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第432回 ドイツにはどのようにして共産主義が入り込んだのか~マルクスの影響など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第431回 カール=マルクスという人物~「唯物史観」と「剰余利益論」

今回作成する記事の目的は、ビスマルクが、自身が法律による弾圧を試みた「カトリック」。その教徒が中心となって結成した「中央党」と協力関係を気づかなければならないほどに危険性を感じた、ドイツの「社会主義勢力」。これが、一体どのようにして誕生するに至ったのか、この視点で記事を作成しようと思います。


ドイツにおける「社会主義」は一体どのようにして広まったのか

作成していて、難しさを感じるのは、そもそもドイツという国でなぜ「社会主義勢力」が生まれたのかということ。情報があまり多くないんですよね。

マルクスを調べればある程度のガイドラインが見えてくるかとも思ったのですが、彼が具体的にドイツの「共産主義化」に尽力しようとし始めるのは1848年、ベルリン三月革命の頃。ですが、ネット上の記述を見ると、ドイツに「社会主義者」や「共産主義者」が流入し始めたのは1830年のフランス七月革命がきっかけである、と記されています。

ややこしいのは、この当時のドイツをはじめとするヨーロッパで誕生し始めたのは「社会主義者」や「共産主義者」だけでなく、「自由主義者」や「民族主義者」など、そもそも誰がどのグループに含まれるのかという部分がものすごくごちゃごちゃになっています。

多分他のヨーロッパ諸国も同様だったと思うのですが、プロイセンで言えばこの頃から、学生などをはじめ、国民の一部が集団となり、「グループ」を作ることを非常に警戒していた様子が見られます。

数名が集まって政治的な話をしようとしただけで、政府や警察から監視されるような身分になるんですね。ドイツに対する批判として、ドイツが「封建的」であるとの記述もよく見られます。

つまるところ、「社会主義者」であろうが、「共産主義者」であろうが、「自由主義者」であろうが、「民族主義者」であろうが、グループを作り、反乱を起こすきっかけとなる集団は、大きくなる前につぶされる。これがこの当時のドイツの傾向であった、ということでしょうか。

そして、ビスマルクの時代にビスマルクのターゲットとなる社会主義政党の源流は、ドイツ内部ではなく、「国外に追放されたドイツ人」たちによって結成されたものである傾向が強いようです。

その、一番初めのグループとして名前が登場するのが「追放者同盟」。1834年、フランスのパリで結成されています。

1837年、この「追放者同盟」より分離して、「正義者同盟」なるものが誕生します。このグループがドイツ人によって結成された、初めての「共産主義秘密結社」なのだそうです。

簡単に記しますが、この「正義者同盟」の分裂に「マルクス」や「エンゲルス」が立ち上げた「ブリュッセル共産主義通信委員会」が介入。正義者同盟の中心的人物であったカール・シャッパーはマルクスと連携し。

その後、本部をフランスのパリからイギリスのロンドンへ移すのですが、正義者同盟内における自分自身の立場が危なくなったジャッパーはマルクスに同盟への加盟を要請。

マルクスを引き入れた正義者同盟は1847年6月、「共産主義者同盟」と名前を変えます。同年11月に開催された第2回共産主義者同盟大会において、マルクスは「共産党宣言(共産主義者宣言)」を発表します。

前回の記事 でご紹介した、

共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。

支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。

プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。

万国のプロレタリアよ、団結せよ。

の文言で結ばれる、あの文章ですね。ちなみに、「万国のプロレタリア、団結せよ」という言葉は、マルクスが考えたわけではなく、共産主義者同盟が結成された第1回大会において、元々「正義者同盟」の中心人物であるカール・シャッパーが考えたもの。

共産党宣言は、ジャッパーの校閲を経て決まったものです。つまり、その内容はジャッパーの影響を強く受けているわけですね。

しかし、その後はジャッパーではなく、マルクス自身が共産主義者同盟の中心となっていきます。

マルクスが共産主義者同盟に加入した当初、マルクスはベルギーのブリュッセルにいました。1848年二月、フランスで二月革命が起きた後、マルクスは一時的にベルギー警察に逮捕され、追放される形でフランスのパリに移動します。

共産主義者同盟本部はロンドンからパリに移転しました。ここでマルクスは「ドイツ労働者クラブ」を結成します。共産主義者同盟は秘密結社だったんで、表立ってその名前を掲げることができなかったんですね。


マルクスの「強権」

「共産主義者同盟」においてジャッパーに代わりその中心的な存在となった「マルクス」。

この時点でマルクスたちが行おうとしていたことは、ドイツ連邦外ドイツ人労働者を結集してドイツ連邦内に送り込むこと。

共産主義らしいなと思うのは、この時マルクスが考えていた策略は、労働者たちによってドイツ連邦内に共産主義運動運動が必要だとする考え方を持つ人たちを草の根的に増やし、煽っていくこと。実際に後にマルクス自身もドイツ内(ケルン)に入り、「新ライン新聞」なるものを作成しています。

