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第430回 ビスマルクと自由主義左派の対立~「イデオロギー」の危険性~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第428回 ドイツ帝国における「自由貿易」と「保護貿易」~ビスマルクの経済政策~

前回の記事は、現在の安倍内閣やリーマンショック時の麻生内閣、F=ルーズベルト大統領の下で行われたニューディール政策やケインズ政策、高橋是清の財政政策などとドイツ帝国が誕生した当初にビスマルクが行った経済政策を比較する形で記事にしました。

少しだけ記したかった内容を記すことができていない部分がありましたので、冒頭に少しだけ補足して本題に入ります。


ビスマルクは、プロイセン以外の国々が、民衆の側から起こった「自由主義」や「民族主義」に翻弄され、冷静な判断ができなくなっていることを懸念していました。幸いにもビスマルクのいるプロイセンは、そのような「思想」に振り回されることなく、その時々で必要な政策を適宜実行してきました。

ビスマルクが自由主義側に傾倒したかのような記述を見ることもありますが、それはあくまでも「ドイツ」領内においてのこと。ビスマルク自身も「自由主義」や「民族主義」が悪いとは思っていなかったわけで、これが前提条件も、決まり事も設けられることなく、ただ無節操に執り行われいたことを批判的に見ていたのではないでしょうか。

これは現在の日本でも非常によく見かけられることですが、単なる「権利の主張」にすぎなかったものが、いつの間にかイデオロギー化し、何一つ統治機構を持っていないのに、それがあたかも一つの国家であるかのようにしてふるまわれる様子は、ビスマルクのような人物には非常に危険な状況であると目に映っていたのかもしれません。


第213回の記事 で、TPPについて説明する中で私は「EPA」と「FTA」についてご説明したかと思います。

EPAとは日本語で「経済連携協定」のこと。FTAとは「自由貿易協定」のこと。何気に参考となる情報として掲載したつもりだったのですが、はっきりと書かれていましたね。FTAが「自由貿易協定」である、と。

更に詳細な内容を引用しますと、

EPAは「関税だけでなく知的財産の保護や投資ルールの整備なども含めた協定」のこと。
FTAは「関税の撤廃・削減を定める協定」のこと。

ビスマルクの時代に、そこまで明確な考え方が存在したわけではないでしょうが、自由主義者たちや民族主義者たちが目指していた「自由貿易」とは、即ち「FTA」のこと。一方でビスマルクが構想していた「自由貿易」とは、「EPA」のことだったのではないでしょうか?

既に記していますが、安倍内閣で実行されたTPPはもちろん「EPA」であり、「FTA」ではありません。

前回の記事で掲載した安倍首相の所信表明演説の中で、安倍さんが「保護貿易の台頭」を「懸念」していたり、「今こそ日本は自由貿易の旗手として、新しい時代のルール作りを主導していかなければなりません」と発言していたりする事例を示しました。

安倍さんは「保護貿易」を否定し、日本が「自由貿易」の旗手となることを高らかに宣言しているわけですが、私が言いたいのは、安倍さんが目指している「自由主義」とは、ウィーン体制後のドイツ連邦において、連邦諸国が前提条件すら定めることなく、話し合いのためのルールすら定めることなく実現しようとしていたあの「自由貿易」ではない、ということです。

ビスマルクはドイツ連邦を「ドイツ帝国」としてまとめ上げるため、まずは連邦各国に対して「前提条件」を示したうえで、自国(プロイセン)が決めたことを尊重することを要求しました。

要求した上で「この決まり事に賛同できない国はこの同盟には入ってこないでください」とあらかじめ境界線を引いていたわけです。そして、当初旗振り役であったはずのオーストリアは、「ドイツ帝国」からは完全に排除されてしまいました。

安倍内閣で執り行われた「TPP交渉」も同じことだと思います。米国主導で、既に決まりかけていた「TPP交渉」に後から割って入り、タフネゴシエーターと呼ばれた甘利さんの交渉の下、日本(だけでなく参加するアメリカ以外の国々)が有利になるように決まり事を変えさせ、最終的に米国をTPPの枠組みから追い出してしまったわけです。

日本はその後もTPPだけでなく、ヨーロッパとも「経済協力」のための交渉を行いますが、逆にアメリカは「自由貿易」のための交渉を行います。自由貿易が本当に有利に働くのは、米国や中国のような「経済大国」が、そうではない小国を相手に貿易を行う場合だけです。

ニュース等で米国は「保護貿易に転じた」かのように報じられていますが、あの国がやろうとしているのは、かつてのドイツ連邦諸国が行おうとしていたような「自由貿易」です。

ですが、貿易には当然「ルール」が必要です。ルールを交渉せず、自国の要求ばかりを主張しようとするものですから、最終的には米国と中国のような関税合戦になり、あたかも「保護貿易に転じた」かのように見えてしまうのです。


