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第419回 プロイセン対オーストリア前編~普墺開戦に向けた動き~など、政治・経済を中心とした日常的な情報を、独自な視点で解析します。

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この記事のカテゴリー >>ナチスドイツは一体なぜ誕生したのか?


<継承する記事>第418回 普墺戦争勃発に至る経緯~ガスタイン協定後のプロイセンとオーストリア

冒頭に、少しだけ前回の記事のおさらいをしておきます。

問題はプロイセンとオーストリアが連携して行った「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」と、その普墺がちょくぜつ激突する「普墺戦争」。こんの二つの戦争が起きるまでの間に一体何があったのかということです。

年表で少し整理してみます。

1864年2月1日 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争開戦
1864年7月1日 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争終結
1864年10月   レヒベルク失脚(オーストリア)
1864年2月   2月宣言(プロイセン:ビスマルク)
1864年5月27日 ヴィルヘルム1世による両公国併合に関する宣言
1865年7月   エステルハーツィ政権誕生(オーストリア)
1865年8月14日 バート・ガスタイン協定締結
1865年8月末  ビスマルクとナポレオン三世の会談
1866年1月23日 ホルシュタイン公国におけるアウグステンブルク公派の集会の開催
  →ビスマルクによる抗議
1866年2月21日 オーストリア御前会議においてプロイセンに対する譲歩を行わない決定が行われる
1866年2月28日 プロイセン御前会議において、対オーストリア開戦不可避の認識が示される

そしてこの後、1866年6月14日、普墺開戦と相成ります。

ビスマルクとすれば、そもそも国が国としてどうあるべきかを大切にしていたのに、シュメルリンク政権退陣後、急にすり寄ってきたエステルハーツィ政権のことは、内心信用してはいなかったのでしょう。

この後、ビスマルクの考え方は「プロイセン=ナショナリズム」から「ドイツ=ナショナリズム」へと変化していきます。

プロイセン主導で、政治的にドイツを統合することを目指すようになったわけですね。


本日の記事では、形式的に「普墺戦争」が勃発し、これが終結していくまでの流れをなぞる形で記事にしてみたいと思います。


普墺戦争勃発までの流れ

ビスマルクは、御前会議の後、まずはイタリアとの間で協定を結ぶ動きを見せます。

第387回の記事 以降の記事でたびたび話題にしている「ウィーン三月革命」ですが、このウィーン三月革命は、学生運動を発端として、その後オーストリアから「ハンガリー(マジャール人)」、「チェコ(スラブ人)」に加えて、「北イタリア(イタリア人)」がそれぞれ民族独立に受けた運動を展開したものであったことを記事にいたしました。

そして、「イタリア」でもまた1848年にイタリア統一へ向けた「革命」が巻き起こっており、経緯は一切割愛しますが、1861年に統一された「イタリア王国」が誕生しています。

ですが、このイタリア王国でも、オーストリア領土である「北イタリア(ヴェネト)」は問題となっており、この問題を餌として、ビスマルクはナポレオン三世了承の下、イタリアとの間で「普伊秘密協定」を締結しています。

これは、普墺開戦となった際、イタリアも同戦争に参加することを約束した協定です。

また更に、ドイツ領内に対しては、「普通・直接・平等選挙によるドイツ国民議会の創設」を提案します。これは、ドイツ領内の自由主義者や民族主義者たちの支持をプロイセンにつけるためです。

一方のオーストリアは、ガスタイン協定を破棄し、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン両国の問題をドイツ連邦会議に付託するべきだ、との提案を行います。

ドイツ関税同盟は更新されており、仮にドイツ国民会議が創設されたとしても、オーストリアは蚊帳の外ですから、オーストリアがこれに反対することは端っからビスマルクには分っていましたし、逆にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題を連邦会議に付託すれば、当然両公国はアウグステンブルク公領として独立してしまうことが分かっていました。

つまり、この二つの提案は、普墺両国がそれぞれ相手国にネガティブな印象を植え付けるために行われた提案です。

プロイセンからの提案は1866年4月9日に、オーストリアの提案は4月25日に行われます。

一方でビスマルクは自由主義者たちを取り込むため、ドイツ国民会議の提案を行ったことから、ロシア皇帝から「革命主義者なのではないか」と疑われ始めていました。

このことから、彼は自身の暗殺事件ども利用し(自分は革命勢力から命を狙われるほどの立場にある)、ロシア皇帝の取り込みを図る中で、同時にオーストリアから亡命しているハンガリーの反墺革命家とも交渉を行ったりしていました。

で、さらにビスマルクと協定関係にあるはずのナポレオン三世は、自国がプロイセンに対してもオーストリアに対しても中立を保つ代わりに、ビスマルクが普伊秘密協定において領土問題の解消を約束したはずのオーストリア領北イタリア(ヴェネト)を、オーストリアが勝利した暁にはフランスを介してイタリアに変換させることを約束させています・・・って、何が何だか、もう滅茶苦茶ですね。

ナポレオン三世は、ビスマルクと様々な盟約を行っておきながら、内心プロイセンは不利である、と考えていたんですね。

オーストリア戦勝後には南西ドイツとオーストリアが連名し、新しいドイツ連邦を作るところまで頭に入れていたようです。


普墺開戦に向けた動き

ビスマルクが普墺開戦の拠り所としたのは、図らずもオーストリア側が行ったガスタイン協定の破棄。シュレースビヒ=ホルシュタイン両公国の問題を連邦議会に委ねたことにありました。

これをビスマルクは「自国への挑発である」として進駐軍を結成し、ホルシュタインに進軍し、進駐させます。(1866年6月9日)

一方、オーストリアは「ドイツ内部の安全と連邦加盟国の権利を守るため」として「連邦軍動員案」を提出。他のドイツ領国の多数(全国ではない)がこれに賛同し、6月14日、この案が可決されます。

そう。この時点に至っても尚、ドイツ領各国はプロイセンではなく、オーストリア側についたんですね。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でも、各国は開戦に反対し、最終的に「プロイセンが主導する」普墺軍によって戦争は行われましたから、このあたりを考えても、ある意味予測された結果なのかもしれませんが。

つまり、ドイツ領に対して影響力を持っていたのは、実はプロイセンではなく、オーストリアであったということ。これは意外ですね。

今シリーズ の大元のテーマである「ナチス」出身地である「バイエルン」も、もちろんこの時点ではオーストリア側についた、ということです。

そしてビスマルクは、オーストリア案に賛同したドイツ諸国に対し、これがプロイセンに対する「宣戦布告」であるとし、オーストリア案に反対した他の連邦諸国と新しいドイツ連邦を結成することを宣言し、ドイツ連邦から脱退してしまいます。

これをもって、ドイツは「プロイセン軍」と「オーストリア軍」に分かれ、ついに普墺戦争開戦と相成ります。

普墺戦争 />


少し記事が長くなりそうなので、記事を分け、普墺戦争本戦とその後のドイツについては記事を分け、次回記事にて記したいと思います。


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