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第427回 ビスマルクの文化闘争と1873年恐慌~ウィーン証券取引所の崩壊~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第426回 ビスマルクの「改革」~自由主義改革とカトリックへの弾圧~

少しだけ、前回の記事の補足をしておきますと、普仏戦争後、ドイツは統一を果たしたことで、当初のプロイセンの目的の一つである「ドイツ市場における完全の撤廃」を関税同盟抜きで実現することができましたから、ドイツ国内における市場間での物流が非常に活発になりました。

一方、フランスに勝利したことでドイツはフランスから多額の賠償金を手にしたため、今後のドイツは急速に発展していくことになります。自由主義者から、これまでの封建制度の撤廃を望む声が盛んに上がるようになったのも、このようなドイツの経済状況を背景にしたものです。


武力による経済的市場の統一を実現したビスマルクですが、統一後は非常に民主的にその後の市場改革を行っていったということですね。

ただし、そんなドイツの中で、いまだに「旧態依然」とした勢力を誇っていたのが西南ドイツを中心に活動する「カトリック」信者たち。

彼らを一掃するため、ビスマルクが用いたのは法律による「弾圧」でした。


ビスマルクの文化闘争

この、「文化闘争」という言葉をはじめて用いたのは、1861年に結党したドイツ進歩党の創立者の一人である、「ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ヴィルヒョー」という人物。ビスマルクを支持していたのが国民自由党なのですが、国民自由党そのものもドイツ進歩党に所属していた議員によって結党されたものです。

ドイツ進歩党は「自由主義左派」政党で、国民自由党もまた同じ自由主義政党ではあったものの、政治的な思想は「右派」・・・って、ややこしいですね。

私自身が両政党の詳細を把握しているわけではありませんから、両政党の詳細はこの程度にとどめておきますが、ドイツ進歩党は何しろビスマルクに対立する立場にあった政党。

つまり、ヴィルヒョーが用いた「文化闘争」という言葉は、どちらかというとビスマルクを中傷する目的で用いられたものなのではないか、というのが現在私が言いたいことです。


あと、この段階になって見えてきたのは、そもそも北ドイツと西南ドイツでは、その「宗教観」が異なっていたということ。もちろん同じキリスト教ではあるのですが、プロイセンで主に信仰されていたのがプロテスタントであったのに対して、オーストリアを含む西南ドイツで主に信仰されていたのはカトリック。

私にはキリスト教の考え方はわかりませんが、これまでの南北ドイツの対立構造は、こういった宗教観の違いにも理由があったのかもしれないですね。


前回の記事 において、「ビスマルクV.S.カトリック」とのサブタイトルで、当時のローマ教皇であったピオ9世がまとめたとされる「誤謬表」の話題や、「教皇により神格的な意味づけを持たせた」ことなどを記しました。

自由主義者たちがこういったカトリックたちに対する嫌悪感を抱いたきっかけとなったのは、ちょうど普仏戦争が行われていた当時、ローマ教皇領において開催されていた「第1バチカン公会議」でのこと。考えてみれば、当時の産業革命や、これを利用してドイツが実現して見せた軍事政策などは、当時の一般人からすれば「神の領域に近づこうとしている」と映っていたのかもしれません。

時期的には1869年12月8日から1870年10月20日にかけてのこと。「教皇により神格的な意味づけを持たせた」のは「教皇不可謬説」という考え方なのですが、これが「憲章」により採択されたのが1870年7月18日のことです。

ローマ教皇領は元々フランスよりの支援を受けていたのですが、普仏戦争の勃発によりフランス軍がローマ教皇領より撤退した後、イギリス国王軍によって占領され、イギリスに併合されてしまいます。

ですから、ビスマルクがドイツを統一し、ドイツ帝国の首相となった時点ではすでにローマ教皇領はイギリスの統治下にあった、ということになります。


「政教分離」

前回の記事で記した通り、確かに西南ドイツにおけるカトリックの存在を脅威に感じており、これを統制することで自由主義者たちの支持を得ようとしたことは間違いないと思うのですが、実際に行われた内容を見ると、ビスマルクが行ったことは現在の日本でいう「政教分離」を実行したに過ぎないのではないかと思われます。

例えば、そのきっかけとなった「説教壇法(カンツェルパラグラフ」というものがあるのですが、これは「聖職者が説教において政治を論じた場合に2年間の禁固刑を課す」という刑法の一つです。

確かに現在ではこのような法律を施行すれば日本でも憲法違反になるでしょうが、ビスマルクの意図は「政治と宗教とを分離すること」にあったことがわかります。

「聖職者」と記していますが、これを「カトリック」には限定していませんね? つまり、同じ法律がプロテスタントに対しても適用されるということです。

この他、「政府系の学校から宗教の教師が追放」や「『五月法』による聖職者教育の管理」、「聖職者の絡んだ事件を官吏が扱う教区裁判所の設置」、「全ての聖職者が記載された届書の提出」などです。

