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第426回 ビスマルクの「改革」~自由主義改革とカトリックへの弾圧~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第425回 普仏戦争の終結とドイツ帝国の誕生~ドイツ帝国首相ビスマルク~

前回の記事で、ようやく「統一ドイツ」にまでたどり着きました。ここで初めて現在の「ドイツ」につながる原型が出来上がったわけですね。

余談ですが、第二次世界大戦敗戦後、ドイツは「東西」に分断されましたが、ここまでのドイツの歴史をたどると、それは決して不自然なことではないんだなと気づかされます。

日本に住んでいて「ドイツ東西分断」と聞かされれば、同じ国民性を持った一つの民族が、それこそ朝鮮半島のように二つに切り裂かれたかのような印象を持ちますが、ドイツの成り立ちを考えると、日本の「民族意識」とは同一に考えることはできないんですね。

とはいえ、現在はまだ情報がそこまで進んでいませんし、ドイツがどのような国境で「東西」に分断されたのか、ここは改めて検証する必要はあると思いますが。


話題を本旨に戻します。

普仏戦争のさなかに誕生した「ドイツ帝国」ですが、どうもこのドイツ帝国が誕生した時点で、いくつかの「憂慮」すべき事態が含まれていたようです。

そもそも論ですが、ビスマルクが統一ドイツの結成を志すようになったのは、「プロイセン」という一つの国家の「ルール」で統治できる領土を広げることがありました。

その理由として、ウィーン体制後のドイツにおいて、特にフランスの「第二革命」の影響を受け、「民族主義」や「自由主義」に煽られた国民たちが暴動を起こし、プロイセンそのものが不安定化していたことがあります。

自由主義者たちはこの問題を「話し合い」によって解決しようとするのですが、ビスマルクはそのうち「話し合いでは埒が明かない」と考えるようになり、シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争において志を共有することができたオーストリア外相『レヒベルク』が失脚した後、ビスマルクの選択肢の中に、「武力によるドイツの統一」が含まれるようになりました。(第418回の記事 をご参照ください)

例えば戦争によって獲得したシュレースビヒ=ホルシュタインについても、これを「独立」させず、プロイセンに「併合」することを目指したのも、もし両国を独立させ、プロイセンとは異なるルールの下での統治を可能にすると、この両国の中で民族意識が盛り上がり、プロイセンにとっての不安定要素となることを防ぐためです。

ですから、統一後の北ドイツ連邦もまた、「北ドイツ連邦憲法」という一つの共通のルールの下での『国家』を築いたのです。

残るはバイエルン、ヴィッテンベルク、バーテン、そしてヘッセンという4つの国を統合すれば、関税同盟を結成する同じ「ドイツ」という領域の中で、「(ドイツ民族ではない)民族主義」や「自由主義」をあおってプロイセン国内を不安定にさせる要素を取り除くことができると考え、南ドイツの「ドイツ=ナショナリズム(民族意識)」を煽ってドイツ統一に向けた機運を高めるべく引き起こしたのが「普仏戦争」でした。


ドイツ帝国における不安定要素

この時点では、まだ私は「ドイツ帝国の結末」までその流れを見ているわけではありませんから、あくまでも「予測」。この後の記事を進めるうえでの「仮定」としてこの情報を掲載しています。

そして、今回のシリーズのタイトルはナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? というタイトルですから、これから記す情報は、このことがのちの「ナチス誕生」に影響を及ぼす一つの要因となっているのではないか、とする推測です。

ビスマルクは、南ドイツ4カ国と交渉し、国名を「ドイツ連邦」とはせず、「ドイツ帝国」とし、その盟主を「皇帝」とするところまで含めて妥結する流れの中で、南ドイツ4カ国に対しては大きな譲歩をしています。

先に記したように、ビスマルクがドイツを統一しようとした最大の目的は、ドイツ領内の各国が、「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定にさせないようにすることにあります。

その手段として所属国を一つのルールの下に統一し、共通のルールで「ドイツ」という国家全体を運用しようとしたわけです。

ところが、ビスマルクは南ドイツを北ドイツに統合し、「ドイツ帝国」を設立した際、北ドイツ各国とは異なり、この4つの国に対しては「自治権」を認めたのです。

これらの国々に対し、「自治権を認める」ということは、即ちビスマルクがもともと排除しようとしていた『「民族主義」や「自由主義」を掲げて暴動を起こし、プロイセンという国家のシステムを不安定』 にさせる要因を、自国の中に有し続けるということです。

