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第422回 普仏戦争の勃発~スペイン王位継承問題とエムス電報事件~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第421回 統一ドイツへの道〜北ドイツ連邦と南ドイツの「ギャップ」

さて。前回の記事に記しました通り、今回の記事は「普仏戦争」と「ドイツ帝国の誕生」についての記事になります。

前回の記事 の内容から想像がついている方はいらっしゃるでしょうが、「普仏戦争」とは、ビスマルクが「南ドイツ国民の『ドイツ=ナショナリズム』」を煽るため、フランスに「仕掛けさせた戦争」です。

結論から申しますと、この戦争はプロイセン側の圧勝。

宣戦布告はフランス側からプロイセンに対して行われましたが、北ドイツ連邦連邦と南ドイツ諸国は事前に攻守同盟を結んでおり、開戦と同時に「バイエルン」「ヴィッテンベルク」「バーテン」の3カ国は参戦します。

前回の記事 で、この3カ国は「プロイセン型軍制改革を行うことを決定」したと記しましたが、この「軍制改革」とは、どうやら「徴兵制」のことを意味していたようです。

プロイセンは、兵役年齢を迎えた男子全員に兵役を義務化しており、この制度を南ドイツ3カ国も取り入れたんですね。

一方でフランスはこのような制度をとっておらず、「クリミア戦争、アルジェリア戦役、イタリアでのオーストリアとの戦争、メキシコ出兵などの歴戦を経験した古参」たちが含まれていたわけですが、北ドイツ連邦&南ドイツ連合軍のように素早い動員を行うことができず、これがフランス敗戦の一つの理由となっています。


ドイツ軍圧勝の理由

この他、フランスがドイツ連合軍に完敗した理由として、普墺開戦においてオーストリアが完敗したの同じ理由、即ち「兵器力」の差が挙げられるようです。

フランスもドイツも、その利用していた兵器は自国製のものを利用していたわけですが、フランスは明らかに後発的。例えば、ここで登場する兵器として「ドライゼ銃」という名称の兵器が登場します。

トライゼ銃

この銃は、普墺戦争において、対オーストリア最終決戦ともいえるケーニヒグレーツの戦いにおいてプロイセンが主力兵器として用いた銃での名前です。

オーストリアが利用していた銃は、弾を銃に装填するとき、銃の先端に弾を装填していましたので、体を起こした状態で装填する必要があったのですが、プロイセンが利用した「ドライゼ銃」は、弾丸と弾薬とが一体となっていて、オーストリアの「先込め式」の銃とは違い、銃の手元側で装填することができました。

このため、弾丸を装填するとき、オーストリアのような体を起こした状態ではなく、茂みの中に寝そべって、「ほふく前進」状態で弾丸を装填・発射することが可能でした。これがオーストリアとプロイセンとの戦果に圧倒的な開きをもたらしたのです。

ヨハン・ニコラウス・フォン・ドライゼというプロイセン人によって開発されたものなのだそうです。

フランスはこの戦果に驚愕し、慌ててこの「ドライゼ銃」を研究し、同じ仕組みでありながら、飛距離がドライゼ銃の2倍(1500m)ある「シャスポー砲」という兵器を開発します。

ですが、この時フランスが利用していた「大砲」はオーストリアの銃と同じ前装式で、この時点でプロイセンはすでに「クルップC-64野砲」という後装式の大砲を開発していました。

クルップC-64

3キロの砲弾を4500mも飛ばす大砲なのだそうです。フランスの大砲とは圧倒的な性能の差を誇っていました。

「銃」に関しては確かにフランスのほうがその性能を上回っていたわけですが、「大砲」のこの性能の差は銃の性能の差を補って余りあるものだったのだそうです。

一方、フランスは普仏戦争において、陸戦においてはじめて「レフィエ・ミトラィユーズ」という連射砲を投入しました。

レフィエ・ミトラィユーズ

初期のミトラィユーズ砲(連射法)をは、ベルギー軍のトゥサン=アンリ=ジョゼフ・ファフシャンという人物が開発し、後にフランスで改良されたものが「レフィエ・ミトラィユーズ」です。

要は、砲台に25発の砲身をセットし、点火することでこの25発の方針から弾丸が時差式で発射されるような仕組みになっていたようです。

ですが、この兵器が実戦配備された段階で、この連射法の使い方の訓練を受けている兵士はほとんど存在せず、そもそもの絶対数が少なかったこと、照準を定めることが非常に難しかったこと、そもそも操作中に壊れやすかったことなどがあり、実践ではあまり役に立ちませんでした。


さて。実戦で大活躍したプロイセン軍の「クルップC-64野砲」と、せっかくの性能を持っていながら兵士が訓練されておらず、ほとんど役に立たなかったフランス軍の「レフィエ・ミトラィユーズ」。

この二つの兵器と、その運用方法から考えて想像できると思うのですが...。

プロイセン軍は、開戦する以前に司令官であるモルトケ元帥の下、何度も徴兵された兵士訓練を行っており、また重い砲台を運用するための鉄道をフランスに向けて敷設、戦場と予測されるフランス領の地図を作成しておくなど、用意周到でした。