まあ、「弾圧」といえば「弾圧」ですね。

この他、ビスマルクが実施した取り組みの中に、「イエズス会の禁止」というものがあります。「イエズス会法」というものを作って、イエズス会を国外に追放したのだそうですよ。

そして、自由主義者たちはこのビスマルクの取り組みに賛同したのだとか。「イエズス会」は、カトリック以上に当時の自由主義者たちから毛嫌いされていたんですね。

イエズス会は同じカトリックの中でもより「カトリック色」の強い団体だったみたいですね。イエズス会が禁止されたのは当時のドイツだけでなく、18世紀のポルトガル、フランス、スペイン、ナポリ王国、両シチリア王国、パルマ公国、1848年のスイス等々・・・。

要は、国家間の支柱となる精神的な基盤が、「宗教」ではなく「民族主義」に移行しようとしていた時代、権力者にとって、国境を越えて「教皇」という存在の下に結束しようとするイエズス会の存在が相当に煙たかったのだと思います。


1873年恐慌

さて。このように「分離主義者」が多く居住する西南ドイツにおいて影響力を発揮するカトリック教会。

その信者で構成される「中央党」がドイツ議会において「第二政党」となったことから、その存在に危機感を覚えたビスマルクは、法制度の制定により、その「弾圧」へと乗り出したわけですが、1873年におきた「1873年恐慌 」をきっかけに、ビスマルクはその「中央党」との関係を見直す必要性へと駆られることとなります。


ドイツにおいて「恐慌」が勃発した理由はいくつかあるのですが、一つ目の原因はこの当時すでに存在した「株式」にあります。

「株式」そのものはなんと13世紀当初より存在したのだそうですが、実際に「株式会社」が誕生するのは1602年のこと。オランダがインドネシアを拠点に設立した「東インド会社」が世界初の「株式会社」なのだそうですよ。

ドイツにおける「恐慌」の発端となるのは1871年、オーストリアウィーンに設立された「ウィーン証券取引所」の崩壊です。

ウィーン証券取引所の崩壊

この当時のドイツでは、法人の設立が自由化され、普仏戦争における勝利による好況感や、フランスから獲得した賠償金を元手に、新興企業が設立や既存企業の法人化が盛んにおこなわれていたのだそうです。


少しだけ話題がそれます。この時設立された法人の中に「ドイツ銀行」という法人があります。

私、どうもこのドイツ銀行とドイツ連邦銀行のことを混同していたようです。これはさすがに私としても非常に恥ずかしい限りです。

リーマンブラザーズが倒産した際、リーマンブラザーズの「CDS債(Credit default swap債)」を発行していたAIG。このAIGを救済するために米国政府がAIGに投入した政府資金を横流しで手に入れた銀行が「ドイツ連邦銀行」だと勘違いしていたのですが、どうも連邦銀行ではなく、「ドイツ銀行」であったようです。
(CDSとは、その対象となる企業が倒産した際にお金を受け取ることができる、『保険商品』のようなものです)

知らないっていうのはある意味非常に恐ろしい話で・・・。ひょっとすると私がどこかで発信した情報を見て、これを真に受けてしまっている方もいたかもしれないと考えると、本当に申し訳ない思いがします。

現在のドイツ銀行に関しては現時点では情報が全くないに等しいので言及しませんが、本シリーズ で取り上げている主テーマである「ナチス」。ナチスの誕生後、ヒトラーが政権を握った後のドイツ銀行は、同企業からユダヤ系社員の追放を強制し、役員からユダヤ系役員を追放するなどしています。

Wikiベースではありますが、このことを「アーリア化」と表現しています。Wikiを真に受けるわけではありませんが、ヒトラーが掲げたとされる「アーリア人至上主義」における「アーリア人」とは、「非ユダヤ人」のことを言っているのではないか、との推測が現時点で成り立つかと思います。

元々「アーリア人」とは中央アジア、現在のアフガニスタンあたりに住んでいた民族のことで、後にこの民族が南下し、パキスタンのあたりから東に移動した民族を「インド・アーリア人」、西に移動した民族を「イラン・アーリア人」といいます。

イラン・アーリア人が設立した最大の国家が「ペルシャ帝国」。ペルシャは後に「イラン」と名称を変えます。

後にこのアーリア人の言語がヨーロッパを構成する一部の民族の言語構造に非常に類似していることを、イギリス人のウィリアム・ジョーンズという人物が気づきます。このことから、これらの言語を話す民族のことを後に考古学者であるトーマス・ヤングという人物が「インド=ヨーロッパ語族」と名づけます。

おそらくこのことがのちにヒトラーが主張する「アーリア人至上主義」へとつながっていくものと思われます。

この話題はまた後日、記事にしたいと思います。

話題を戻します。

1871年以降のドイツでは、これらの法人化された企業の「株式」に対する「投機」が盛んにおこなわれる傾向にあったのだそうです。

またビスマルクは、フランスに勝利した直後、当時のドイツの通貨であった「銀貨(ターレル)」を廃止する手続きをスタートします。

「ターラー」そのものは、ドイツに限定されて利用されていたものではなく、ヨーロッパ全土で用いられていたのですが、特に当時のドイツで流通していた通貨のことを「フェアアインスターラー」と言います。「フェアアインス」とは、「統一」という意味があるんだそうです。

