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第420回 プロイセン対オーストリア後編~普墺戦争と北ドイツ連邦~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第419回 プロイセン対オーストリア前編~普墺開戦に向けた動き~

前回の記事 の続きです。

バート・ガスタイン協定によって「シュレースヴィヒ」と「ホルシュタイン」を各々が統治することとなったプロイセンとオーストリアですが、秘密裏にフランス、イタリア、ロシア、そしてハンガリーの革命家とも接触し、密約を結ぶプロイセン。

一方でバート・ガスタイン協定締結下にありながら、自国が統治するホルシュタインでのホルシュタイン独立に向けた集会を許可し、また公然とドイツ連邦会議にバート・ガスタイン協定の破棄を提案するオーストリア。

フランスはプロイセンと盟約を結んでおきながら、同時にオーストリアに普墺戦争後の取引を持ち掛けます。この滅茶苦茶な状況の中、プロイセン軍はホルシュタイン進駐を決行。ドイツ連邦諸国の大半がオーストリア側につき、プロイセンはついにドイツ連邦を脱退。いよいよ普墺開戦と相成ります。


普墺開戦!

プロイセン

再びこの地図を使いながら話題を進めていきます。

既に話題にしていますし、話題にした記事を読んでいない方にもおおよその予想はできていると思いますが、結論を先に述べますと、この戦争はオーストリア側についた連邦諸国やオーストリアの勝利を予想したナポレオン三世の期待を裏切り、プロイセンが勝利します。

記事は年表形式で進めます。

1866年6月15日
 14番、ホルシュタインを占領。
 同日、プロイセンは13番ザクセン、4番ハノーファー、6番の右半分ヘッセン・カッセルに宣戦布告。

6月16日
 3国に侵攻を開始。

6月17日
 ハノーファー首都を占領し、同国政府を掌握。

6月18日
 ザクセン首都ドレスデン占領。

6月20日
 「普伊秘密協定」により、普墺開戦となった際、参戦することを約束していたイタリアがオーストリアに宣戦布告。(第三次イタリア独立戦争)

6月21日
 ヘッセン・カッセル陥落

6月29日
 ハノーファー軍降伏(ハノーファー王国滅亡)
 10番オルデンブルク、4・13・16番で囲まれた黄色い領土ブラウンシュバイク、9番メクレンブルク投降(ドイツ北部征服)

7月3日
 ケーニヒグレーツの戦いでオーストリア軍大敗。

7月10日
 プロイセン軍、バイエルン(3番)国境付近バイエルン領内にて第7軍団を撃破。

7月10日
 プロイセン軍、フランクフルト(ヘッセン・ダルムシュタット内)、ヘッセン・ナッサウ(6番西側)を占領、フランクフルト政府(ドイツ連邦議会)を解散。(ドイツ西部征服)

7月20日
 ヘッセン・ダルムシュタット(5番)攻略。

7月28日
 ヴュルツブルク(バイエルン領内)占領。(ドイツ西部戦終結)

さて。ここまででドイツはほぼプロイセンによって占領され、残された領土はバイエルン、オーストリアの他、バーテン(2番)、ビュルッテンベルク(17番)、他、1番と7番。つまり、「南ドイツ」のみとなっていることがわかります。

実際にオーストリアとプロイセンとの主戦場となったのは現在のチェコ西部。13番のザクセンと3番のバイエルン、そしてバイエルンから南東へと連なるオーストリアの3つの領土で囲まれたグレーの地域、「ボヘミア」でした。この当時、チェコはオーストリア領となっていましたね。

上表のうち、7月3日の部分を赤色で示していますが、この「ケーニヒグレーツ」こそがボヘミアにある都市の名前で、この戦いにおける大敗が、オーストリアにとっての敗戦は決した形となりました。

この大敗を受け、オーストリアの勝利を予測していたナポレオン三世が、両国に対し調停者になることを申し出ます。これは、もしこの申し出を断れば、フランスがこの戦争に介入してくることを意味しています。

プロイセンとしては、ウィーン目の前にした状況ではあったものの、物資が不足し、その調達を占領地において行ったため、これらの地域では地元民による蜂起が発生するなどし、オーストリア国民との間での武力衝突が発生する恐れがあったこともあり、オーストリアも、プロイセンも講和を望む状況が出来上がっていました。

ビスマルクとすれば、北西ドイツ各地を占領し、フランクフルトドイツ連邦政府まで解体させたわけですから、戦果としては申し分なかったのではないでしょうか。

結果、ビスマルクはナポレオン三世の仲介を飲む形でオーストリアとの間で講和条約(プラハ条約)が締結されることになります。

講和条約は、調停者となったナポレオン三世、及び対戦国であるオーストリアに配慮する形で行われ、ドイツ連邦は解体。ザクセン以外の北ドイツ諸国はプロイセンに併合されました。(1866年8月23日)(地図と若干一致しないエリアもありますが、現在の私には検証する時間と情報が不足しています)
※ヘッセン公国(ナッサウ・ダルムシュタット)は表上では占領した地域としていますが、講和条約ではプロイセンに併合されてはいません。

オーストリアはイタリアとの間でも講和条約を結び、ヴェネトをイタリアに割譲しています。

ビスマルクはドイツ革命を他国のように民衆側から起こすのではなく、「政府」が主導し、見事にこれを成し遂げたわけです。彼はプロイセン人の「英雄」となりました。

そして、図らずもこの形態はずっとビスマルクが望んでいた「ドイツ」の在り方そのまんまですね。私のブログ的にも齟齬が結局生まれることはありませんでしたね。


「北ドイツ連邦」の誕生

北ドイツ連邦
こちらは、「北ドイツ連邦」の地図です。赤い枠線で囲まれたエリアが「北ドイツ連邦」です。

条約が締結された同じ月である8月末には条約によって併合されなかった国も含めて、「北ドイツ」の国々が「北ドイツ連邦」を立ち上げることとなります。これにはザクセンも参加しました。

「連邦」という形をとっていますが、北ドイツ連邦はドイツにおいてはじめて、一つの憲法によって統一された「国家」としての様式を持つ「統一国家」が誕生したことになります。

「ドイツ連邦」という形はとっていながら、実際には「ドイツ関税同盟」の在り方に左右され、統一国家ではなく「同盟」としての関係にすぎなかった普墺戦争前の状態とは異なります。

当然それぞれの「国家」としての権能は「北ドイツ連邦憲法」によって制限されることになります。

ビスマルクはこの「北ドイツ連邦」の首相となりました。ヴィルヘルム1世はプロイセン王国の首相と同時に北ドイツ連邦の「連邦主席」となりました。


次回記事では、ここからさらに南ドイツも統一され、真の「統一ドイツ」が誕生するまでの様子を記事にしてみたいと思います。


このシリーズの次の記事
>> 第421回 統一ドイツへの道〜北ドイツ連邦と南ドイツの「ギャップ」
このシリーズの前の記事
>> 第419回 プロイセン対オーストリア前編~普墺開戦に向けた動き~

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このシリーズの一覧をご覧になりたい方は>>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか? よりご確認ください


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