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第428回 ドイツ帝国における「自由貿易」と「保護貿易」~ビスマルクの経済政策~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第427回 ビスマルクの文化闘争と1873年恐慌~ウィーン証券取引所の崩壊~

「ビスマルクの経済政策」と記していますが、多分この時にビスマルクがとった経済政策にポイントを当てて記事にしているサイトって、存在しないんじゃないでしょうか・・・。あくまでも私の推測にはなりますが。

今回の記事では、時代を現代とリンクさせ、場所を過去と現代の日本やアメリカへとリンクさせます。

なので、少し「外伝」的な要素も含まれますが、あくまでもテーマの本旨としては、今後ナチスドイツの誕生に向けたビスマルク時代の「ドイツ帝国」についての記事です。


今回はまず産経新聞の記事。先日(2018年9月20日)に行われた、日本の自由民主党総裁選に向けて、9月10日に安倍首相が、「自民党総裁」として行った「所信表明演説」のご紹介から始めます。

といっても、掲載するのはその発言の一節のみにはなりますが。

【自民党総裁選・所見発表演説会詳報】より抜粋
「さて、世界は今、保護主義の台頭に対して懸念が深まっています。経済のグローバル化の中、急速な変化に対して不安や不満が生じています。

しかし、貿易制限措置の応酬はどの国の利益にもなりません。

むしろ、知的財産、環境、労働といった幅広い分野において公正なルールを打ち出していくことによって、この不安や不満に対応し、そして世界の貿易、投資を拡大していくという発想に立たなければなりません。

だからこそ日本はTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)11、日EU経済連携協定(EPA)においてリーダーシップを発揮し、合意へと導いてまいりました。

今こそ日本は自由貿易の旗手として、新しい時代のルール作りを主導していかなければなりません」

安倍総裁所信表明(産経より)

抜粋部分の冒頭で、安倍首相は「世界は今、保護主義の台頭に対して懸念が深まっています」と発言していますね?

これは、現在貿易において関税合戦を展開するトランプ大統領が主導するアメリカや習主席が主導する中国の動きを念頭に置いたものです。

例えば、元々日本とアメリカを含める12カ国で話し合われていたはずの「TPP」に関しても、アメリカは交渉に日本が参入してきたことで、自国の利益にはならないことに気づくと、一気にTPPからの離脱へと歩みを進めました。
(TPPに関しては こちらのシリーズ← をご参照ください)

その後、トランプ大統領は自国の「貿易赤字」を念頭に、海外から自国(アメリカ)に流入する物資に関税を上乗せすることで、「自国企業」の利益を保護する政策に転換しました。

TPPは逆に参加国の最低限の利益を保護した上で、基本的には「関税」という障壁を取り除くことを目的として締結された「連携協定」のことです。

つまり、「保護貿易」を象徴するものがトランプ大統領の政策、「自由貿易」を象徴するものが「TPP」です。

この選択が、即ちビスマルクの時代のドイツ帝国でも問題となっていたということ。そして1873年不況に見舞われたドイツにおいて、ビスマルクが選択しようとしていた政策が「保護貿易」であったということです。


ドイツ帝国における「自由貿易」と「保護貿易」

いくつかの前提条件を掲載しておきます。
・もともとプロイセンは、ナポレオン戦争後のウィーン議定書において取得した「ラインラント」とプロイセン本土の間で物資を輸送する際、「ドイツ地方内の他の国家」に対して関税を支払わなければならないリスクを回避するために「関税同盟」を締結する必要性に駆られた。

・プロイセン以外のドイツ諸国は、プロイセンの経済力を自国発展に利用するために関税同盟の締結に賛同し、ドイツ関税同盟が成立した→このことがドイツ民族(正確にはプロイセンを中心とする北ドイツ諸国)の「ドイツ=ナショナリズム」を昂揚させた。

・ビスマルクは、このような自由主義者や民族主義者たちの動きを非常に煩わしく感じていた。(国家として経済連携関係を成立させていくことにはむしろ前のめりだったが、これに乗じてドイツ民族の統一や、逆に民族としてドイツから独立しようとするハンガリーやチェコ、シュレースビヒ、ホルシュタインなどの動きがプロイセンを不安定にすると直感していた)

