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第421回 統一ドイツへの道〜北ドイツ連邦と南ドイツの「ギャップ」など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第420回 プロイセン対オーストリア後編~普墺戦争と北ドイツ連邦~

さて。前回の記事において、いよいよいプロイセンによる北ドイツの統一まで進むことができました。

シリーズのテーマとしてはナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? としているわけですが、この謎を解くための手がかりとしてまず、そもそも「ドイツ」とは一体何なのかという命題に挑むことからスタートしました。

ここにきて、ようやく私自身としても得心のいく答えまでたどり着くことができました。

少しQ&A形式でこの問題の「答え」を示してみます。


Q.「ドイツ人」とは一体どのような人たちの事なんですか?

A.ドイツ人とは、「ゲルマン系の言葉」を話す人たちの集団です。


Q.「ドイツ」はもともとどんな国だったんですか?

A.「ドイツ」とはもともと「フランク王国」という国の一部で、フランク王国が武力によって獲得した地域の事です。フランク王国の東部に位置していました。フランク王国の王様(ルートヴィヒ1世)はこの土地を三男(ルートヴィヒ2世)に譲り渡しました。


Q.「ドイツ」とは、もともとドイツ人の国ではなかったのですか?

A.フランク王が占領し、拡大した領土には、占領される以前よりたくさんの国があり、ここに住んでいる人たちの多くが「ゲルマン系の言葉」を話していました。フランク人はゲルマン系の言葉を話す人たちのことを「ドイツ」と呼んでいましたが、この地域にはまとまった統治機構を持つ、国家としての「ドイツ」は存在しませんでした。


Q.もともとまとまった統治機構を持つ「ドイツ」は存在しなかったのに、どうしてドイツ人たちはまとまった一つの国を作ろうとしたのですか?

A.ナポレオン戦争後、ドイツ(元東フランク王国の領土)の北東に、「プロイセン」という国がありました。プロイセンという国の領土は飛び地になっていて、同じプロイセンという国の2つの領土の間に、プロイセン以外の国が存在したため、プロイセンは自国の領土から領土に物資を輸送するとき、通過する国に対して関税を払わなければなりませんでした。

「ドイツ」という国が統一に向けて動き始めたのは、「プロイセン」という国が感じた不便さを、プロイセン自身が解消しようとしたことが原因です。



Q.プロイセンという国の利益にしかならないのに、どうしてプロイセン以外の国はプロイセンと同じようにドイツを統一しようと考えたのですか?

A.プロイセン以外の国々は、必ずしもすべての国がドイツを統一しようと考えていたわけではありませんでした。ドイツそのものを統一しようと考えていたのは、それぞれの国よりもむしろ、プロイセンの動きに触発された、それぞれの国に住む国民、「ドイツ民族」です。


Q.プロイセン以外の国々は、ではドイツを統一しようとは考えていなかったのですか?

A.プロイセンも、もともとはドイツそのものを統一しようとは考えていませんでした。プロイセンが望んでいたのは、自国領土間で物資を輸送する時に、関税を払わなくてもよいようにすることです。プロイセンの動きは他の国々にとっても悪い話ではなかったので、プロイセンと他の国々は、「関税同盟」という同盟関係を結びました。


Q.それでは、なぜドイツ諸国はドイツを統一しようと考えたのですか?

A.プロイセンがドイツ経済の統合へ向けて動き始めたことと時を同じくして、ドイツ各地で民族による「ドイツ民族の統合」を目指す動きが活発になり始めたからです。特にプロイセンの首相となったビスマルクは、このようなドイツ各地の不安定さが、自国の統治システムにも悪影響を及ぼすと考え、武力によって自国以外の国家を制圧し、プロイセンの意思でドイツの安全ををコントロールできるようにする必要性を感じるようになりました。


Q.それでは、ドイツはどのようにして統一されたのですか?

A.プロイセンの首相であるビスマルクが、武力によって北ドイツを制圧したことによってドイツの統一は実現に向けて動き出しました。


これはあくまでも「北ドイツ連邦」の誕生までの動きを追いかけたにすぎませんが、凡そ的を射た概略だと思います。あえてオーストリアについては触れていませんが、単純に「統一ドイツ」の誕生のみを考えると、このような形になるのではないでしょうか。

ただ、意識しておいていただきたいのは、このシリーズ は、そもそも シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 を補完する目的で作成しているシリーズだということ。

シリーズ、ロシア革命とソビエト連邦誕生に至る経緯 では、レーニンやトロツキーらが発足させた「第三インターナショナル(コミンテルン)」が他国に与えた影響を検証する目的で、今シリーズ でテーマとしている「ドイツ」もまたテーマとしています。