ビスマルクも最終的に「保護関税法」という法律を制定し、関税によって自国企業を守ろうとする姿勢を見せましたが、これは突如としてドイツに「1873年不況」が襲い掛かったわけですから、これはある意味当然のことと思います。

そして、この時ビスマルクが実行した「保護関税法」の対象国は、「ドイツ帝国以外の国々」。ドイツがあたかも一つの民族で形成された、「国家」であるかのように考えるからこれが「保護貿易」であるかのように見えてしまいますが、ビスマルクは「ドイツ帝国内」の「旧連邦諸国」に対しては自由貿易を継続しています。

だってそれ以外の国々とは前提となる「ルール」が異なるんですから。しかも当時は相手の失政に乗じて相手の領土を奪おうと虎視眈々と狙っている国家のオンパレードだったんですから。


ということで、前置きが少しばかり長くなりすぎてしまいましたが、本題に入ります。

前回前々回 の記事で触れましたように、ドイツ帝国首相となった当初、自由主義者たちを取り込むため、また自身も将来的な不安定要素になると考えていたカトリックを法的に政治から分断させようとしていたビスマルク。

そんなビスマルクが、自由主義者たちとの対立や社会主義者たちの台頭を受け、当初よりの方針を転換し、カトリックたちによって構成される「中央党」と強調せざるを得ない状況が生まれました。

今回の記事は、そういったビスマルクの自由主義者たちとの対立や社会主義者たちの台頭について話題にしたいと考えています。


ビスマルクと自由主義者たちの対立

第427回の記事、及び 第428回の記事 は、このテーマの伏線として作成しました。

ビスマルクが自由主義者たちと対立することなった最大の理由は、「1873年不況」の勃発に他なりません。


「自由主義」にしても、「社会主義」にしても、これって結局「イデオロギー」なんですよね。高校の時の国語の授業で、「イデオロギー」の意味を、「概念」として習った記憶があります。「概念っていったい何なの」、と聞かれてしまうと、これほど答えづらい言葉はないのですが、それはつまり「イデオロギー」もまた一緒。

「イデオロギーって何?」って聞かれても、「これがイデオロギーだ」とわかりやすく答えることは難しいのですが、最もわかりやすく、近い言葉は実は「思想」なんじゃないかと思います。

「思想」の意味はと申しますと、Wikiで説明されている表現が最もわかりやすいのではないかと思います。

人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのこと。

一言で言えば、この説明書きの最後にある、「あるまとまった考え」。これが「思想」であり、「概念」であり、「イデオロギー」といって差し支えないと思います。

ですが、どんな「思想」であれ、「概念」であれ、これが絶対に正しいという考え方なんて存在しません。だからこそ他の考え方を吸収し、または後世の人間がこれを修正して、どんどん意味合いが変わっていくんです。

ところが、「この考え方が絶対的に正しい」と主張する人が登場し、他の考え方を全く受け入れない社会が誕生してしまうと、これほど生きづらい社会はありません。しかし、それを政治的に利用しようと考えたり、あるいは完全に洗脳されてしまって、それが本当に絶対的であると信じてその考え方しか存在しない社会を作ろうと考える人々がいるのも事実。

ビスマルク時代の「自由主義者」や「社会主義者」って、きっとそういう存在だったんだと思います。

私自身、記しながら少し熱くなっていますが、これは最近日本で起きているとある現象に対して覚えている私自身の「怒り」も少し反映されていますので、ご容赦いただければと思います。では何に対する怒りなのかという記事は、「外伝」的に、他のシリーズ内で記すつもりです。

ビスマルクはそういった「イデオロギー」に縛られていなかったんでしょうね。だから時勢に合わせて柔軟に政策の転換ができましたし、彼って実は「争い」を最も嫌っていたんじゃないかと思うんですよね。

それが証拠に、彼が「ドイツ帝国首相」であった時代のヨーロッパでは、実は「戦争」が一度も勃発していないんだそうです。普仏戦争が最後の戦争だったんですね。

ドイツ帝国首相としてのビスマルクの外交は、後日記事にするつもりですが、その思想(『イデオロギーではないですよ』)はフランス第二革命後の彼の姿勢を通じて一貫しているように感じます。


またしても大きく話題がそれましたが、ビスマルクはそもそも「自由主義」という考え方そのものが悪い、と考えているわけではありません。(←これまで彼の記事を記してきた私自身の印象ですので、断言することをご容赦ください)

だからこそドイツを平定した後の彼は自由主義を推進しましたし、それを実現するための法整備も次々に整えました。ですが、それはあくまで「同じルールで管理できる社会」にのみ適応させたわけで、そうではない社会とは、時勢に合わせてそれこそ「是々非々」で対応してきました。

国外の情勢が安定しており、国外と取引をすることが自国の利益につながるのであればそちらを優先するが、国外の情勢が不安定な時はいったん門を狭め、国外と国内の経済の行き来を限定することで国内の経済を守る。国外が安定してくれば再び門を開いて国内の市場を開放する。