・最終的にビスマルクは武力によってドイツ民族を統一する方法を選び、一方で「分離主義者」たちが多く居住する南ドイツ諸国には「自治権」を与えた。

非常に簡単にまとめるとこんな感じです。

この他、ビスマルクはイギリスや普仏戦争前のフランスなどとは関税を撤廃することを前提とした通商条約を締結していますから、一見すると「自由貿易」を推進しているように見えるのですが、実際に「自由貿易」を行っているのは最終的に「ドイツ帝国」に加盟したドイツ諸国との間のみ。

それ以外の国々とは、自由貿易を行うための協定を「個別に」行っていることがわかります。

私の推測ですが、何となくビスマルクという人物は、例えば国家を当時の船舶に例えると、「自由主義」や「保護主義」という波にこだわることをせず、時流に合わせていつでも「自由主義」から「保護主義」に舵を切ることができる、そういった「ニュートラル」な位置に自分自身の価値観を置いていたのではないか、と思うのです。


「保護貿易」と「自由貿易」についての私の考え方

では、記事を記している私自身が、「保護貿易」がよいと考えているのか、「自由貿易」がよいと考えているのかと申しますと、これは明らかに「保護貿易」が一番良いと考えています。

というよりも、「内需主導型」の経済を目指すのか、それとも「外需依存型」の経済を目指すのかといえば、当然「内需主導型」の経済を目指すべきだと考えているのです。

1998年、橋本龍太郎内閣によって、「金融システム改革法」という法律が施行されました。

この法律ができるまで、一度に取引ができる金融商品の決済には上限が設けられていましたし、取引は法人でなければ行うことはできませんでした。

取引を行うには取引を希望する法人が金融機関の店頭まで出向かなければなりませんでした。

ところが、このような規制が「金融システム改革法」によってすべて撤廃され、金融取引は個人でも行うことが可能になり、上限は撤廃。何よりわざわざ金融機関の店頭にまで出向かずとも、インターネット環境を利用して「電子商取引」を行うことが可能になりました。

その結果、何が起きたかと申しますと、海外の金融機関や投資家たちが、日本まで来ることなく、海外からインターネットを使って通貨や株、その他金融商品の取引を行うことが可能になったのです。


もちろん、現在から考えると、この法律が施行されていなければ、日本の発展は完全に世界から取り残されていたでしょうし、現在そのおかげで一資産を築いた人がいることも事実です。

ですが、間違いなく言えるのは、この法律さえ施行されなければ、リーマンショックは起きなかったということです。

金融システム改革法が施行された後、小渕内閣においてゼロ金利政策が実施され、これを利用して小泉内閣の際、それこそ前回の記事 で話題にしたドイツ銀行のような金融機関が、「電子商取引」で日本の銀行から資金を借り、アメリカのサブプライムローンに投資する構造から生まれたのが「リーマンショック」です。

このような構造を「円キャリートレード」というわけですが、これを可能にしたのが橋本龍太郎内閣で実施された「金融システム改革法」であったわけです。

もちろん、リーマンショック以前、橋本龍太郎内閣において金融システム改革法が実施される以前、1997年7月に勃発したアジア通貨危機もあるわけなので、「金融システム改革法がなければ経済危機は起きなかった」というつもりは毛頭ありませんが、少なくともリーマンショックの原因となったのは「金融システム改革法」であるということです。


「外需に依存」する一つの事例としてリーマンショックを示したわけですが、この時政策を受け持った麻生内閣は、(国債償還費、社会保障費を除き)現在に至るまでの中で最大の財政支出を行うことでこの難関を切り抜けました。

しかも、きれいに日本国内でお金が使われるシステムになっていましたので、麻生内閣の財政支出の影響は、実は麻生内閣が終わった後、民主党内閣入っても継続して及び続けました。

消費税課税対象となった消費の推移

民主党内閣になって麻生内閣において未実行の政策はすべて停止されてしまいましたが、実行済みの物はそのまま実行されましたからね。

麻生内閣が継続していれば、民主党内閣当時のように円高が急伸することもなかったでしょうし、特に麻生内閣崩壊後、鳩山内閣当初のような景況感を国民はみな実感できただろうと推測されるわけです。


ただ、私は別に安倍さんが発言している、「保護主義の台頭に対して懸念が深まっています」という言葉を批判している、というわけではありません。

例えばTPPは、元々野田内閣当時にスタートした議論ですが、私は当初より、「民主党政権下でのTPP交渉参加には反対だ」と主張していました。

大事なのはTPP交渉に参加し、日本が有利になるように内容を変えさせることにあるのであって、そのために日本国がどうあるのかという意思を統一させておくことが大切なのです。

