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第425回 普仏戦争の終結とドイツ帝国の誕生~ドイツ帝国首相ビスマルク~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第422回 普仏戦争の勃発~スペイン王位継承問題とエムス電報事件~

さて。今回テーマとしている「普仏戦争」ですが、これまで記してきた様々な戦闘よりもかなり具体的な内容が記されていて、どこをピックアップして要約すべきなのかと迷うばかりですが、戦闘内容そのものの詳細を記すことはこのブログの目指すものとは異なるように感じますので、あくまでも記述を大枠でとらえ、記事を進めてみたいと思いjます。

普仏戦争において、確かにドイツ各国の支援を受けたプロイセン軍の「圧勝」ではありますが、プロイセン軍も当然無傷ではありませんし、戦地によってはプロイセン軍が「敗退を喫した」と考えられる場所もあります。

ただ、戦争全体を通じていえるのは動員や援軍の派遣、戦況の読みなど様々な面にわたってプロイセン軍が一枚上手だということ。

フランス軍が勝利している戦地ですらフランス軍は攻め進むわけでなく、逆に撤退したりしています。

前回の記事にも記しました通り、開戦が1870年7月19日で、開戦後わずか1か月半。9月2日に、フランスは皇帝であるナポレオン三世が、10万人の将兵とともに全面降伏することとなりました。

ナポレオン三世が捕虜となったことと知ったパリ市民は憤慨。共和制をへの移行を求めた運動がパリ中に広がり、パリ市民は市庁舎を占拠。軍事総督であるルイ・ジュール・トロシュ将軍の下、共和制臨時政府の樹立が宣言されました。(この時点でナポレオン三世は廃位。)


ナポレオン三世降伏後の普仏戦争

さて。ここからがナポレオン三世降伏後の「普仏戦争」となります。

ビスマルク自身はナポレオン三世が降伏した時点で、普仏戦争を終結させよう考えていました。

そもそもビスマルクがこの戦争をけしかけた最大の理由は、独立志向の強い南ドイツ諸国民の「ドイツ=ナショナリズム」をたきつけて、ドイツ全体の統一に向けた機運を高めることにあったのであり、フランスを完全に屈服させること自体が目的ではありませんした。

何より、これ以上の戦いを続けることは、ドイツでもフランスでもない、第三国からの干渉を受ける危険性もはらんでいます。

1か月半の普仏戦争の戦場となったのはフランスの「アルザス=ロレーヌ地方」で、ナポレオン三世降伏の時点でプロイセン軍はこの「アルザス=ロレーヌ地方」を占領していました。

アルザス=ロレーヌ

地図の西側のエリアがフランス。東側がドイツです。

ビスマルクは、今回の戦争を起こしたのはフランス新政府が打倒したはずの前皇帝であり、新政府側もこれ以上戦争を続けることに興味はないだろう、と考えていました。

戦争を穏当に終結させるため、ビスマルクが新政府側に要求したのは、自分たちが占領した領土のうち、アルザスにおいて、元々両国に争いのあった地域でした。

ところがフランス新政府は、この要求を見事に蹴ってきました。「領土1インチたりとも、要塞の一石たりとも、譲り渡しはしない」と。

共和国政府はなんと、更にプロイセンに対して宣戦布告。ドイツ軍は戦争を継続せざるを得ない状況へと追い込まれてしまいます。

ドイツ側としてもこの時、ビスマルクが高めようとした「ドイツ=ナショナリズム」が一気に昂揚し、アルザスの一部にとどめようとしたビスマルクに対し、アルザス=ロレーヌ全土を併合を求める世論が形成されていました。

この後、プロイセン軍はフランスの首都、パリにまで進撃し、パリを包囲。砲以後、プロイセン軍が警戒して侵攻をためらう原因となっていた要塞「メス」を率いるバゼーヌ元帥がまともに戦闘することもないままプロイセン軍に降伏。(10月27日)

翌1871年1月5日、プロイセン軍はパリに砲撃を開始し、パリにて戦闘が続く中、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、「ドイツ皇帝」として戴冠。1月18日、なんとフランスのベルサイユ宮殿にてドイツ帝国の成立が宣言されることとなったのです。

ヴェルサイユ宮殿

戴冠に先んじて、ビスマルクは同じベルサイユ宮殿にて南ドイツ諸国と交渉し、ドイツ統一国家「ドイツ帝国」樹立に向けた樹立を取り付けていました。

ドイツ帝国の首相は当然の様にしてビスマルクが就任しました。

これは・・・私も想定していませんでした。よもやドイツ帝国の成立がフランスの、しかもベルサイユ宮殿で宣言されるとは・・・。


1月25日、フランス共和政政府首相ルイ・ジュール・トロシュは辞任し、外務大臣であったジュール・ファーブルがその後任となり、降伏文書に署名。1月27日、普仏戦争の休戦が成立します。


いやぁ・・・なんとも。

普墺戦争や普仏戦争においてこの時ドイツがとった戦略はフランスだけでなく、他の欧州各国をびっくりさせたでしょうね。

その後、世界各国がこのドイツの「軍事戦略」を採用していくこととなります。


余談ですが、シリーズ 十五年戦争(日中戦争)の原因と結果 中、第139回 満州事変の正体/バーデンバーデンの密約~一夕会の結成 に於いて、ドイツのバーデン・バーデン岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎の3名に、東条英機を加えた合計4名で行われた「バーデンバーデンの密約」で、「軍部の人臣を刷新し、軍全体で総力戦が挑める体制を築くことを約しました」と私は記しました。

その理由として、彼らが称賛した『ドイツの軍人「エーリヒ・ルーデンドルフ」の戦略』の中に、後の日本の「国家総動員法」の原型に相当する戦略が記されていたことをあげました。

要は、一度戦争となったら、自国を守るため、短時間で兵士を集めることができるシステムを作ることが必要だ、と彼らは第一次世界大戦のヨーロッパを見て痛感したわけですが、そのルーツはこの「普仏戦争」にあったわけですね。


次回記事では、ドイツ帝国誕生後、首相となったビスマルクがおっこなった様々な改革やその後、第350回の記事 で記した「ドイツ革命」に至るまでの経緯を、少しずつ追いかける記事を作成できればと考えています。



このシリーズの次の記事
>> 第426回 ビスマルクの「改革」~自由主義改革とカトリックへの弾圧~
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>> 第422回 普仏戦争の勃発~スペイン王位継承問題とエムス電報事件~

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