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第434回 フェルディナント・ラッサール~マルクスとの出会い~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第433回 ドイツ社会主義労働者党の結成~ベーベルとリープクネヒト~

シリーズ、 ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? の現時点での位置づけとして、ヒットラーが登場する前の「ドイツ」を形作った、その中心人物ともいえる「ビスマルク」。

ドイツ統一後、彼がその対策に追われることとなった「社会主義」陣営。

ドイツを統一するまで、ビスマルクの政策に大きな影響を与えることはなかった「社会主義者」が、統一後のドイツで突然ビスマルクが大きく政策転換をしなければならないほどに影響力を持つこととなったわけですが、ではその「社会主義」陣営がどのようにして「ドイツ」に入り込み、「政治」の中に姿を現すこととなったのか。

これを追いかけているのが現時点のシリーズにおける位置づけです。


復習をいたしますと、そもそもビスマルクがその対策を考えなければならなくなった大きな原因は、社会主義者たちの政党である「社会主義労働者党」が帝国議会総選挙において議席を獲得したことにあります。

特にプロイセンの首相となって以降、ビスマルクの政策の中で一貫しているのは、自国内、または自国周辺に「不安定要素」を作らせないこと。

普墺戦争において北ドイツを武力によって制圧したのは、特にプロイセン周辺の「自由主義勢力」がプロイセンの国情を不安定にする最大要因だと考えていたからです。

これらの国々を平定し、「法律」によってプロイセン(正確にはビスマルク)の影響が及ぶ状況を作っておけば、プロイセンの「平和」を脅かす要因を未然にシャットアウトすることができます。

その後普仏戦争を利用して南ドイツまで統一してしまったのも同じ理由です。

特に北ドイツ国民を中心に民衆が目指した「ドイツ統一」は、「ドイツ民族の統一」を目指したものでしたが、ビスマルクはこれを利用してドイツ全土を同じ一つの法律の影響下に置くことで、国家の「安定」を図ろうとしていたのです。

ところが、ビスマルクが実現させた世界と同じ状況を「革命」によって実現させようとしていたのが言わずと知れたカール・マルクス。そしてそんなマルクスの意思を引き継いでいたのが「ドイツ社会主義労働者党」であったわけです。

「ドイツ社会主義労働者党」は、前回の記事で話題にしたベーベルやリープクネヒトが結成した「ドイツ社会民主労働党」と、本日話題にする予定の「フェルディナント・ラッサール」が結成した「全ドイツ労働者協会」が合流して誕生した政党です。


ということで、本日の記事は、ビスマルクに警戒心を抱かせることとなった社会主義政党、「ドイツ社会主義労働者党」。そのもう一つの源流となった「全ドイツ労働者協会」と、その中心人物となった「フェルディナント・ラッサール」にポイントを絞って記事を作成してみたいと思います。

ラッサール


フェルディナント・ラッサール

実は、前回の記事 で彼を中心に記事を作成しようと考えていたのですが、意外ともう片方の「ドイツ社会主義労働者党」を結成したベーベルやリープクネヒトの話題が厚みを持ってしまったので、ラッサールの話題は今回の記事に先延ばしとなってしまいました。

ビスマルクが誕生したのは1815年4月1日、マルクスが誕生したのは1818年5月5日。場所は共にプロイセン。

ビスマルクが誕生したほぼ3年後に誕生したのがマルクスで、同じ国に生まれた両者ですが、少なくとも私が情報を追いかける限り、歴史上で両者が直接接触する機会はなかったようです。

ですが、今回の記事で話題にする「ラッサール」の面白いところは、彼はそんなビスマルクとマルクスの両者に直接接触し、交流する機会のあった数少ない人物であったということです。

ラッサールが誕生したのは1825年4月11日。ビスマルクやマルクスと同じプロイセンの出身です。両者が誕生してより約10年後に誕生したことになりますね。

ビスマルクが「ユンカー(地主)」、マルクスが「弁護士」の家庭に生まれたのに対し、ラッサールは「絹商人」の裕福な家庭に誕生しています。マルクスとラッサールはともにユダヤ人の家系です。

ラッサールが育ったシュレージエン地方は、ユダヤ人に対する差別意識が強い地域だったらしく、貧しいユダヤ人は「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人を強制的に押し込めるための区域に住まわされていたのだそうです。

ラッサール自身は裕福な家庭に生まれましたから、そのような迫害を受けることはなかったのですが、ユダヤ人差別を目の当たりにして育つことになりました。

一方のマルクスが居住した地域は「トーリア」という地域で、シュレージエンのようにユダヤ人が迫害されることはありませんでした。マルクスは、彼の父が自由主義者であり、宗教的なこだわりを持たない人物であった事から、彼自身もおそらく自分がユダヤ人である、ということに対するこだわりはそう強くなかったのではないでしょうか。