第350回の記事第351回の記事第354回の記事 がそれです。

特に、第351回の記事 は第一次世界大戦後のドイツの様子を記しており、ここでドイツ皇帝と同時に「プロイセン国王」であったヴィルヘルム2世が退位し、「ドイツ」という国が帝政から共和制へと移行していく様子も記しています。

「ヴィルヘルム2世」は、ビスマルクが仕えた「ヴィルヘルム1世」の後継者であり、ビスマルク自身も、ヴィルヘルム1世が崩御(1888年)した後、1890年までの間、首相を務めています。

そして、ヴィルヘルム2世が退位するまでの間、少なくとも「プロイセン王国」という国は存在していました。

今シリーズ もついにその時代にまで近づいているということを意識しながらこれからの記事を読み進めていただけると嬉しく思います。

ヴィルヘルム2世


「統一ドイツ」誕生に向けた動き

この後ビスマルクは、さらに南ドイツと北ドイツ連邦の統合までを視野に入れて動くようになります。南ドイツの大国であるバイエルンでは、プロイセンよりの考え方を持つクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルストという人物が首相になりました。

例によってこの人物の詳細はネット上では見つかりませんので、では彼が一体いつからバイエルンの首相を務めていたのか、という情報まで知ることができませんが、少なくとも北ドイツ連邦が南ドイツとの交渉に入った時点でのバイエルンの首相は彼であった、という形でご容赦いただければと思います。


そもそも、プロイセン軍はなぜオーストリア軍に圧勝することができたのか?

話題を少しだけ普墺戦争に戻します。

いくらプロイセン軍が強いといっても、そもそもプロイセン側についたドイツ諸国は、北ドイツにある一部の小国にすぎず、プロイセンはオーストリアだけでなく、ザクセンやバイエルンをはじめとする大国をまとめて相手にしたのです。

これは最初からわかっていることでしたし、だからこそナポレオン三世もオーストリアの勝利を予測し、オーストリアと、終戦後の領土問題まで話し合っていたわけです。

にも関わらず、プロイセンがすべての国々に対して圧勝した最大の理由は、プロイセンで参謀総長を務めた「ヘルムート・フォン・モルトケ」という人物の存在が大きく影響していました。

彼はシュレースビヒ=ホルシュタイン戦争でも参謀総長を務めたのですが、彼が指揮したプロセイン軍は、オーストリア軍に対して産業革命の一つの集積ともいえる、「近代戦」を挑みました。

シュレースビヒ=ホルシュタイン戦争がどうだったのかというところまではわかりませんが、この時モルトケと対峙したオーストリア軍について、あくまでもWikiベースにはなりますが、普墺戦争における対オーストリア戦を決定づけた「ケーニヒグレーツの戦い」において、以下のように記されています。

ビスマルクが心血を注いだプロイセン軍は、丈夫で装填時間が短い鋼鉄製の後部装填式大砲や世界初の後装式軍用ライフルを装備し、装備の面でもオーストリア軍を遥かに凌駕していた。プロイセン軍の新兵器の圧倒的な火力と速射力の前に、従来通り銃剣突撃を繰り返すオーストリア兵は次々になぎ倒された。

これ以外にも、開戦に向けた準備として、「鉄道と電信」の敷設に力を入れるなど、すなわち兵器力の差が圧倒的であったわけです。


北ドイツ連邦と南ドイツ諸国

ホーエンローエの提唱により、ビスマルクは南ドイツ3国、すなわちバイエルン、 ヴュルテンベルク、バーデンとの間で、会議を行い、3国は「プロイセン型軍制改革」を行うことを決定します。

まあ、そりゃそうですよ。自分たちが普墺戦争においてなぜ勝利することができなかったのかという理由を分析すれば当然の判断だと思います。

この段階で軍事面での統合は実現的なものとなったのですが、ビスマルク・・・というより、プロイセンがもともと実現しようとしていたのは「経済面での統合」。ビスマルクはこれをプロイセンが主導して実施しようと考えていたのです。


ここで押さえておきたいのは、ビスマルクが武力によってドイツ統一を図り、少なくとも北ドイツの統合には成功したということ。これは、逆に言えばこのようなビスマルクのやり方に反発する考え方もある、ということです。

ビスマルクも元々は「プロイセンナショナリズム」をモットーとしており、武力によって制圧することで民衆による独立運動を封じる目的があってドイツ統一に向けて動き出したわけです。

特に北ドイツ、プロイセンの首都である「ベルリン」では、「ドイツナショナリズム」に基づいて武力蜂起がおこり、ドイツ政府はこれに翻弄されてきたわけです。

ところが、もう一方の武力蜂起が起きた「オーストリア」はどうだったでしょうか? オーストリアの首都「ウィーン」で起きた武力蜂起では、「ドイツ民族による統一」ではなく、ハンガリー(マジャール人)やチェコ(スラブ人)らによる「民族の独立運動」がその理由となっていましたね?