要は「プロパガンダ」と「扇動」によって革命に向けた機運をドイツ内で高めようとしたんですね。

マルクスは、共産主義革命を起こすにはまず、フランスやイギリスのようなブルジョワ革命(いわゆる自由主義革命)を起こすことが必要だと考えていたようで、最初はこの「ブルジョワ革命」を起こすことを支援しようとするのですが、どうも「新ライン新聞」そのものはそんなブルジョワを批判し、プロレタリアを支持するような内容になっています。

そして、マルクスから見ると、「ベルリン革命」は失敗であり、「ウィーン革命」は「反革命運動」になるのだそうです。


少し話題を先行させてしまいましたが、パリに拠点を構えたマルクスは、まずドイツ内に「ドイツ人労働者(という名の工作員)」を送り込もうとするのですが、送り込まれるはずのドイツ人労働者たちは気の早い連中が多かったようで、マルクスの意図に反してすぐに武装して武力によって国境を超えようとするものが多かったのだそうです。

もちろんそんな行動はすぐに領内国によって阻止されてしまいます。そしてマルクスはそんな行動を「ばかげた計画」であるとし、それが「ドイツ革命」を阻害すると考えていたようです。

そして、マルクスは共産主義同盟のメンバーを次々と工作員としてドイツ各国に送り込みます。その数は、最終的には300人~400人になっていたのだとか。

そして、ベルリン革命の起こった1848年4月、マルクスは自分自身も家族とともにドイツのライン地方、「ケルン」という都市に入ります。

新ライン新聞

先述した「新ライン新聞」はその発行資金を得る意図からも、名目を「民主主義(ブルジョワの最左翼)の機関紙」とし、マルクスは、まずはブルジョワ革命(自由主義革命)を起こし、ドイツの「封建主義」を打倒するために邁進します。

送り込まれた共産主義者同盟の面々には、

 「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」

と訴えていました。軽々しく武装蜂起を起こすことには反対だったんですね、マルクスは。

またこの時、

「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」

との主張もしていたようで、この辺りは 第350回の記事 で触れた、マルクスの「共産党宣言」の一節にも通じるのかもしれません。

要は、ロシアとドイツとの間で戦争を起こさせることで、ロシア国内の社会主義者たちをあおり、共産主義革命(もしくはその前段階である社会主義革命)を起こさせようとしていたのでしょうか。


「革命」の衰退

しかし、結局マルクスの思惑は思うようには進まず、今シリーズ で長々と記してきた通り、革命の機運は衰退し、「社会主義」的な思想ではなく、「自由主義」的な思想でドイツ連邦はその道を歩み始めました。

オーストリアはマルクスの支援しようとしたイタリアの民族運動を鎮圧。ハンガリーやチェコの武装蜂起を鎮圧したことはすでに記事にした通り。

ベルリンで発足した「自由主義内閣」もどんどん封建主義的な性格を帯び始めます。ビスマルクらが活躍しましたからね。

マルクスが新ライン新聞で自由主義者(ブルジョワ)たちに対して批判的な記事を書き始めたのはこのことに危機感を覚えたから、であるようです。Wikiに掲載されている批判文を引用してみます。

「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。

ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」

ハイゼマンの内閣とは、ベルリン三月革命後に誕生した自由主義内閣ですね。ハイゼマンはマルクスでいうところの「ブルジョワ(資本家)」です。

あくまでもドイツ語を日本語に訳したものですので、その訳者の意図が含まれてはいますが、文字通りに読みますと、「民主主義的」といいながら、「全人民を同盟者にする」とか、「支配を勝ち取る」とか、実に暴力的な表現となっています。

「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」

「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」

このような様子を見て、「ベルリン革命は失敗」だと感じたわけですね。

その後、マルクスはプロイセン政府からの監視対象となりながらも、翌1849年5月まで「新ライン新聞」を刊行し続けます。

ベルリン三月革命の後、「自由主義的な」ドイツ統一を望む民衆たちが発足させた「フランクフルト国民会議」。ここで制定された「ドイツ国憲法」と、この憲法によって皇帝となることを要請されたプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこの憲法と戴冠の要請を拒否。

これをきっかけとしてヨーロッパ各地で革命の機運が縮小していく中、バーテンやバイエルンで武装蜂起が勃発します。

この様子を、マルクスは喜び勇んで「新ライン新聞」の記事として取り上げるのですが、このことをきっかけとしてマルクスら新ライン新聞のメンバーは国外追放処分とされました。

マルクスはパリに亡命するものの、そのころのパリはすでに後のナポレオン三世(1世の甥)が大統領を務める世となっており、6月に勃発した武装蜂起をきっかけに、外国人は監視対象とされており、最終的にマルクスはロンドンへと亡命することになります。

この時マルクスと交流があり、マルクスにイギリスへ亡命する資金を渡した「ラッサール」という人物が、後にビスマルクにとっての「脅威」となる「社会主義労働者党」。この源流となる政党を作った人物です。

ドイツ領内で、「社会主義勢力」がどのようにして蔓延したのか。それは今回マルクスのドイツ領内での動きを見て、何となくわかってきました。

それでは、次回記事では、マルクスがドイツを去った後マルクスが引き入れ、プロパガンダによって扇動した「社会主義勢力」が、この後ドイツ領内でどのように発展していくのか。この様子を追いかけてみたいと思います。



このシリーズの次の記事
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