国を統治するものとして、こういった思想はとても大切なものだと思うのです。

また少し脱線しますが、日本でも同じような考え方を持ち、国家のリーダーであった時代にこれをはっきりと主張した人物がいます。やっぱりそれも麻生さんなんです。

【「麻生内閣総理大臣講演「私の目指す安心社会(平成21年6月25日)」より抜粋】
  まず、私は単純な小さな政府至上主義から決別をさせていただきました。

この9か月の間に、かつてない規模の経済対策を打ちました。今年度予算の規模は、補正を入れますと100兆円を超えました。市場機能だけではうまくいかない場面があることが、今回の金融・経済危機の教訓です。

その場合に政府が前面に出ることを私は躊躇しません。

しかし、それは決して単なる大きな政府を目指すものではありません。国民の期待に応えるためには、政府の守備範囲は広がります。

例えば、安心できる社会保障や金融機関の規制・監督などです。

しかし、政策を実施するときにはなるべく民間の力を借りて、政府は小さい方がよいのです。

私は大きな政府か、小さな政府かといった単純な選択ではなく、機能する政府、そして、簡素にして国民に温かい政府というものを目指します。

麻生首相スピーチ

実は、麻生さんは、この考え方を現安倍内閣でもずっと大切になさっているのではないか、と私は考えています。

だからこそ、高橋洋一氏のように金融政策一辺倒の主張を行う陣営に批判的な主張を行っているのではないか、と。実際には高橋洋一ではなく、竹中平蔵をターゲットにしてきたわけですが、日銀政策に依存する政策を主張するという点で、両者の考え方は一致しています。

ビスマルク時代の自由主義者たちも同様だと思います。

ビスマルクは結果的に「保護関税法」を成立させ、国外からドイツ帝国内への流通を制限した上で、ドイツ国内、特に鉄道や電信などのインフラ整備に「投資」を行い、1873年から1896年にかけての「デフレ不況」から最も早く脱出させました。これは立派な「実績」といえるのではないでしょうか?

ですが、結局当時ビスマルクを支援していたはずの国民自由党の帝国議会議員たちの一部はビスマルクと対立し、ビスマルクと対立する立場にあった自由主義者たちの政党、ドイツ進歩党と合流。ドイツ自由思想家党を結成しました。自由思想家党・・・「思想」っていう言葉が見事に入ってますね。

更にドイツ自由思想家党は1881年と1884年の2回の帝国議会選挙で躍進し、84年の選挙ではついに国民自由党の議席数を追い抜きます。

この時同じく議席を伸ばしていたのが「社会主義労働者党」。

麻生内閣が敗れ、民主党が政権をとったときととてもよく似ていますね。麻生内閣当時より安倍内閣にかけて、自民党と協力関係にあるのは創価学会員で構成される「公明党」。

ビスマルクが協力関係を築かざるを得なかったのもカトリック教徒で構成される「中央党」ですから、このあたりもとてもよく似ています。

この後はWikiよりそのまま抜粋しますが、
これに対抗してビスマルクは当時不穏になっていた国際情勢を利用してポーランド系住民蜂起の可能性やフランス対独報復主義の危険性など対外脅威論を強調するようになり、それ以外の「取るに足らない」法律論議をしようとする者、軍や政府の要求を受け入れない者はすべて「帝国の敵」「非愛国」であるというレッテル貼りを強化し、自由主義左派勢力や社会主義勢力を追い詰めた。

とあります。このあたりの手法は、どちらかというと安倍内閣とよく似ているように感じます。

ただ、これもひょっとすると筆者のレッテル貼りである可能性もあるのではないかな、と。それは、のちの記事で記そうと考えているビスマルクの「外交政策」の側面から見るとうっすらと想像できるはずです。

安倍内閣も北朝鮮や中国の脅威を「煽っている」ように日本の「社会主義者もどき」の面々には映っているでしょうけれど、しかし外交上、これに対応できる体制を作ることは、とても大切なことです。

ビスマルクの時代も同じことであったのではないかと思います。この一節の中で、「ポーランド人のプロイセンからの追放」が話題に上るのですが、この話題はビスマルクの「外交」を見ていく中で追及していきたいと思います。このことは、のちの「独露関係の悪化」にも関係するのだそうです。


自由主義左派勢力や社会主義勢力を追い詰めた上で、ビスマルクは国民自由党と共に「保守党」、「帝国党」という二つの政党とともに「カルテル」と呼ばれる選挙協力関係を築き、翌1887年の帝国議会選挙ではこの三党が圧勝し、「絶対多数」を確保するに至ったのだそうです。

話題が多くなりましたので、今回はいったん記事を終了し次回記事では特にビスマルクの行った「社会主義者」たちに対する政策を中心に記事を進めてみたいと思います。



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