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第433回 ドイツ社会民主労働者党の結成~ベーベルとリープクネヒト~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第432回 ドイツにはどのようにして共産主義が入り込んだのか~マルクスの影響

前回までの記事では、「ドイツ帝国」成立より時代を遡り、再び「1848年革命(ベルリン・ウィーン革命)」の時代にまで針を戻して、今度はビスマルクの考え方とは対極に位置する「マルクス」という人物にポイントを絞って記事を作成してみました。

ここまで「ドイツ」という国の歴史を 今シリーズ を通じて調べてきたわけですが、改めて私の中では「オットー・フォン・ビスマルク」という人物に対する評価は鰻登りです。

これまで、仮に「あなたが歴史上の人物の中で最も尊敬する人物は誰ですか」と聞かれれば、これは間違いなく「高橋是清」であったわけですが、ビスマルクは是清に匹敵する評価ですね。

学校でもきちんと教えるべきじゃないか、と私は思います。そしてこれはこれから検証を進めていく予定である「ナチス」とこれを率いた「ヒットラー」という人物を検証する上でも、おそらくキーポイントとなるのではないか、と予感しています。現段階ではまだ想像にすぎませんが。


今回の記事では、前回の記事 の文末で触れた、「ラッサール」という人物、及び「アウグスト・ベーベル」、そして「ヴィルヘルム・リープクネヒト」という3人の人物にポイントを絞って記事を作成してみたいと思います。

現時点で私はこの3人事を全く知りません。ですが、この3名がビスマルクと対立することになる、「ドイツ社会主義労働者党」の結成に関わる様です。


「アウグスト・ベーベル」と「ヴィルヘルム・リープクネヒト」

ラッサールに着目した、最大の理由は単純で、ビスマルクがカトリック政党である中央党とよりを戻さなければならなくなった2つの理由のうち、「社会主義者の台頭」にあります。

その象徴ともいえるのが「ドイツ社会主義労働者党」という政党です。

ざっくりと遡ると、「ドイツ社会主義労働者党」は、今回話題にする「ラッサール(フェルディナント・ラッサール)」が創設した「全ドイツ労働者協会」と、「アウグスト・ベーベル」が「アイゼナハ」というザクセンの都市で結成した「ドイツ社会民主労働党」という政党が合同して結成されたもの。
ベーベル

ラッサールはマルクスと元々仲が良かったわけですが、1862年6月にラッサールがロンドンを訪問したのを最後に、両者の交流は途絶えています。

一方、ベーベルは、1865年7月、「ヴィルヘルム・リープクネヒト」との出会いをきっかけに「マルクス主義者」となり、その延長線上で結成したのが「ドイツ社会民主労働党」です。

リープクネヒトはこれまでに登場した社会主義者(もしくは共産主義者)の中で、唯一共産主義に傾倒する明確な理由を持った人物で、彼は彼の叔父が逮捕され、拷問や侮辱に耐え切れずに自殺したことを受け、このことが反社会運動に加わるきっかけになっています。
リープクネヒト

彼は亡命先のスイスでドイツ人労働者協会を組織した後、1850年に逮捕され、スイスから追放され、ロンドンに渡ります。

ここで彼はマルクスやエンゲルスと知り合うことになり、「共産主義者」となりました。

ベーベルがリープクネヒトと出会うのは1865年7月の事。少し話題を先取りしますが、実はこの時点で将来両者が結成する「ドイツ社会民主労働党」と合同する予定の「全ドイツ労働者協会」を創設したラッサールはすでに死亡しています。

リープクネヒトはマルクスやエンゲルスと行動するようになった後、1862年にプロイセンへ帰国しました。ですが、この時労働者組合の会議においてビスマルクの政策批判を行ったことが理由で、プロイセンを追われ、ザクセンのライプツィヒへと移住します。

ここで『中央ドイツ民報』という新聞の編集者となり、この地でベーベルと知り合いました。


「アウグスト・ベーベル」

一方のアウグスト・ベーベルですが、彼が生まれた場所は「ケルン」。1848年にマルクスがやってきて「共産主義者同盟」の本部を構える場所です。

ケルンはナポレオン戦争後、ウィーン会議によってフランスからプロイセンに割譲された「ラインラント」にある都市です。

彼の父は陸軍の下士官だったのですが、6歳で父が、13歳で母親が他界し、伯母に引き取られた後、「職人」としての道を歩み始めます。ここでいわゆる「労働組居」に加入し、「1863年6月にフランクフルトで開催された労働組合会議にライプツィヒ労働者教育協会の代表として出席(Wikiより)」します。(1863年6月)

この頃、ベーベルはラッサールの「労働者は政治上独立の態度をとるべきである」とする考え方に反対していました。

ラッサールはこの後、1864年8月に決闘により死亡します。


この時のベーベルの考え方は、「使用者と非使用者」は「協調」することができる、という考え方でした。あくまでWikiベースですが、「労働者」とは表現していませんね。

「使用者」とはすなわち「資本家(=自由主義者、ブルジョワ)」の事、「非使用者」とは「労働者(=プロレタリアート)」の事です。

この後、ベーベルはラッサールの死後、1864年10月に第二回労働組合会議で議長、及び組合会議の常任委員となり、彼の居住するライプツィヒで組合活動(ストライキ)を行う中で、自身が「協調可能」と考える自由主義者たちが労働者の要求に反対し、彼らの日ごろの言動とは異なる動きをしていることを知ります。