ですから安倍内閣になり、甘利さんが交渉する中でアメリカは「旨味」を失い、最終的にTPPから脱退する選択をしました。

この過程は、プロイセンが「関税同盟」における交渉を進めた様子と非常によく似通っているように感じます。

ビスマルクは、最終的に「武力」を用いて交渉に決着をつけましたが、もしビスマルクが交渉のテーブルに上がらなければ日本の民主党政権におけるTPP交渉のように成り下がっていたのではないでしょうか。

私が何を言いたいのかということをその上でご推察いただければと思います。


ビスマルクの経済政策

ビスマルクが現役であった当時、ビスマルクの考え方を俯瞰(ふかん)できる人はいなかったんじゃないか・・・とも思います。

冒頭に記したように、この当時のビスマルクの掲載政策にポイントを絞った情報がネット上では見当たりませんので、わずかな少ない情報からの推測になるのですが、少しWikiの抜粋から話題をスタートしてみます。

【1873年不況:イギリスのの政策とドイツの政策の比較】
1873年から1896年の不況の間に、ヨーロッパの国々の大半は劇的な物価下落を経験した。

それでも、多くの会社は生産効率を改善させるようになり、高い労働生産性を確保した。結果として、工業生産高はイギリスで40%、ドイツで100%以上増加した。

この2国の資本形成率を比較すると、異なる工業成長率が明らかになる。不況の間にイギリスの国民純生産に対する国民純資本の形成率は11.5%から6.0%に下降し、ドイツは10.6%から15.9%に上昇した。つまるところ、不況が進行する間にイギリスは静的な供給調整を行い、一方ドイツは実効需要を刺激し、資本形成を増加調整することで工業供給能力を拡大した。

例えば、ドイツは送電線、道路、鉄道の管理のような社会インフラに関する投資を劇的に増加させたのに対し、イギリスはこれを止めるか減らし、投資がドイツにおける工業需要に刺激を与えた。その結果、資本形成率の違いが2国の工業生産におけるレベルの違いとなり、不況期またその後の成長率の違いとなった。

前回の記事 でも似た情報を掲載しましたが、前回の記事ではドイツと「オーストリア」とを比較しました。ですが今回の引用はドイツと「イギリス」とを比較したものです。

1873年から1896年の間に

イギリスは「労働生産性」は40%向上させたものの、国民純資本の形成率は11.5%から6%に下落
ドイツはは「労働生産性」を100%向上させ、国民純資本の形成率は10.6%から15.9%に上昇

という違いが生まれました。「国民純資本」は、国民の収入総額から支出総額をマイナスしたものです。

イギリスの数字もともにプラスですから、比較年と比べてともに上昇はしているもの、その増加幅に違いが出たことを引用文では説明しているものと思われます。

この時イギリスがとった政策はいわゆる「緊縮財政政策」。「供給調整」を行ったとありますから、要は仕事そのものの量を減らし、その代わり一つの仕事にかかる人員の量を増やした、ということと思われます。そりゃ、「労働生産性」は上がりますよね。

一方ドイツは逆に仕事の量を増やし、インフラを整えることで、おそらく機械的な生産効率を向上させたものと思われます。結果的に労働生産性はイギリス以上に向上し、資本形成率も不況前の形成率を上回る結果になった、ということですね。

ドイツがとった経済政策は、即ち「ケインズ政策」と同じ種類のものと思われます。


第147回の記事 で、世界恐慌に見舞われたアメリカにおいて、フランクリン=ルーズベルト大統領が執り行った経済政策、「ニューディール政策」について記事にしました。

また、第126回の記事 におきまして、この米国の「ニューディール政策」を日本の高橋是清の記事と比較する内容も掲載しました。少し文章が長くなりますが、同記事より引用します。

高橋是清の政策は、後のアメリカ政府が模倣して「ニューディール政策」として実施し、その数年後、「ジョン・メイナード・ケインズ」という人物がまとめ上げ、「ケインズ政策」または「ケインズ経済学」として広く世界に知れ渡るようになりました。

<中略>

過去に何度も述べていますが、高橋是清の政策は、基本的に「金融政策」と「財政政策」を同時に実施するからこそ意味のある政策です。恐慌が発生し、国全体に「不況」が押し寄せたとき、一番問題となるのは「国民が仕事を失うこと」です。

人が生きていく上では、当然生活費が必要となりますから、そのためには「仕事」が必要となります。
この時に、国民に「仕事」を与えず、「お金」だけを与えたとしたらどうなるでしょう?