一方のフランスは、「レフィエ・ミトラィユーズ」の運用方法のグダグダっぷりから考えてもわかるように、確かに兵士こそ歴戦の猛者ばかりでしたが、対戦相手のプロイセンを舐めていたとしか思えないような準備不足が見て取れます。

ビスマルクに挑発されてフランスから戦争を仕掛けたにも関わらず、フランスはプロイセン軍に開戦からわずか1ヵ月半で降伏することとなります。


普仏戦争開戦に至る経緯

このように記すと、プロイセンが、単に何の理由もなく、自国の利益のために一方的に戦争をけしかけたかのように思えてしまいます。根本的な理由としてこれが間違っている、とは言いませんが、そうではない事情もあった、ということを少し記しておきます。


スペイン王位継承問題

普仏戦争の直接的な原因となったのは、「エムス電報事件」と呼ばれる、ビスマルクによる電報の「改ざん」にあります。

では、この「エムス電報」とは何かと申しますと、ドイツ西部の温泉地で静養中であった皇帝ヴィルヘルム1世よりビスマルクに向けて発信された1通の電報の事です。


この当時、ドイツから見てちょうどフランスを挟む位置にある「スペイン」では、1868年9月、民主的な政治を求めてフアン・プリム将軍が起こした武装蜂起をきっかけに、スペイン全土に革命が波及します。

この時国王の座に就いていたのが女王イザベル2世。この時のスペイン王朝はフランスのブルボン家をルーツとしており、イザベル2世はブルボン朝スペインの国王としては5代目に当たります。

スペインで勃発した9月革命をめぐってイザベル2世はフランスに亡命。スペインは国王不在となってしまいます。イザベル2世は退位を表明し、息子であるアルフォンソを後継者として指名するが、将軍フアン・プリムはこれを認めませんでした。

そして、アルフォンソに変わってスペイン王後継者として名前が挙がったのが、レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲンという人物。彼を推挙したのがプロイセン王であるヴィルヘルム1世とビスマルク。レオポルトはヴィルヘルム1世と同じホーエンツォレルン家の出身でした。

フアン・プリムもこれに賛同し、レオポルトがスペイン王後継候補者となります。

ですが、フランス皇帝であるナポレオン三世からすれば、自国が「ホーエンツォレルン家」の王国で挟まれる形となります。両国が組んで自国に攻め込まれたのではたまったものではありませんから、ナポレオン三世はこれに反対します。

ヴィルヘルム1世自身にもこの王位継承問題にはあまりこだわっていませんでしたから、ナポレオン三世からの要請をあっさりと受け入れ、レオポルトは王位を辞退しました。


エムス電報事件

問題はここからです。ナポレオン三世は、ここで納得しておけばよかったのですが、レオポルトが辞退した後、さらに同じ「ホーエンツォレルン家」からスペイン王位の継承者を出さないことをプロイセンに対して要求します。

この時ヴィルヘルム1世が静養していたのがドイツ西部の温泉地。ナポレオン三世はここに大使を派遣し、ヴィルヘルム1世との会見を求めるのですが、ヴィルヘルム1世自身はすでに一度ナポレオン三世に対して譲歩していますから、会見を求めた大使を拒否し、事の経緯をビスマルクに電報します。


電報を受け取ったビスマルクは、これを「普仏開戦」に向けて利用しようと考えたのです。

ヴィルヘルム1世より受け取った電報の一部を意図的に省略し、「非礼なフランス大使が将来にわたる立候補辞退を強要し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように文面を編集」します。

ビスマルクはこれを新聞に掲載し、さらに各国に向けて公表しました。ちなみに、この時点でビスマルクより「ロシア」「オーストリア」「イタリア」「イギリス」への根回しは完了しています。

フランス側からすれば、自国大使とヴィルヘルム1世とのやり取りが意図的に捻じ曲げられ、事実とは異なる形でビスマルクが公表したわけですから、当然のように腹を立てるわけです。

エムス電報事件以前から、フランス皇帝ナポレオン3世がオランダ王ウィレム3世からルクセンブルクを購入しようとしたことに端を発する「ルクセンブルク危機」などを通じてプロイセンとフランスの関係は悪化しており(一部はビスマルクによって意図的に仕掛けられたもの)、エムス電報事件によって両国民の敵対感情がさらにあおられることとなりました。

ルクセンブルク危機についての詳細はここには記しませんので、関心があればぜひ調べてみてください。

きっかけはすべてフランス側が作っているのですが、これをビスマルクに利用される形でフランスは挑発され、見事なまでにビスマルクの術中にはまってしまいます。

この時点でプロイセン(北ドイツ連邦)側の戦闘に向けた準備は開戦後、連合を組むこととなる南ドイツ3カ国も含めて準備万端。

一方のフランスはプロイセンを甘く見たまま、ビスマルクに挑発されるままに1870年7月19日、プロイセンに対して宣戦布告することとなりました。


次回記事では、改めましてナポレオン三世投降後の普仏戦争の経過とドイツ帝国誕生に向けた経緯まで記事にできればと考えております。



このシリーズの次の記事
>> 第425回 普仏戦争の終結とドイツ帝国の誕生~ドイツ帝国首相ビスマルク~
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