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第435回 共産主義者マルクスと社会主義者ラッサール~信頼関係から対立へ~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第434回 フェルディナント・ラッサール~マルクスとの出会い~

マルクスとの対立

ラッサール
カール=マルクス

パリに亡命し、パリからロンドンに更に亡命したマルクスと、プロイセンに残ったラッサール。

ラッサールはマルクスから無心される続けるのですが、ラッサールはこれを不快に思うことなく、マルクスを慕い続けるのですが、逆にマルクスはそんなラッサールに対し、「嫉妬」するようになります。

ラッサール自身も1848年革命においては、その革命を指導する立場にありましたので、マルクスと同じくプロイセン政府より監視される立場にありました。

ただ、これは私のラッサールに対する印象ですが、ラッサールはマルクスのような共産主義者で、暴力による革命を扇動する、という考え方よりもむしろ、彼の支援者たちに担ぎ上げられ、英雄的扱いを受けたことから、どちらかというと「正義の味方」であるかのような、そんな感覚だったのではないでしょうか?

そして彼が支援していた伯爵夫人。彼女は放蕩者の夫から様々な迫害を受けており、夫からの離婚を希望していたのですが、これが認められないため、ラッサールはこれを支援し、伯爵と法定にて争っていました。ラッサールは伯爵に対して決闘まで申し込んだほどだったのだそうです。

マルクスのラッサールに対する嫉妬心が強くなるのは、この伯爵夫人の法廷闘争が終結し、伯爵夫人が巨額の財産を獲得することとなったあたりから。

ラッサールもその恩恵にあずかり、生活が裕福になったんですね。

ところが、一方のマルクスはラッサールやエンゲルスをはじめ、様々な知人に生活費を無心し、わずかな執筆活動などを通じてもなお、乞食同然の生活を強いられる状況にありました。

ラッサールは大学の卒論として書き始めたまま放置されていた、「ヘラクレイトスの哲学」という論文を完成させ、これを親しくなった出版業者フランツ・ドゥンカーという人物に協力してもらい、書籍として出版することになります。

この本はかなり好評で、ベルリン哲学学会の会員に迎え入れられ、華々しい社交生活を送るようになります。彼のそんな生活はまさに「ブルジョワ」。マルクスらが批判するまさにそのままの生活をラッサールは送り始めたわけです。

更にラッサールはそんな「ヘラクレイトスの哲学」をマルクスにも批評してもらおうとその書籍をマルクスに送り付けます。

ラッサールには全く悪気はありません。マルクスからの無心にも応じていますし、本当にラッサールはマルクスを慕っていたのだと思います。

ですが、マルクスにとってそんなラッサールの成功を快く思うわけがありません。ロンドンで彼はラッサールに対する怒りをぶちまけます。

この時ラッサールはすでに伯爵夫人の下を離れ、ライン地方からベルリンに移っていたのですが、とある事件をきっかけに、ラッサールは警察から目をつけられることになり、ベルリンから再び追放されます。(1858年6月)

で、この時逃亡先であったスイスでラッサールは皇太弟ヴィルヘルムに助けを求めることになります。

ヴィルヘルム。のちにビスマルクが生涯彼の下を支え続けることを決断したのちのプロイセン皇帝(ドイツ皇帝)ヴィルヘルム
1世です。ヴィルヘルムは妃がビスマルクと対立するほどに熱心な自由主義者だったこともあり、ラッサールの立場にも理解があったのだと思います。

ヴィルヘルムがまさに摂政となったそのタイミングであったこともあり、ラッサールは無事、10月にベルリンへと帰還することができました。


イタリア統一戦争をめぐる対立

1859年、マルクスは「経済学批判」という書籍の出版に取り掛かります。

これを支援したのがラッサールで、彼の知人であるフランツ・ドゥンカーを通じての出版なのですが、同じタイミングでラッサールは『フランツ・フォン・ジッキンゲン』という舞台脚本を執筆するのですが、ラッサールはこれをまたマルクスに送り付けます。