その典型的な例が「第一次世界大戦後のドイツ」です。
第一次世界大戦後のドイツでは、ドイツの最大の収入源であった「ルール地方」が占領され、その収入源が断たれてしまいます。

この状況で対戦国であったフランスやベルギーは「賠償金を支払え」と言ってきました。

そこで、ドイツ政府はルール地方の労働者たちにストライキを呼びかけ、その代り、彼らに「紙幣増刷」によって生活費を直接支給したのです。

ドイツでは生産活動が行われない中で紙幣増刷によって資金が供給されましたから、物価がどんどん高騰し、最終的にはあの「ハイパーインフレ」と呼ばれる経済状況に陥りました。

一方、高橋是清は国債発行によって手にした資金を、国民に直接分配するのではなく、軍事産業への資金として「投資」を行いました。
生産活動を行う対価として資金を手渡したのです。
そして、物価上昇率が3.7%に達成した時点で国債発行を中止し、軍事産業への資金投与を中止しようとしたところ、勃発したのがあの「2.26事件」です。

ちょうどドイツに関する記事も掲載していますので、この部分も省略せず、掲載しています。

1873年恐慌に対するビスマルクの経済政策は、ちょうどこのニューディール政策や是清の経済政策ととてもよく似ています。

是清やルーズベルトはその財源を手に入れる方法として「国債発行(つまり金融政策)」という方法をとりましたが、ドイツの場合はわざわざ国債発行という手段に頼らずとも、フランスから獲得した「賠償金」がありました。

順番からすると、是清の経済政策を模倣してF・ルーズベルトがニューディール政策を実行し、これをケインズがまとめ上げた、という流れになるのですが、当然ビスマルクの時代にはまだ是清は生まれていませんから、実は是清の経済政策を世界で最も早く政策として実施したのはビスマルクであった・・・という事実が判明してしまいました。


記事を総括的にまとめますと、つまりビスマルクが考えていた「保護貿易」とは、輸出入のことを意図したものではなく、実はこのような「内需拡大政策」のことを意図していたのではないか、と私は考えるわけです。

第141回の記事 におきまして、世界恐慌時の是清の前の大蔵大臣である井上準之助のことを話題にしました。

彼は、是清とは真逆の経済政策をとり、世界恐慌の影響下、日本経済を失墜させてしまうわけですが、彼のとった政策の一つが「金輸出の解禁」。

この政策が、ちょうど橋本龍太郎内閣で執り行われた「金融システム改革法」とよく似ています。

経緯の説明まではここで説明しませんが、金輸出が解禁されたことにより、日本国内では物価の急落=デフレが襲います。そのため、井上準之助の後を引き継いだ是清は金輸出を禁止し、資金不足に陥った国内で国債を発行し、これを通貨発行権を持つ日銀に直接購入させることで通貨の量を増やし、更にこれを「公共投資(軍需産業)」に回すことで日本国経済を回復させました。

ビスマルクも、おそらく同じことをやろうとしたんですね。ビスマルクの時代ですから、これを「金輸出禁止」という方法ではなく、「保護関税法」というものを成立させることで実行しました。(1879年2月)

この結果、これまでビスマルクを支持してきた国民自由党のうち、自由貿易を推進する「自由主義左派」の面々が分裂し、ビスマルクと敵対する立場にあったドイツ進歩党と合流し、「ドイツ自由思想家党」を結成。(1884年3月5日)

保護貿易路線への変更をめぐるビスマルクと国民自由党左派との対立は、既に1875年終わりころから明らかになり始めており、ビスマルクはこれまで敵対してきたカトリック政党である「中央党」との和解がその選択肢の中に含まれるようになっていました。


次回記事では、ビスマルクが「中央党」との和解を考えるようになったもう一つの理由、「社会主義勢力の台頭」を自由貿易推進はたちとの対立と並行する形で記事を進めていければ、と考えています。



このシリーズの次の記事
>> 第430回 ビスマルクと自由主義左派の対立~「イデオロギー」の危険性~
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