フランス第二革命をきっかけとして起きた両国の「三月革命」でしたが、ベルリン革命とウィーン革命は全く性格を異にしていたということです。


「ドイツ関税同盟」を通じて見えてきたこと

ビスマルクは、南ドイツ経済を北ドイツ連邦と統合する方法として、南ドイツの民衆の力を利用しようと考えます。

「関税同盟」の中に普通選挙による民選議会「関税議会」なるものを設置し、議員を国民に選択させることで、ビスマルクのドイツ統一へ向けた動きを嫌う勢力(邦国分離主義)を一掃し、軍だけでなく、経済においてもドイツを統合しようと考えたのです。

ビスマルクは「大ドイツ主義」、即ちオーストリアを中心とした関税同盟の結成を目指す勢力はこのような邦国分離主義者たちであり、国民の多くはドイツ国民としての統一を望んでいるはずだ、と思い込んでいたわけです。

ところが、実際にこの選挙を実施してみると、ビスマルクの想定を大きく外れて南ドイツではビスマルクが排除しようとした「邦国分離主義者」たちが多数を占め、つまり「ドイツ統一」を願う国民よりも「自国の独立」を願う国民のほうが多いことが証明されてしまったんですね。

このような現状から見ても、もともと「北ドイツ」と「南ドイツ」では国民の考え方が違っていたんでしょうね。

そう。「プロイセン」と「バイエルン」の間でも。


改めて 「プロイセン人のルーツ」に関して記した記事 までさかのぼっていただきたいのですが、そもそも「プロイセン」という言葉の語源はドイツ国内にはなく、もともと「ポーランド」北東部に位置する「プルーセン」。

そして、ここにいる異教徒たちを退治するためにポーランド国王が当時ハンガリーにいた「ドイツ騎士団」を呼び寄せ、プルーセンまで派遣し、現地を征服したドイツ騎士団が作った「ドイツ騎士団領国」がそもそもの「プロイセン」のルーツでしたね。

プルーセン人を同化した「ドイツ騎士団」すらプロイセンより追放され、ポーランド国王の下で初代プロイセン公となった元ドイツ騎士団総長もその血筋が途絶え、現在の「ドイツ」の一部に封じられていたブランデンブルク公がプロイセン公を継承し、やがて「ブランデンブルク=プロイセン」全体がプロイセンとみなされるようになりました。

ポーランド北東に位置した「プルーセン」を語源としていながら、ビスマルクが首相を詰めた「プロイセン」はそこに住んでいる人も含めてもはや「プルーセン」とは全く関係のない人々で構成される、民族としては「統一性のない」人たちで構成されるようになっていたのです。

ところが、「バイエルン」は違っていましたね?

第374回の記事 で記したように、元々は中央アジアの草原に住んでいた「ケルト人」(ボイイ族=バイエルン人)で、中央アジアから移住してきた彼らが、同じケルト人が築いていたノクリム王国(現在のバイエルン)に移住し、定住することとなった地域が「バイエルン」。

考えると、バイエルンは、結局「ケルト人」によって作られた国で、同じ民族同士で同化が進んでからは、非常に排他的な民族となるんですね。

その後、フランク王国や東フランク王国に支配され、フランク人たちとの間で混血が進む歴史こそあれ、バイエルンはやっぱり「ケルト人の国」なんでしょうね。


「プロイセン人」のルーツはもともと「ドイツ騎士団」ですから、彼らを縛る要素は話す言語しかありませんが、バイエルン人は国民として、きちんと血筋にルーツを持っているわけです。

それが、今回の「関税議会」をめぐる選挙でもはっきりと表れたのでしょう。

この選挙は1868年2月から3月にかけて行われたのですが、翌1869年に行われたバイエルン議会選挙でも独立派が圧勝。これをめぐり、ビスマルクと歩調を合わせてきたホーエンローエは辞任に追い込まれ、バイエルンでは再びオーストリアと連携する「大ドイツ主義」の考え方脚光を浴び始めます。

民族としては北ドイツ連邦というざっくりとしたくくりより、オーストリアに住むドイツ人のほうがよほど近いわけですから、当然といえば当然なのかもしれません。

このことから、ビスマルクはドイツ人を「ドイツ民族」としての一体感を持たせるためには、ドイツ民族以外からの「外圧」を加える以外に方法はない、と考えるようになります。


さて。次回記事では、ここからさらに「普仏戦争」、そして「統一ドイツの結成」へと話題がを進めようと思います。

「普仏戦争」ですか・・・。何となく、この後の展開が予測できるような話題ですね。

このシリーズの次の記事
>> 第422回 普仏戦争の勃発~スペイン王位継承問題とエムス電報事件~
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>> 第420回 プロイセン対オーストリア後編~普墺戦争と北ドイツ連邦~

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