対策を打ちました。今年度予算の規模は、補正を入れますと100兆円を超えました。市場機能だけではうまくいかない場面があることが、今回の金融・経済危機の教訓です。

その場合に政府が前面に出ることを私は躊躇しません。

しかし、それは決して単なる大きな政府を目指すものではありません。国民の期待に応えるためには、政府の守備範囲は広がります。

例えば、安心できる社会保障や金融機関の規制・監督などです。

しかし、政策を実施するときにはなるべく民間の力を借りて、政府は小さい方がよいのです。

私は大きな政府か、小さな政府かといった単純な選択ではなく、機能する政府、そして、簡素にして国民に温かい政府というものを目指します。
麻生首相スピーチ

そして、これこそが現在の安倍内閣の政策にも通づるもの・・・というより、本来安倍内閣が目指すべき社会構造の在り方だと思います。

ビスマルクも、ラッサールもともに、おそらくは同様な社会構造を目指したのだと思います。一方は「社会主義者」として、一方は「保守主義者、鉄血宰相」として。全く対極に位置する立場から、同じ社会を目指していた・・・というのは非常に興味深いですね。

ただし、ラッサールが自由主義者たちやプロレタリアート(正確には機械製造工)たちに向けて発したこれらの演説は、この時点(1862年)の段階ではビスマルクの下に届くことはなく、翌1863年1月、彼は

 「国民の間に憎悪と軽悔の念を惹起することにより公共の秩序を危うくする」罪

に問われ、逮捕、起訴されることtなります。この時彼は第1審で4か月の禁固刑、控訴審において罰金刑に減刑されています。

ちなみにこの時の演説をまとめて出版したものが「労働者綱領」と呼ばれるもの、なのだそうです。


マルクスとの決裂

さて。ここまでくると、既に「僻み根性と被害妄想」に凝り固まってしまったマルクスと、「共産主義者」ではなく「社会主義者」として非常に現実的な視点を持ち始めたラッサールとの間には、その考え方そのものに大きな開きが生まれてしまっています。

マルクスから久々に届いた手紙をきっかけに、ラッサールはマルクスのいるロンドンを訪れます。

で、この時にマルクスとラッサールとの間の考え方の開きが明白になってしまうんですね。

両者が決裂するきっかけとして大きかったのは、マルクスが自分自身の窮状をラッサールには完全に隠してしまっていたこと。ラッサールを迎えるため、家財一式を売り払わなければならないほどに追い込まれていたのに、ラッサールに対してはそれを隠し、あたかも自分には財産にゆとりがあるかのようにふるまったのです。

ラッサールが鈍感であった、ともいえるのですが、おそらくこれはマルクスのラッサールに対する「虚栄」であったのではないか、と。

ラッサールは元々マルクスの弟子のようなもの。自分自身がここまで追い込まれているのに、ラッサールが成功を収めていることが我慢ならなかったのではないか、と。

ですが、ラッサールはプロイセンに帰国する直前にマルクスの窮状に気づき、エンゲルスを保証人としてマルクスにお金を貸したのだそうです。この後、ラッサールは返済期限をめぐってマルクスともめるのですが、ラッサール自身もマルクスにお金を貸した時点で、「これは戻ってこないな」と思っていたのではないでしょうか。

ですから、そのことを期待もしていなかったのではないか、と。最終的にマルクスから謝罪の手紙が届くのですが、ラッサールはこれに返事を出すことをせず、そのまま両者の関係は途絶えてしまいます。


さて、この後、ラッサールは「全ドイツ労働者同盟」を結成し、その代表者としてビスマルクと出会うことになるのですが・・・。

その話はまた後日。両者の出会いについてはできれば丁寧に記したいな、とも考えていますので、本日はここで記事を終えることとします。




このシリーズの次の記事
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