この時点でのベーベルの所属は「労働者教化組合」。労働組合会議にはもう一つ、ラッサールが創設した「全ドイツ労働者同盟」も参加していました。

ベーベルがリープクネヒトと出会うのはこの頃(1865年7月)です。ベーベルとしては、「共産主義」に一番感化されやすい時期だったんでしょうね。


ベーベルが議長を務めた第二回労働組合会議が開催されたその翌月、ロンドンではナポレオン三世の出資により「国際労働者同盟(第一インターナショナル)」が結成されていjます。

第一インターナショナル・・・記事を改めて読んでみましたが、懐かしいですね。

ちなみにここで、
この時組織された委員会によってパリの労働者に向けて行われた宣言文が、

『資本家たちが脅しとして使う外国人労働者の輸入などの手段に対抗するためには、労働者の国際組織が必要である』

との内容。(ここには少し違和感を覚えますね。当時ヨーロッパでは産業革命が起きており、資本主義が確立しつつあったため、この時点で「労働者」のアンチテーゼは「王政」ではなく「資本家」に変わっていた、ということでしょうか。
ポーランドの反乱とは直接関係がない感覚に違和感を覚えます。この辺りはもう少し調査が必要かもしれません。)

と記していますが、答えはもう出ていますね。

「この時組織された委員会」が組織されたのは第一インターナショナル結成直前の事です。

この時点で「労働者」のアンチテーゼは「ブルジョワ」。つまり資本家であり、自由主義者たちです。記事内でナショナリズムを「国民主義」と言い換えていますが、国民主義ではなく「民族主義」。両者は明らかに違いますね。


話が脱線しましたが、この「第一インターナショナル」の「設立宣言」を作成したのはマルクスです。

そして、リープクネヒトと出会ったベーベルは、リープクネヒトと出会ったその翌年、前記した「第一インターナショナル」に加入します。


情報が多いので複雑だと感じさせてしまうと申し訳ないのですが、この時期はちょうど「普墺戦争」が行われた時期に当たります。

私のブログ的に記しますと、「普墺戦争」は、「ビスマルクが武力によって北ドイツを占領し、同じルールの中で活動する一つの『国家』とするために起こした戦争」です。

そしてビスマルクは「王政側」の人間。先ほどの第一インターナショナルの記事の件(くだり)ではありませんが、元々「労働者(プロレタリアート)」と「資本家(ブルジョワ)」は「市民」という一つのカテゴリーを形成しており、共産主義革命の源流ともいえる「市民革命」は、元々こういった「王政による支配」を崩壊させるために起こされたものです。

マルクスたちの考え方からすれば、資本家たち自由主義者による革命を起こす必要がある、と考えるのは、ブルジョワ以前にまず「王政(もしくは帝政)」を打破することが必要である、と考えるからであり、ビスマルクのこのような動きは彼らからすれば「時代に逆行している」ようにしか見えなかったのではないでしょうか?

これ以上この動きを拡大させるわけにはいかない、と考えたベーベルとリープクネヒトは、「ザクセン人民党」という政党を結成します。

マルクスの意思を引き継いでいるな、と感じるのは、この政党の目的は、まずはブルジョワではなく、プロイセンの「権威主義」を打ち倒すことにあったこと。ですから、この政党は「共産主義政党」ではなく、「社会主義的な労働者階級とブルジョワ民主主義者との政治的連携を図った政党」でした。

ベーベルとリープクネヒトは、共に1867年2月12日に行われた北ドイツ連邦憲法制定議会選挙に出馬。ベーベルは当選するのですが、リープクネヒトは落選するものの、1867年8月31日の帝国議会選挙ではリープクネヒトも当選します。

この時の選挙では、ベーベルやリープクネヒトら、ザクセン人民党以外にも、全ドイツ労働者協会(つまりラッサール派)より、「ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー」という人物も当選していました。

こうしてみると、ビスマルクに対する「反乱分子」である社会主義者が、ドイツ議会の中に入り込んだのはまさしくこの時だったんですね。


ザクセン人民党はすでに記した通り、王政の打倒を目指していましたから、内側に純粋な「共産主義者」だけでなく、「自由主義」を目指す勢力も含まれていましたから、当然のごとく考え方の違いから崩壊・分裂し、1869年、ベーベルとリープクネヒトは、「ドイツ社会民主労働党」を結成しすることとなりました。

ドイツ社会民主労働党は、「アイゼナハ」という都市で結成されましたので、「アイゼナハ派」とも呼ばれるのだそうです。


さて。次回記事では今回触れることのできなかったラッサールと、もう一つの社会主義勢力、「全ドイツ労働者協会」の成立に視点を絞って記事を作成してみたいと思います。



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