ビスマルクは、普仏戦争によってドイツ=ナショナリズムを昂揚させ、南ドイツ諸国とともに見事「ドイツ帝国」結成にまでたどり着くわけですが、誕生と同時に自国内に「南ドイツ」という大きな矛盾を抱え込むことになるんですね。

皇帝ヴィルヘルム1世は、『連合したドイツ諸侯と自由都市の要請によってドイツの帝位につく』との宣言を読み上げ、1871年1月18日、「ドイツ帝国」が誕生しました。

また更に、4月16日には「ドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)」が公布され、この憲法は私が第351回の記事 にて話題とした、「ワイマール憲法」が制定されるまで存在し続けることとなります。

ただ、この「ドイツ帝国憲法」ですが、例えば
確かに皇帝に対して対外的な条約の締結権や帝国宰相の任命権、議会の召集権、法令の布告権、官吏の任免権など、様々な権利を有するものの、例えば『防衛戦争を除く宣戦布告』には当時のドイツの帝国議会、及び連邦参議院の同意が必要とされており、両議院にはこれを審査する義務が課せられていた

帝国議会は25歳以上の成人男性が有する普通選挙権によって選出された議員団によって構成され、秘密投票が保障されていた

ドイツ帝国民の市民権は各領邦の差別なく平等に扱われる

など、制度内容に民主的な要素が多分に含まれている様子がうかがえます。


ビスマルクによる改革

また、結構面白いのは、元々「自由主義者たちの台頭」を煙たがって誕生させたはずの「ドイツ帝国」なのですが、誕生後のドイツ帝国で行われたビスマルクによる改革は、ドイツ帝国の「自由主義化」でした。

・貨幣の統一
・様々な関税の引き下げ
・中央銀行の創設
・法律と裁判制度の統一化
・郡条例制定による地方貴族の領主裁判権・警察権の廃止
・県条例改正による地方自治の一定の実現

現在の私たち日本人から考えると、「自由主義化」というよりも「近代化」といった要素のほうが強い様に感じますね。

この時のビスマルクの行動は、特に「保守主義者」たちの反発を買います。そんな「保守主義者」の中に、これまでビスマルクとともに帝国の誕生に向けて歩みを進めてきた陸相「ローン」という人物も含まれていました。

ビスマルクはこの時、保守派急先鋒であったローンをこれまで自身が担ってきた「プロイセン首相」という役職に就け、その仕事の大変さを身をもって経験させることでこの事態を回避したのだそうです。(後にビスマルクは再びプロイセン首相に復帰)


ビスマルクV.S.カトリック

ドイツ帝国を結成した頃のビスマルクは、カトリック教徒たちからは「保守主義」ではなく、「自由主義者」だと認識されていたのだとか。

ドイツ帝国結成後、最初の選挙においてカトリック政党の中央党が投票総数の5分の1を獲得します。

この時のドイツ議会における「与党」は「国民自由党」で、この政党が第一政党だったのですが、中央党はこの選挙を経て、ドイツ議会第二政党となります。

ビスマルクは普仏戦争によってドイツナショナリズムを昂揚させ、ドイツ帝国を誕生させたわけですが、その最大の理由は南ドイツ国民の「分離主義者」たちの存在でした。

ビスマルクは、プロイセンそのものの統治を楽にするためにドイツ領全体を統一させようとしたわけですが、南ドイツ諸国はプロイセンで主流であった「ドイツナショナリズム」に対して否定的であり、例えばバイエルンであれば「バイエルン=ナショナリズム」、バーテンであれば「バーテン=ナショナリズム」が主流でした。

北ドイツとの統一に否定的な「分離主義者」たち。

「ドイツナショナリズム」を昂揚させることでドイツ帝国誕生を成し遂げたわけですが、誕生後も南ドイツから「分離主義」思想が払拭されたわけではありません。

「中央党」の党員、即ちカトリック信者たちの考え方は、このような分離主義者たちの考え方に近く(西南ドイツに多く存在しました)、ビスマルクとしても彼らを放置しておけば、再びドイツ国内に「暴動の種」を育ててしまうことになります。

また、元々ビスマルクに反発していた自由主義者たちも、特にこの時のカトリックの代表者であるイタリアのローマ教皇が「反近代的」だと考えていて、嫌悪する傾向にありました。