この通貨を元々利用していたのはなんとオーストリア帝国。1857年にオーストリアがこの通貨を制定して以来、フェアアインスターラーは、やがてドイツ全土で「通貨」として用いられるようになります。

ですが、普墺戦争でオーストリアが敗れた後、オーストリアにおけるフェアアインスターラーの打刻は停止。普仏戦争の勝利後、ビスマルクはフェアアインスターラーの廃止を決定したわけです。まあ、それはそうなりますよね。


恐慌の原因

恐慌の発端となった「ウィーン証券取引所」の崩壊ですが、冷静に考えますと、ドイツが普仏戦争に勝利した時点で、オーストリアは自国通貨である「フェアアインスターラー」の製造は中止していますから、この時点でウィーン証券取引所は「資金不足に陥っていたのではないか」という推測が成り立ちます。

現在のように電子商取引が行われているわけではありませんから、仮に証書を発行することができたとしても、株の価値が上がったとき、これを銀貨と交換しようとしても、元々保有している銀貨の量には限りがありますから、当然支払いができなくなってしまいます。

このことが原因で、ウィーンにある銀行が連鎖的に倒産を始めることとなります。面白いのは、この時もリーマンショックと同じような現象が起きており、最も大きな破産を起こしたのは、出資した株式会社が破綻したとき、その損失を保護するために設立されたオーストリアの協会の設立者だったんだそうですよ。

このことが、ドイツ国内における新興株バブルを崩壊させることとなりました。

ただし、ここで面白いのは、この時ドイツが取った手法は、フランスからの賠償金を利用して、さらなる社会インフラに対する設備投資に資金を回したということ。イギリスなどは逆に「緊縮政策」をとったようで、これがこののちの両国の成長率に差をつけることとなったようです。

一方、オーストリア(正確にはオーストリア=ハンガリー二重帝国)は自国の経済力ではなく、隣国ドイツがフランスから受け取った賠償金と株バブルによって支えられていた経済成長でしたから、ウィーン証券取引所の崩壊の影響は深刻なものとなりました。

アメリカにおける「恐慌」
一方、この時の「恐慌」の影響は、なんと大西洋を隔てて遠く離れたアメリカまで巻き込みました。

当時のアメリカは、南北戦争後の復興期にあり、ドイツがそうであったように、鉄道を中心とするインフラ事業のあおりを受け、経済は好調な状況にありました。

ですが、この好況感はやはりドイツと同じように、「投機筋」の投機対象となったのです。


アメリカの不況の原因となったのは、ドイツで銀貨が廃止され、金貨(金マルク)へと移行されたことです。

アメリカでは銀貨に対して銀の価値を固定していたわけですが、海外では銀の価値が下がっていますので、海外からものを買おうとすると、これまでよりも多量の銀貨が必要とされるわけです。

このままでは米国内における物資が不足することは明らかですから、米国でもヨーロッパと同じように銀貨を事実上廃止し、金本位制へと移行することが「貨幣鋳造法」によって定められました。

銀貨は、つまり「変動相場」となり、銀そのものの価値も大きく下落することとなったわけです。

そうすると、当然銀鉱山を持つ事業者の利益は既存されることとなります。また、これまで生産されていた銀貨そのものが国内に流通しなくなるわけですから、当然「通貨供給量」が減少することになります。

今のように電子商取引がなされているわけでも、政府によって価値が裏付けされた紙幣があるわけでもありませんから、銀の価値が急落するだけで米国経済は大騒ぎです。

今回は米国の状況を追求する記事ではありませんのであまり深堀はしませんが、結果的に米国ではオーストリアと同じような事態が発生したわけですね。米国の不況はこの後1879年まで続いたのだそうです。


これらの不況を受けて、ドイツ国内では、特に自由主義者たちが、これまでと同じように外国との貿易によって資本を得る「自由貿易」を維持するのか、それとも輸出入を税金によって制限し、国内の生産者を保護する「保護貿易」へと移行するのか、ビスマルクはその二択に迫られることとなりました。

一方でビスマルクを本来支持していたはずの国民自由党では、その内側に野党であるドイツ進歩党と同じような考え方を持った勢力が内在していました。

進歩党や国民自由党内部にいた「自由主義左派」たちは、「自由貿易」を維持すべきだと主張していた面々です。

一方のビスマルクは、逆に「保護貿易路線へと移行すべきだ」と考えていたようです。


次回記事では、ビスマルクが考えていた「自由貿易」と「保護貿易」について、第141回の記事 にて掲載した「金輸出」の問題などを参考にしながら、少し経済的な視点から記事を記してみたいと思います。

進められるようであれば、中央党との和睦やその後の「社会主義勢力の台頭」の記事も記してみたいと思います。

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