これもまた悪意があるわけではなく、ラッサールは純粋にマルクスを慕って、マルクスに批評してもらいたいと思っての事なのですが、これはマルクスの神経を逆なでしました。マルクスの頭の中に、そんな舞台演劇にかまっている暇などなかったのですから。

この時マルクスはラッサールに脚本を批評ではなく「批判」する返事を突き返していますので、ラッサールもさすがに「悪いことしたかな」という程度の認識は覚えたのではないでしょうか。


そして、両者の対立を決定づけたのが「イタリア統一戦争」をめぐる解釈の違いでした。

イタリア統一戦争とは、ナポレオン三世が、イタリアとフランスの間に領土を構える「サルデーニャ王国(後の「イタリア」)と連合し、オーストリアに対して仕掛けた戦争です。(この後、イタリアは独立します)

1859年におきた戦争ですが、この戦争をめぐって、エンゲルスが『ポー川とライン川』という小冊子を出版します。これを手伝ったのはもちろんラッサール。出版社はドゥンガー書店です。

ライン川

英語の地図なのでわかりにくいかもしれませんが、ドイツの中央を流れる太い川、蛍光色で色付けされているのがライン川。ドイツをちょうど東西に分断しているのがわかると思います。

エンゲルスはこの書籍の中でナポレオン三世がこの「ライン川」まで進出する事を最終目標にしているとし、オーストリアを支持する姿勢を示しました。そしてマルクスもこれを支持します。

ところが、ラッサールはこれに異を唱えるんですね。ウィキの記載をそのまま引用しますと、以下の通り。
専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである

ナポレオン三世とオーストリア、両方を批判しながら、それでもナポレオン三世を支持しているような記載になっています。

ナポレオン三世って、何より後の第1インターナショナルの結成にも力を貸した人物ですからね。

で、ラッサールは更に自身の著書として『イタリア戦争とプロイセンの義務』とする小冊子まで発行しています。で、この冊子の記述として面白いと感じるのは、以下の件。

「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を併合するのだ。」

この時はまだ1859年。ビスマルクは首相にすらなっていません。

ですが、図らずもビスマルクは後の世でラッサールが予言した通りの軍事行動を行いましたね。

つまり、ビスマルクとラッサールは考え方がとてもよく似ていたことを示唆するいきさつです。

マルクスはこの時、ラッサールに対して「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」とする趣旨の返事を送り付けています。

この頃ラッサールは、投資に失敗して大損をしたことから、マルクスの無心を渋る姿勢を示したりもしたようですね。で、マルクスはこれでラッサールに対する不信を加速させた・・・とのことですが、どうもマルクスって・・・。まぁ、多くは語りますまい。


マルクスの帰国

ヴィルヘルム王子がプロイセン国王となった1861年、国王が政治的亡命者に大赦を行います。つまり、これまでの罪を大目に見るから戻っておいでよ、といった趣旨のことを行ったのです。

ラッサールは、これを受けてマルクスにも帰国を進め、プロイセンはラッサールに援助を受けてプロイセンに帰国し、ラッサール宅に滞在しました。

ところが、この時ラッサールはがマルクスに対して取り計らった「もてなし」は、まさしくマルクスが実現しようとするものとは真逆の待遇。マルクスが批判する「ブルジョワ」もしくは「貴族」的待遇だったんですね。

結局マルクスのプロイセン人としての市民権回復は認められず、マルクスは早々にロンドンへと変えることになりました。

マルクスにとってラッサールは、自身が革命によって倒さなければならない「ブルジョワ」となり果てていた・・・ということでしょうか。

ですけどこれ、結局マルクスのラッサールに対する「僻み」以外の何者でもないと私は思います。

その後、マルクスとラッサールのやり取りはしばらく途絶えることとなります。


追いかけてみると、意外とこの「フェルディナント・ラッサール」という人物、興味深い人物ですね。

その後、ラッサールは政治運動へと歩みを進めることとなり、ビスマルクとも出会うこととなるのですが、内容をもう少し深めたいので、今回はこのあたりで記事を終了します。

続きはまた後日。



このシリーズの次の記事
>> 第436回 マルクスとの断絶。現実主義者ラッサールと「夜警国家」批判
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