現在の日本で考えると、インターネットが現在のように普及していない時代、マスメディアが情報を独占していた時代がありました。

ところが、現在のようにインターネットが普及してしまうと、マスメディアが独占していた情報も広く国民が有するようになり、その独自性が失われてしまいます。

中にはマスメディアが国民を欺くため、限られた情報を意図的にコントロールして配信していたものもあったわけですが、それがすべて「デマ」であったことが徐々に明らかになり始めるわけです。

危機感を覚えたマスメディアは、あわててそのようなネットメディアの情報をコントロールしようとし始めます。


ピウス9世 (ローマ教皇)

おそらく、この当時のカトリックも同じような状況にあったのではないでしょうか。

フランス革命が勃発し、ここまで「近代化」や「自由主義化」が蔓延してしまうと、これまで権威の象徴として君臨してきたはずの「宗教」の存在価値が失われはじめます。

要は、宗教をよりどころとせずとも、国民が自分自身で臨んだ将来が構築できるようになり始めるわけですね。

これまでは「神に祈りなさい。そうすればあなたは苦しみから解放されるでしょう」という言葉で救われていたはずの人たちが、「いや、そんなことこの機械や考え方を用いれば簡単に実現できるし」というように考え方を変質させていったのだと思います。

で、カトリックではそんな失われていく権威を取り戻すため、教皇により神格的な意味づけを持たせたり、近代化や自由主義化によって実現可能となったシステムを「誤りである」と批判したりするわけです。

当時の教皇がそんな「誤り」を一覧表としてまとめたものを「誤謬表(近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書)」というのだとか。

少し面白そうなので、リンクとともにその誤謬表のうち、タイトル部分のみを抜粋して掲載してみます。

近代主義者の謬説表:ピオ9世の数多くの訓話、回勅、書簡による大勅書
1 汎神論、自然主義、理性絶対主義

2 半唯理主義

3 宗教無差別主義と宗教拡大主義

4 社会主義、共産主義、秘密結社、聖書結社、自由聖職者結社

5 教会とその権利についての誤謬

6 国家自体、国家と教会との関係についての誤謬

7 自然道徳とキリスト教的道徳についての誤謬

8 キリスト教的結婚についての誤謬

9 教皇の民事権についての誤謬

10 現代自由主義に関する誤謬

読んだだけだと一体何のことかわからないかもしれませんが、これらのタイトルの下、様々な事例を掲載し、「この事例はすべて間違っていますよ」とこの「誤謬表」には記されているのです。

例えば、「1 汎神論、自然主義、理性絶対主義」の中には合計で14の「誤謬」が記されていて、その一番には以下のような内容が記されています。
この現実の宇宙と区別される最高の、最高に知恵を持った、すべてを統率している如何なる天主的神性も存在せず、天主は現実の自然と同一であり、したがって、変化を免れ得なく、事実、天主は人間と世界とにおいて成立ち、すべてのものが天主であり天主の実体そのものを持っている。天主と世界とは同一の同じものであり、したがって霊と肉、必然と自由、真と偽、善と悪、正義と不正義は同一の同じものである。

要は、

「この世の中に物全ては変化するものであって、神もまたその変化から免れることはできない」

といった趣旨のことが記されているのですが、教皇ピオ九世は、

「世間ではそう思われていますが、そうではありません」

と言っています。こんな調子で、合計80以上の「誤謬」が一覧表にまとめられています。


自由主義者たちは、そんな教皇の主張を「胡散臭い」と考え、嫌悪していたんですね。

考えてみればビスマルクは、「保守主義者」でも「自由主義者」でもなく、単なる「現実主義者」だったんだと思います。ですから、彼自身の中で自由主義そのものが悪いと考えていたわけではなく、

「確かにお前らの言っていることは最もかもしれないけど、何事にもやり方ってものがあるだろ」

といった趣旨のことを考えていたんじゃないでしょうか。ですから、たとえ「自由主義」であったとしても、彼が正しいと感じたものは躊躇なくこれを実践していったに過ぎないのではないかと思います。

ですから彼の中では必ずしも「自由主義者=敵」というわけではなかったのではないか、と。

一方で上記したカトリックたちの考え方は非常に非現実的ですし、「分離主義」は彼にとっても障害以外の何物でもありませんから、ビスマルクはこのようなカトリックを弾圧することで、自由主義者たちの支持を得ようと考えました。ここから、ビスマルク政治における「文化闘争」がスタートします。


記事が少し長くなりましたので、今回の記事はここでいったん終了します。

「文化闘争」の経緯と、そしていよいよ台頭する「社会主義者」たち。

次回記事では、「文化闘争」の経緯とドイツにおける「社会主義者」の台頭について記事にしていければと思っています。


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