一方のラッサールは、前述したとおり、ユダヤ人差別を目の当たりにして育つ環境にあったため、かえって自分自身がユダヤ人であることを意識して育つこととになりました。

ただし、迫害されても全く立ち上がろうともしないユダヤ人たちに対し、ラッサール自身は徐々に幻滅していったのだそうです。


学生時代のラッサール

ラッサールの人生を追いかけてみますと、どうも「プロイセン」という国そのものにユダヤ人に対する差別意識が根付いているように感じますね。

ラッサールがマルクスと同じ「反体制派」に傾倒していく流れとして、プロイセン王国のユダヤ人に対する差別意識があったようです。なぜなのか、ということはもう少し調べてみる必要があるようですが、Wikiベースですと、プロイセン王国ではユダヤ人に出世の道は開かれていなかった、との記述がみられます。

ラッサール自身にはキリスト教に改宗するつもりはありませんでしたので、当然そういった「体制」を打ち破っていく以外に方法はなかったのでしょうね。(マルクスは逆に6歳の時、プロテスタントに改宗しています)

ラッサールは、1843年10月にブレスラウ大学という大学に入学するのですが、ここで彼は「ブルシェンシャフト」という学生結社連合に加入し、ここでリーダー的な存在となります。

1844年4月には「ベルリン大学」に移籍します。彼が関心を持っていたのは「ヘーゲル哲学」。「ヘーゲル」とはフランス革命の時代に活躍した哲学者で、マルクスもまたこのヘーゲルという人物から影響を受けています。「ヘーゲル哲学」で登場するのは「弁証法」という言葉です。

「弁証法」とは、単純に言えば「論理的な物事の考え方」とでも言うべきでしょうか。現時点では私の頭の中で、「これが弁証法だ」とか、「これがヘーゲル哲学だ」といった類の明確な答えはありません。現時点ではこれを理解することに意味はないと考えていますので、この話題はここでとどめておきます。


社会主義者、ラッサール

ラッサールは、このベルリン大学においてヘーゲルだけでなく、様々な社会主義者から影響を受けることになります。

ラッサールは子供のころから頭がよかったらしく、父親からも「未来のユダヤ人解放者」として期待を抱かれていたのだそうです。

しかしラッサールはこの頃から、ユダヤ人だけでなく、「あらゆる被抑圧者」、つまり「差別を受ける対象となる人たち」を解放することを目指すようになったのだそうです。つまり、彼自身が「社会主義者」となったのですね。

ちなみにこの時点ではまだ彼はマルクスには出会っていません。

彼はマルクスと会うより先に、「無政府主義の父」と呼ばれるプルードンや、マルクスも影響を受けている詩人、「ハイネ」とも直接出会っています。ハイネって、私の中では「詩人」としてのイメージしかないのですが、どうも彼もまたマルクスやラッサールに対して、「社会主義」的な素養で影響を与えているようです。


ややこしいので詳細は端折りますが、ラッサールは、裁判においてとある伯爵夫人を支援しようとした結果、「窃盗罪」を疑われ、警察に逮捕されます。

ですが、彼は自身の裁判において自由と民主主義を訴えて弁舌をふるい、彼は無罪判決を勝ち取ります。

この時、彼がもともと支援しようとしていた伯爵夫人が「反封建主義集会」においてラッサールを支持する世論を盛り上げるなどしており、無罪を勝ち取ったラッサールは、一躍革命派の英雄となってしまいます。

これがちょうどベルリンにおいて三月革命が起きたその年であり、釈放されたラッサールは、この年にマルクス、エンゲルスと初めて顔を合わせます。この時エンゲルスはラッサールに対してあまり良い印象を持ちませんでしたが、マルクスは逆に好印象を抱いたのだそうです。

この後、ラッサールはマルクスと連携し、ラッサールの地元であるライン地方において、革命運動を指導する立場となります。マルクスが刊行した「新ライン新聞」の名称の通り、マルクスがパリより移住してきた「ケルン」もまたライン地方にあります。


しかし、第432回の記事 でもふれた通り、マルクスらの活動はうまくいかず、ラッサールもまた1848年11月22日に官憲に逮捕されることとなります。罪名は、「王権に対する武装抵抗の教唆」。(同日、マルクもまた反逆容疑で逮捕されています)

ですが、ラッサールはこの時にも無罪を勝ち取り、釈放されることになります(1849年5月)。面白いのは、ドイツではこの頃既に「陪審員制度」がとられていたんですね。(マルクスもまた、2月の陪審員裁判で無罪を勝ち取っています)

ラッサールが2度も無罪判決を受けた理由は、陪審員の中に「民主主義派」が多かったから。マルクスが無罪となった理由も同じです。

ラッサールは、この後再び「軍隊および役人に対する武装抵抗の教唆」という罪名で逮捕され、禁固6か月の判決を受けます。(1849年7月)

彼はこの時、刑を執行される前に一時的に釈放されるのですが、同年6月の時点でマルクスはパリに亡命しています。

マルクスはパリにおいて一文無し状態。パリからラッサールに対し生活資金を無心してきました。この時ラッサールはマルクスを支援するため、募金活動を行いましたが、逆にマルクスは自身の惨めな生活を世間に知られることを嫌がり、ラッサールの行動に憤慨したのだそうです。


記事が長くなりましたので、いったんラッサールに関する記事を終了し、次回記事に続きを委ねます。




このシリーズの次の記事
>> 第435回 共産主義者マルクスと社会主義者ラッサール~信頼関係から対立へ~
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>> 第433回 ドイツ社会民主労働者党の結成~ベーベルとリープクネヒト~

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